内ぶところに入ったときに月山が彼方に聳えるように、月山を忘れているときに、不意に月山が姿を見せるように、生の只中にいるとき、死をほとんど忘れているようなことそのことが、即死である(全くその裏返しも同じことである。そして死でないものが、どうして生であろうか、ということにもつながっている。このことの方が根本であるようにも思える)ということは、この作品の大きな“組立て”であるばかりではない。実はその組立ての連続がこの作品だ、というふうになっている。(連続というのは誤解の元だが、一応そうしておこう)もしそうでなければ、どうして“私たちの姿というものを”、一個の作者が示すことが出来るであろうか、というふうになっているのである。
およそ文体というものは、たぶん部分と全体とがその態度を同じくしているということであって、このことは珍らしいことでもない。ところがその部分の示す内容と、全体の示す内容とが、同じように人々の存在にかかわる論理という質そのまま、まとめて含んでいるということは実に稀有のことである。
じっさいは人々はどの人も存在しているという意味でレッキとした人間であるというのだから、生老病死から免がれることが出来ないことでも分るように論理を内に秘めている。そして人自身は、人があることは、それぞれ物語を語ってみせ、存在の論理さえも説いてみせることはみせるけれども、ここでいうところの部分というものではない。部分の破片に過ぎない。作者はそう思っているように思われる。お前は何をクダを巻いているのか、と思う人があるかもしれない。そこで例をあげて説明するつもりであるが、ここで一つその前にいっておいた方がいいことがある。
私は前に「平家物語」などを例にひいたが、漱石の「草枕」のことを考えてみたらどうか。「草枕」がどんなふうに始まるかは誰しも知っていることで、確かあれは俳味というか禅味というか、そういう世界に結着を見出していたようである。ところが晩年に「道草」や「明暗」を書くようになった。そこであの「明暗」という作品をもう一度、「草枕」の書き方に移して、書いたらどうなるか、ということを空想してみる。「明暗」は「生死」と置きかえても根本的には同じことであろう。
「明暗」ではエゴイズムを見透す眼がいつも光っている。この小説は重層的に進められていることは、漱石自身も認めているが、光のさす方向が単一である。津田が何かいいお延が何かいう瞬間に忽ち光が息をつかせぬように放たれてくる。天からの眼かもしれない。死からの眼かもしれない。彼は午前中に「明暗」を書き、午後絵筆をとり漢詩を作る。その漢詩で疲れを休めたとも、そうでないともいわれている。私はそのへんのところは、まだ自分の眼でたしかめてないから何ともいえない。午後の漱石が翌日の午前中の漱石の基盤になったとしても、二つの漱石というものはあったように思える。そういうひとりよがりの前提に立ってのうえであるが、そうするとこの二つが“明暗”ともとれないことはない。「明暗」という作品ではなくて、この二つの漱石の内容が、ひょっとしたら、人間存在そのものではないか。そうすると光に当てられて浮んだ痛々しいエゴイズムというものは、その断片をとってみたとき、破片であって、全き構造をなしてはいない。部分というものは午後や夜の漱石と午前の漱石との一日をさす。私は不埒なことをいっているようにとれるかもしれないが、漱石の名をあげたのは「月山」という小説がひどく大ざっぱにいったとき、「草枕」に似ているが、「明暗」をへた「草枕」だということをいいたいからである。
「月山」の中で、全体(或は部分ともいえるが)というのは、その地形の動きであったり四季のうつりかわりであったり、吹雪であったり、紅葉であったり、地獄のように見える夕焼であったりする。そこに出入りするカラス(ドブロク買い)や乞食(行商人)や、富山(薬売り)や、燕や小川のせせらぎや、遠く見えるバスのかかわる世界であったりする。たった一つ落ちたままになっている橋にかかわるものであったりする。勿論月山や鳥海山や十王峠や、大網や、肘折温泉のかかわるものをふくめてのことだ。それらは、ここに登場する「私」のまわりの人々の存在や仕方や変転とどこか同じような仕組みをもっている。吹雪は必ずしも悲しいものではなく、それは仲間ともなる。吹雪くときにかえって人々は働く。(そしてその奥にあるものが円かな月山である)夕焼が地獄とうつったのは、「私」が天の虫たる夢を見ていたからだったのかもしれない。そうならば、地獄と見えなければならない。「私」が別世界に入ってくると、“自然”も人も色々な“まやかし”のような相貌を呈しはじめる。しかし「私」は、なるべく受け入れ、様子を見て行こうと思っている。だんだんと分るが、まやかしというのは生きている姿の現われだということで、私もまた税務署員だと思われていたりする。ここでもう一度はっきりこの作品の特徴をいっておかなくてはならないのは、自然もまた生きていて人間の諸相の仕組みと同じものをもっているという実に確固とした頑固ともいえる考えに立っていることである。
聳える林檎の木の小さな石のような実、寺にとんできてくっつき悪臭を放つ無数のカメ虫。作者はそこに立脚して一貫して作品を創造しているわけであるが、実は登場人物はまたみんなそのことを心得て暮している。訪れてくる行商人さえも、そのことを口にするほどである。(この心得ているということについては、私たちのまわりのあらゆる人たちは自分の住む世界においては、一応は心得ているものだ。行商人のように心得ていることで仲間に入った顔もするし、そのことが、また煙ったがられたりする理由にもなるものだ)自然とはいえないが寺男のじさまがいつも余念なく削る箸にしたって同じようなものである。食事を口に運ぶばかりでなく不浄のものをはさみとる道具であるし、浄めの道具でもあるように思える。これはまた、お布施の礼として配るものでもある。箸そのものがそのようにしてじさまの手で作られている。それは友人の源助の口から分らされたり、じさま自身の口から語られる身の上ともつながりがあるといったぐあいである。こういうふうに書いてくると凡てにわたることなのでキリがないのである。作者の興味、しくみ、そういう物も自然も人物も、それとしての生の論理をもっているし、また物語さえもっている。ところが私の前で彼等は物語を忘れるかの如く、消す如く転化する如く見えている。それが彼等の生きている姿である。こういうときに、彼等の結びつき合う世界は、この別世界の中で一つの積極的な組立てを見せる。「私」をほんとうに刺戟するのは、そういう場合だ。勿論作者は「私」をそういう刺戟に立ち会わせ、生甲斐を感じさせ、ことによったら、別世界へ来た真の目的であることをあかしているのかもしれない、と思わせるのである。
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