書評

叙述トリックの名手がいざなう 「読むこと」の快楽とサプライズ

文: 吉田 大助 (ライター)

『侵入者』(折原 一 著)

 構造上のギミックは、冒頭のみで終わらない。「わたし」の語りはある時点で、人語を操る怪物「おれ」の語りにスイッチする。では「おれ」の語りの聞き手となったのは誰か? 「わたし」、すなわちフランケンシュタインだ。「おれ」の語りの、聞き手となった「わたし」の、書記係となったウォルトン。こうまとめると、ウォルトンの元に届けられ書き留められた情報は、伝言ゲームのような形で何重ものフィルターを通過していることが分かる。さらに物語内にはさまざまな文書や証言が混じり合い、ポリフォニック(多声的)な展開で満たされる。その結果、何が起こるか。リアリティの乱反射により、真偽の境界線がぐらぐら揺らぎ出す。再び廣野由美子の言を借りよう。

〈『フランケンシュタイン』は、「語り」という小説形式特有の構造に立脚した作品であると言える〉

……折原一の小説、そのものではないか。

 折原作品には手紙や手記、新聞記事や年表、小説やシナリオといったテキスト群が無数に召喚され、登場人物が読んだ文章と同じものを、読者も読むことになる。それは登場人物と読者をへその緒で繋ぐのと同時に、リアリティ(それぞれの状況・人物が主張する「正しさ」)を乱反射させる効果がある。さらには一人称による(複数の)語りと三人称の神の視点とが混ざり合い、彼が言うことと彼女が言うことは違う、そこから一歩引いた神の視点ではまるで違った絵図が浮かび上がる……と、ポリフォニックな響きがさらに高まることとなる。

 こうしたテキストと語りの重層性を、「実験的」と呼ぶ人もいるだろう。だが、その言葉から連想しがちな、初心者厳禁、という感触は折原作品において皆無だ。むしろミステリーを読み慣れていない、もっと言えば小説という表現ジャンルに関して初心者だという人にとっても、「入門」しやすい作品揃いなのではないか? なぜなら小説に不慣れな人にとって一番最初の、最大の突っかかりポイントは、「今自分が目にしている文章は、誰が誰に向けて語っているの?」だからだ。台詞ならまだしも、地の文で「僕は~」と語り出された瞬間、その疑問が否応無しに浮かんでしまう。

 その疑問に答えることは、案外難しい。小説を読み慣れた人ならば「そもそも小説ってそういうものだから」と答えるだろう。それは単なるコード(規定・規則・共通了解)の押しつけであって、初心者が納得できるはずもない。しかし折原作品は、今まさに自分でページをめくり読み進めている小説の文章が「書かれたもの」であることを、さまざまなテキスト群を召喚することによって明示する。そうすることで読者が物語にスムーズに入っていく手続きを取りながら──『フランケンシュタイン』の冒頭の四通の手紙──、「書かれたもの」それ自体に多様な仕掛けを施している。

 つまり小説において「実験的」と「入門的」は、両立できる。そのサンプルのひとつが、折原一の『侵入者 自称小説家』だ。

 本作は、実際に起きた事件からヒントを得て執筆された「○○者シリーズ」の第一〇作に当たる。シリーズの原点となる作品『毒殺者』の文春文庫版あとがきで、作者みずから『侵入者 自称小説家』のネタ元を割っている。二〇〇〇年に起きた「世田谷一家四人殺人事件」と、二〇〇九年に起きた「板橋資産家夫婦放火殺人事件」だ。二つの事件の共通点ははっきりしている。「未解決事件」であることだ(本稿を執筆した二〇一七年七月現在もなお)。

 その二つの殺人事件について、事実を詳細に調べ上げ関係者達に取材して真犯人を指摘する……という方向の想像力は、ノンフィクション作家の仕事だ。小説家でありフィクションの作り手である折原は、地理的条件等いくつかの要素を改変しつつ、

「もしも二つの事件の犯人が同一人物だったら?」という方向へ想像を進める。

侵入者折原 一

定価:本体880円+税発売日:2017年09月05日