別冊文藝春秋

『今晩泊めてくれないか』北尾トロ――立ち読み

文: 北尾 トロ

電子版15号

「別冊文藝春秋 電子版15号」(文藝春秋 編)

 七時前には。子どもが小学生なので、我が家は朝が早いのだ。出張という意識を強く持つべきだと考え、初日からスケジュールはめいっぱい。松本発八時の特急スーパーあずさ六号で新宿まで行き、日中は取材や打ち合わせで都内を動き回ってから神楽坂の事務所で原稿書きをした。

 荻窪着は午後九時過ぎ。ハンザワ君に連絡し、彼が使っているレンタルオフィスに案内してもらった。ワンフロアの空間に二十ほどのブースがあり、そのひとつを一カ月いくらで契約して使うシステムだという。ブースごとに備え付けの机とイス、電源があるほかは、共有の打ち合わせスペースがあるのみ。ブースごとの広さはマンガ喫茶より狭いけれど、集中して仕事をするにはいい環境かもしれない。大半が昼間の使用で、夜遅くまでいるのはごく少数らしく、僕が行ったときも人の気配は皆無だった。

「ハンザワさんっていい人ですね。たぶん、トロさんを泊めるために仕事を早めに切り上げてますよ」

 鍵のあけ方や退室の仕方を教わってから食事がてら飲み屋に入った。困っているところを助けてもらったのだから一杯ごちそうしたくなる。

「それ大事です。ボクもさっきおごってもらって、トロさんほとんど飲めないのに気を遣ってるなと思いましたよ。明日の晩もよろしくお願いします」

 うるさいよ。宮坂は食べて飲むだけだが、ハンザワ君はサービス精神があったね。乾杯するなり、数日前に好きな女性に振られた話を始めたのだ。

「ますます好感が持てますね」

 誰かに話したかっただけだとしても、それが僕だったことは嬉しかった。知り合ってから三年ほど経つが、ふたりで飲み屋に入ったこともなく、プライベートな話をするのは初めてだったのだ。ハンザワ君はまだ三十二歳だし、共通の話題にも乏しいので、たぶん仕事の話になるだろうと思っていたのである。これまで、どちらかというとおとなしい印象だったハンザワ君が、恋愛話から実家のことまで饒舌に喋るのを聞いていて、僕はこの男のことをライターとしてしか見てこなかったことに気付かされた。

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版15号文藝春秋・編

発売日:2017年08月18日


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