あたり前のことだけれど、人にはそれぞれの物語がある。考えていること、悩んでいること、夢中になっていることがある。しかし、それらは普段、表面には出てこない。隠しているのではなく出す必要がないからで、きっかけがあればスルスルと表に出てくるものだろう。ハンザワ君はビールを何杯も飲み干し、結婚ってどんな感じなんですか、独身の頃どんな女性と付き合ったんですか、田舎に帰ろうと思ったことないですかと、僕が普段考えもしないようなことを真剣に訊ねてきた。
答えながら、僕は自分が三十二歳だったとき、どんなことを考えていたか思い出そうとしたが、心に浮かんでくるのは、当時そばにいた人たちの顔だった。駆け出し時代を経てようやく仕事が軌道に乗ってくるにつれ、新しい人間関係がつぎつぎに生まれていた頃。ここにいる人たちと一緒に歳を取りながら、この先もやっていくものだとばかり思っていた。でも、仕事を通じて一瞬接近しただけの関係は長続きせず、大半の人とはすでに連絡が取れなくなってしまっている。もちろんそれでいいのだ。人は変わっていくのが自然で、同じ場所で固まってはいられない。でも、あの頃はそんなこともわからなくて、いまがずっと続くのだと信じ込んでいた。
そりゃあ、振られたら悔しいし落ち込む。でも不思議なことに、人はまた誰かを好きになるのだ。僕は三十五歳で結婚したけれど、それまでは付き合ったすべての女性に振られて終わった。だから心配するな、と慰めにもならないことを言ってまた乾杯した。
「適当っすね。本当に何の参考にもなりません」
ときどき合いの手を入れながら熱心に聞いていた宮坂に呆れられたが、ハンザワ君は僕にアドバイスを求めたのではなく、このへんまでは話しますよとサインを送ったのだから、答えなどいい加減でいいのだ。
店を出たら午前二時になっていた。ハンザワ君は徒歩で自宅へ、僕はレンタルオフィスに戻った。誰もいない深夜のオフィスは不気味に静まり返っている。ブースの電気をつけ、寝袋を広げる。机の下まで使ってやっと収まった。やれやれ、少しわびしい感じもするけどなんとか寝れそうだ。
「すんなり眠れたんですか」
任せてくれ。僕の数少ない長所はどこでも寝られることなのだ。睡眠力に自信がなかったらヤドカリ生活をしようなどとは考えなかったに違いない。
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