書評

闇の底できらめく人間の崇高さと歪んだ親子関係が生み出す悲劇

文: 朝宮 運河 (ライター・書評家)

『樹海』(鈴木光司 著)

『樹海』(鈴木光司 著)

 原田正吾は幼い頃から父親に罵詈雑言を浴びせられ、そのせいで人生に向き合う気力を喪失してしまった中年男である。外界を恐怖し、他人に流されるだけの半生にピリオドを打つため、バスに乗って樹海を目指したのだった。

「遍在」でとりわけ印象的なのは、樹海に散乱する色とりどりの遺留品の描かれ方だ。レジャーシートや傘、ポーチといった日用品が落ちているが、持ち主はすでにこの地にはいない。その異様な光景が、正吾の置かれた状況を際立たせている。

 本作がユニークなのは、正吾が自殺しても物語がまだ続くことである。ロープに首をかけ、ついに自殺を決行した正吾だったが、その意識だけはなぜかこの世に留まり続ける。その眼前で肉体がじわじわと朽ちていく。自殺者にとってこれほど、酷で苦しい仕打ちもないだろう。一読慄然とさせられる作品だが、著者はその先にさらに驚きの展開を用意している。

 二作目の「娑婆」は、自殺した正吾の遺留品を拾った女の物語である。父親から虐待を受けて育った井口輝子は、結婚して母親となったことで、自らが虐待の加害者になってしまう。息子に愛情を抱くことができず、声を荒らげ、暴力を振るう毎日。自らの行為を恐れた輝子はついに離婚を決意し、ひっそりと孤独な暮らしを送ってきた。輝子と正吾、樹海で関わりをもった二人の人生が、思いも寄らない形でリンクしてゆく。

 この冒頭二編だけでも、本書に漂う重くシリアスな雰囲気は伝わることだろう。本書の六編は樹海を扱っているだけに死の気配が濃厚で、暴力やネグレクト、孤独や貧困といったわたしたちが日々ニュースで目にするような、現実的な恐怖に満ちている。

 続く「報酬」はサスペンス色の強さで異彩を放つ作品だ。車のトランクで目を覚ました細田は、自分が全身に大怪我を負っていることに気づく。どうやら何者かによって暴行され、どこかに運ばれているらしい。しかし記憶が失われていて、詳しい事情は分からない。

 一方、暴力団員の竹村は幹部に命じられ、細田を処分するため夜の樹海へと車を走らせている。深夜の樹海で人知れず起こった事件を、細田と竹村の双方の視点からスリリングに描いてゆく本作は、暴力に憑かれた人間の悲喜劇といっていいだろう。ブラックで異様な味わいの結末は、米作家アンブローズ・ビアスの諸作を連想させ、読者に鮮烈な印象をもたらす。

 四作目の「使者」で主に描かれるのは、五年前あるスキャンダル報道をきっかけに芸能界を電撃引退した女優、篠沢遠子のインタビューである。遠子は現在、全身が徐々に動かなくなるALSという難病を患い、ひっそりと闘病生活を送っていた。

 そんな遠子に女として複雑な思いを抱いている雑誌記者の尚子、インタビューに同行した若手カメラマンの長谷川。たまたま顔を合わせたかに見えるこの三人は、実は奇妙な糸で結ばれていた。秘められた遠子の思いが胸を打つ一編だが、同時に運命の冷酷さを描いてもいるだろう。

 五作目の「奇跡」は「使者」とともに本書のクライマックスをなす力作だ。物語の軸となるのは、家族を捨ててホームレスとなった初老の男、矢掛弘の再生譚である。四十代で勤めていた会社を辞め、ペンション経営に乗り出した矢掛だったが、不運が重なり多額の借金を抱える。そこに息子の突然死という悲劇が追い打ちをかけた。息子の一周忌を目前に矢掛が選んだのは、妻と娘を捨てて失踪するという道だった。

樹海鈴木光司

定価:本体840円+税発売日:2018年02月09日


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