幻の本についての小説を書いてみたいと思っていた。
これは多くの小説家が一度は考えてみることではなかろうか。本にかかわる仕事をしているからこそ、本の中に本が登場する不思議さに心惹かれる。そういうわけで私は、作中に『熱帯』という幻の小説を登場させ、「『熱帯』という小説をめぐる『熱帯』という小説」を書いてやろうと目論んだのだった。いや、ほんの出来心だったのであります。
しかし書き始めて、これがたいへん厄介な題材であることに気づいた。
「幻の本」であるからには、それが「幻の本」である理由を説明しなくてはならぬ。作中に登場する『熱帯』にはどんな秘密が隠されているのか。そのことについて考えをめぐらせるうちに、そもそも本を読むとはどういうことなのか、小説とは何なのか、どうして自分は小説を書くのかといった、ちょっと手に負えない「根源的な問い」が、次々と作品の中へ入りこんできた。その結果として『熱帯』は脱出不可能な迷宮と化し、どうすれば元の世界へ帰ることができるのか分からなくなった。ああでもないこうでもないと苦しんでいるとき、『熱帯』が私の脱出を阻んでいる気配をひしひしと感じた。自分は『熱帯』を書くつもりだったが、どうやら逆に『熱帯』が私を罠にかけたらしい。『熱帯』とは、迂闊に近づく人間を難破させる「魔の海域」の別名であったのである。
ひとまず完成させた今でも、本当の意味で書き終えたとは思えない。
『熱帯』はまだ続いている。
森見登美彦
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