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スーさんの魔法の筆から繰り出される言葉の数々に、してやられる快感

スーさんの魔法の筆から繰り出される言葉の数々に、してやられる快感

文:中野信子 (脳科学者)

『女の甲冑、着たり脱いだり毎日が戦なり。』(ジェーン・スー 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #随筆・エッセイ

『女の甲冑、着たり脱いだり毎日が戦なり。』(ジェーン・スー 著)

 ところで、理系の大学院生というのは、その肩書の物々しさとは裏腹に(むしろ比例して?)実に地味な存在です。お金持ちの通う私立大学なら違ったのかもしれませんが、東京大学は私のような貧乏人でも試験に受かりさえすれば入学することのできる国立大学です。少なくとも、当時の東大は地味でした。いや、キラキラした子もいましたが、少なくとも、当時の私は地味でした。

 髪はほぼ起き抜けのまま、服はそのまま寝ても3日くらい洗わなくてもしわにならず丈夫で速乾性のあるジャージ素材の御徒町あたりで買った2000円くらいのワンピース、メイクも日焼け止めクリームに色のついた何かを無造作に塗るくらいで、アイメイクをするという発想がない。MRI室に入るので、金属粒子の含まれるアイシャドウやマスカラができないからです。アートメイクなんてもってのほかです。入れ墨談義が昨今では周期的に物議をかもすことがありますが、日本国であろうがなかろうが、洋の東西を問わず、入れ墨をしている人はMRIに入ることができません。強力な磁場により金属粒子で着色されている入れ墨の皮膚の部分に電流が発生しやけどを負うことになるからです。ダメ絶対。

 私の研究ではほぼ使いませんでしたが、分野によってはクリーンルームを使うこともあるのでそんなラボであればもちろんメイクはご法度です。単位体積あたりの粉塵を巨額の費用をかけて取り除いている特殊な清潔な部屋の中にあって、粉々しい自分自身が最大の汚染源になるからです。ウェットの実験(培養液を使ったりDNAを抽出したりするやつ)をする人ならコンタミのリスクが上がるのでネイルもダメです。

 そんな私たち理系女子はメディアでちやほやされる「リケジョ」とかとはワケが違うんだよ!! と、表立って言葉にすることこそなかったけれど納得できない何かを抱えつつお菓子学校に通うこともなくヴィヴィアン・ウエストウッドのリングを嵌めることもなくグッチのドレスが妙に似合ってしまうなんていうことも起こり得るわけがなく、同じくごくごく地味な大学院生の男子たちに囲まれて修道女のような日々を過ごし、それなりに何かは起こるものの、特殊な生態系が形成されている……それが院生生活でした。

 一方で東大にいる、理系の主要成分を構成する男子たちは、東京大学は本郷にあるというのになぜか「アキバ系」「つくば系(もはや東京ですらない)」と呼ばれたりしていました。今でこそ秋葉原は萌えの地として知られているようですが、当時のアキバは男性比率が9割を超える異様な雰囲気をなみなみとたたえた街区であり、実験用に使うスイッチを自作したりPCのパーツを換装したりするために研究室の学生が使う共用の自転車で走り回るような場所だったのです。ようやくメイドカフェがぽつりぽつりとできてきたかなあというくらいの時代。

 中野はそんな大学院を修了するやフランスの研究室に行ってしまい、帰ってきてからも企業に就職することなく現在に至っているので、社会に出る(この表現もいつも変だなあと思いながらも使っていますが)どころか就職活動というものすらしたことがありません。ますます、巷の女子との差は開いていくように感じられます。あきらめムード一色です。

 スーさんも、もう一般的な女子とはいえないかもしれません。

 しかし、それでいてこの文章はすごい。女がアラフォーとなって、自分の意思を守りながらも社会性を維持して生き延びていかなければならない。そのために必要な何かを「甲冑」と表現する言語感覚の面白さ。

 モテやキラキラに安易に流されることなく、それらを冷静に観察して、時にはそれに染まろうと四苦八苦しても、自分の中にある確実な自分自身をきちんと大切にできるスーさんだからこそ、こういう言葉を紡ぐことができるんじゃないかと思います。

 私はスーさんの語っている内容について、脳科学的な解釈をどうしても話してしまいそうになることがあります。特にラジオや、取材対応などではそういうことが起きます。

 けれどスーさんは絶妙なタイミングでそれを切ってしまう。そこから先を説明しだすとマニアック過ぎて読者がついてこられないよ、という配慮なのかもしれない。そもそも、スーさんがそういう、ドライすぎる理系な説明をあんまり好きじゃない人なのかもしれないけれど、やっぱりこれはスーさんなりの、不器用だけれど実効性のある、やさしさなんだろうと思うのです。

 他の人が同じことをしてもあまり響かないのですが、スーさんがそうするとむしろ心地よいのです。まるで、中野さんは脳科学の話なんてしなくても、ちゃんと話が面白い人だよ、無理に理系な説明なんてしようとしなくても、あなたの価値は私が分かっているよ、と言ってくれているような気分になる。まだるっこしいこともきれいごとも嫌いで、それはわかりにくいしきれいごとだよと喝破する知性を持った人だから、遠くにいてもいつでも、必要な時は分かり合えるという安心感をもって接することができる。

 スーさんは、きっと学生時代は同級生の女子たちからモテただろうなあ、という気がします。同性愛という意味合いとはちょっと違うのですが、一クラスに一人、こういう人がいるとすごく学校が楽しかっただろうな、とでもいいますか……。

 私たちが望むと望まざるとにかかわらず使い分けてしまう「甲冑」を、分析してわかりやすく解説してみせるスーさんの魔法の筆から繰り出される言葉の数々に今回もまた、してやられた、という気分です。そしてますます私はスーさんを好きになってしまうのです。

文春文庫
女の甲冑、着たり脱いだり毎日が戦なり。
ジェーン・スー

定価:704円(税込)発売日:2018年11月09日

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