この一冊には、実にさまざまな子どもたちの姿が映し出されています。「とんでもない。まんいんです」と声をはりあげて毛布の中で身を寄せあう子たち。近視防止のため、自転車で家の周囲をぐるぐる走る子。絵本に出てくる森の家の扉を、そっと開けてみる子。「おみそ」扱いでも機嫌よく絵本の輪に加わって、お兄さんお姉さんに褒められる赤ん坊。美術書に出てくる泰西名画の文字から、ハタ画伯に興味を抱く少女。『ふたりのロッテ』をうばいあって読むきょうだい。不眠症のお父さんのため、枕元でお話を語って聞かせてあげる娘さん……。
ページのあちこちから、元気いっぱいの笑い声が聞こえてきそうです。自分だけの世界の秘密を発見して見開かれた、小さな瞳の輝きが、一行一行を照らしているかのようです。ページをめくってゆくうち、そうした子どもたちの中に、遠い日の自分を発見することになります。私も彼らの仲間だったと気づきます。この本を読めば誰でも、かけがえのない子どもの自分と、再会できるのです。
何と心弾む再会でしょうか。とうに忘れたと思い込んでいたあれやこれやが、次々とよみがえってきます。土手を転がり下りながらかいだ、シロツメクサのにおい。お向かいの鉄工所のおじさんたちが手にしていた、鉄のお面へのあこがれ。図書室で借りた本を一刻も早く読もうと、わき目もふらず走って帰る私の背中で、カタカタ鳴っていたランドセルの音。それら記憶の底に潜んでいたものたちが、中川さんの言葉でそっとすくい上げられ、心の湖の水面まで浮上してきました。久しぶりに思い出してみると、何一つ損なわれることなく、あまりにも生き生きとしているので、新鮮な驚きを覚えるほどです。
この再会が幸福なのは、中川さんが子どもという存在を全肯定しているからだと思います。条件は何もありません。そこに子どもがいる。ただそれだけのことが尊いのです。中川さんの肯定の仕方は宇宙的です。どっしりとして揺るぎがありません。温かい両手に守られていながら、少しも窮屈ではなく、それどころか心はどこまでも果てしないところを旅しています。まさに、絵本を読んでもらっているのと同じ安らかさです。
本書のタイトル『本・子ども・絵本』を見つめていると、本と絵本の間にある広々とした野原を駆け回っている子どもの様子が、目に浮かんできます。安全であり同時に自由である、という矛盾しかねない状況が、無理なく一続きになっています。本と絵本はやすやすとそうした野原を作り出し、子どもたちを丸ごと受け止めます。
彼らがいかに物語の奥深くまで入り込んで真の楽しさを見出すか、中川さんは繰り返し書いておられます。ようやく這い這いをしはじめた頃、“全身これ喜びのかたまりといった格好で”、本を取り出す力仕事に面白さを発見するところからスタートし、やがて大人の膝の上を基地にして絵本の世界を旅する興奮を味わい、更にはその喜びを子ども同士で分け合いながらどんどん進化させてゆきます。とても大人にはかなわない能力です。
口もうまく回らない、文字も書けない子がなぜ、それほどまで絵本にのめり込めるのか、不思議な気もします。もしかしたら言葉を知らない幼い子の方が、意味やストーリーや主題、といった理屈に惑わされることなく、思う存分ページの海に飛び込めるのかもしれません。彼らがたどり着くのは、言葉が生まれる以前の地点です。便宜上、言葉でこう表しているけれど、本当は人間の考えた言葉など届かないくらいに深遠な場所。子どもたちは皆、そこへ至る道順を知っています。でも言葉が未熟なせいで、大人たちにそれを教えてあげられないのです。
彼らの秘密を探りたいなら、方法は一つ、絵本を読んであげる、これしかないでしょう。私は今、猛烈な後悔に襲われています。息子が小さかった時、どうしてもっとその時間をじっくり楽しまなかったのか。大事な秘密を共有できる絶好の機会だったのに、早く寝てくれないと、原稿が間に合わないなあ……という、つまらない焦りにとらわれていました。自分の原稿など放り出してお話の国を一緒に冒険すべきでした。息子の息遣いに耳を澄ましていれば、道順のヒントをかぎ取ることができたかもしれません。
ただし一方で、子どもが持つ慎重さについても中川さんは指摘しておられます。すべての本に彼らが満足するわけではなく、また、それを受け入れるには、一人一人異なった過程があります。
“新しい本には、ためつすがめつの時間も必要です”
私はこの、ためつすがめつ、という言葉が気に入りました。表紙を開き、絵を見やり、一度顔を上げて宙に視線を泳がせる、子どもの横顔が想像できます。迷いとためらいが、利発そうな影を作り出しています。そこでは、時間がその子だけの流れ方をしています。誰も邪魔できない特別な時間です。
だからこそ子どもが手に取る本は、本物でなければいけません。大人が勝手に要約したり、単純化したり、派手な見た目で誤魔化そうとしたものは、結局、見捨てられるでしょう。子どもたちは皆、賢いのですから。
“……正しい日本語がいちばんよく通じるということです。なぜなら、子ども自身が正しく話そうとしているからです”
正しい言葉によって組み立てられた舟でしか、言葉の届かない場所へ漕ぎつくことはできないのかもしれません。
長年、保育園にお勤めされた経験を持つ中川さんは、“絵本を読みながら子どもひとりひとりをしみじみと眺め、心の底から、ああ、何て良い子だろう、可愛いんだろう”と感じ入ったそうです。ここを読むと、遠い昔に去ってしまった自分の子ども時代も、後悔ばかりの母親としての経験も、全部が許されたような気持になります。例外なくかつては子どもだった読者の方々も、やはり中川さんの許しに包まれることになります。それどころか、全世界の子どもたちが皆、愛されているのです。
“子どもがいなくなったら地球はおしまいです”
これほどの真実をついた言葉を、私は他に知りません。
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