小沢さんと家族
矢野 お金にまつわる笑い話で思い出したのが、本に書いたこともあるんですが、バブルの最盛期にある化粧品会社から僕と小沢さんで、百人くらいの聴衆の前で喋ってくれと依頼されたことがありました。ギャラの額を聞いたら、これは小沢さんは受けないだろうと思っていたら、「こういう座談会や講演会は、現金で出してくれるから、額のことは言わないで、やろうやろう」って言うんです。そうしたら当日、化粧品会社の担当者が控室に来て、銀行口座を教えてくださいと言うんですね。そうしたら小沢さんは「そんなもん知りませんよ」と言って。
三田 名演技ですねえ(笑)。
矢野 対談が始まったら、開口一番「最近、原稿料なんかはみんな振込でしょ。こういう仕事は別なんですよ」と。僕が他の話題に持っていこうとしても「銀行振込がいかに日本の男を悪くしたか」って。要するにこれだけ言っているんだから、終わるまでに、かならず現金を用意してくると思っていたんですね。一時間のあいだその話だけ。でも終わって担当者が「口座のほうは後ほどお電話で」って言ったら、小沢さんは何も言わずにパーッと帰っちゃった。
三田 矢野さんがそのことについて書かれた文章をちょうど昨日読みました。僕がNHKのローカル局で働いていた二十代の時、初めて小沢さんと仕事をしたときは事前に交通費とギャラを現金でお渡しすることができたんですよ。その時、小沢さんが丁寧に領収証にサインしてくれました。銀行振込じゃなくてよかった(笑)。化粧品会社の人の前で不機嫌な態度をとったのは、たぶん小沢さん一流のいたずらだったと思うんです。でも、放浪芸の研究をしてきた小沢さんには、振込とか源泉徴収なんてものと関係のない投げ銭をもらうのが本来の芸人の生き方という思いがどこかにあったんでしょうね。だからそのとき、現金をその場で頂戴する、つまり業界用語でいうトッパライに並々ならぬ情熱を燃やしたんじゃないでしょうか。
加藤 若い時はお金で本当に苦労したと思う。写真屋をやっていたお父さんが早くに亡くなられて、お母さんだけになった。その直後に俳優座の養成所に入って、月謝は必要だし、早稲田大学の学費もいる。頭が良くて理数系を教えられたから、麻布の生徒十人くらいの家庭教師をやったりもしていました。他に保険の勧誘、出版社のアルバイト。とにかく活動的でしたね。そのくせ、苦労してつらい姿をこれっぽっちも見せなかった。
三田 小沢さんはご家族を非常に大事にされていましたよね。
加藤 まず、奥さんの英子夫人が本当に素晴らしい人なんです。彼女は晩年にアルツハイマーになった小沢のお袋さんの世話も献身的にやっていました。
矢野 小沢さんは我々にはわりにお母さまの話をしてくれましたね。深刻にならずにぼやき半分みたいな調子で。
加藤 そうそう。その時のお袋さんの物まねなんかもして深刻じゃなくて、面白おかしく話すんですよ。
矢野 自分がそういう立場になっても、あれだけ客観的かつユーモアも交えるということは出来ないと思う。それでいて本当にお母さま想いで……。
加藤 だから芝居で地方巡業のときもときどき東京に帰ってきていた。僕は偶然目撃したんだけど、飛行機で大阪から帰る時に、着陸してシートベルト着用のサインが消えた瞬間、ダーッと駆け出す男がいたんですよ。スチュワーデスが止めようとしたくらいの勢いで。それが小沢だったんですよ。どんなにお袋さんのところに早く行きたいと思っていたか……。感動的な場面を目にしました。小沢には黙っていましたがね。
向こうの世界に入れない
加藤 英子夫人は俳優座の養成所出身で、試演会で岸田國士の『かんしゃく玉』に出ていたのを観て、小沢が惚れたんです。
矢野 女優をやめさせちゃったわけでしょ。
加藤 俳優座の養成所っていえば、エリートコースです。それが女優をやめて小沢に一生仕える決心を固めたんだから。何と云って口説いたのか知りたかったですね。これぞ“剣も剣、切り手も切り手”ですよ。
三田 小沢さんご自身は、吾妻橋で浪曲の『唄入り観音経』をうなって口説いたんだって、一応公式には言ってるんですけど、真偽のほうは、どうも……(笑)。
矢野 半分、作りでしょうね。そういう話を作るのがうまいんですよ。
三田 加藤さんと小沢さんは合同で結婚式を挙げられていますよね。なにがきっかけだったんですか?
加藤 カリスマ性のあった映画監督の今村昌平が提案したんですよ。言い出しっぺの今村が途中で降りちゃって(笑)、結局僕と小沢と北村和夫の三組でやることになった。会費は五百円で、早稲田の大隈会館でやりました。結構な人数が集まりました。
矢野 ちなみに、あれは本当の話なんですか? 何か加藤さんと小沢さんが大隈重信の銅像の前で……。
加藤 銅像の前で「我々も妾を持とうぜ」と言ったってことかな?(笑) 本当の話です。でも実際は妾を持つ勇気も甲斐性も皆無でした。小沢は、芸人とか放浪芸とか、ああいう世界のことを研究しましたが、自分は向こうの世界に入り切れないためらいがあったんです。
三田 私もそのことは本に書かせていただきました。アウトロー、玄人的な世界に同化しているようで、実はそうではないんですよね。
矢野 それなのに、その研究を高く評価されたことに対するてれとか、負い目みたいなものもあったようです。たとえば、小沢さんは色川武大さんを尊敬していたんですが、色川さんはきちんとあっちの世界に入ってらっしゃるから。
加藤 知性があり余っていたんですよ。研究が評価されたからといって、大学教授とかにはならない。やたら准教授、教授になりたがるのを見ているからでしょ。“やつし”の人ですよ。
矢野 そうそう。やつしというのは、短期間だと割と楽に出来るんですが、一生それを貫き通すというのはすごくエネルギーがいることだと思うんです。
三田 俳優座養成所を出たあと小沢さんは映画や放送の仕事を猛烈な勢いでやって、ちょうど四十歳を境に放浪芸の取材をはじめたり、俳句にも手を染め……と、人生のシフトチェンジをしておられますね。
矢野 あのとき、たしか小沢さんは何か病気をしたんですよね。そのとき、ほんとに役者をやめようかと思ったそうです。商売替えしようと思って、職業別電話帳をくりながら、寿司屋はこれから修業しなくちゃならないから無理だとか、タイル張りはつらいとか、ありとあらゆることを考えて、結局一番楽なのは役者だって(笑)。それでもういっぺん役者をやり直すについては我々の仕事の原点の技を見極めよう、元を探ろうというのがあったみたいなんですよ。
加藤 病気といっても、たいしたものじゃなかったんですよ……。
三田 当時のマネージャーの話では、盲腸だったらしいです(笑)。ご本人はあれこれ心配して、転院までしたというんですけど。
加藤 そうだった! 身体に対してすごく慎重な人でしたね。
矢野 身体に対してもそうだし、それから人間の生き方とかにしても、ものすごく計算し尽くして、熟慮を重ねた結果のことを、ふっと、さもいま思いついたように口にする。
加藤 そのあとに、早稲田の大学院の演劇科に入ったんです。
矢野 そこから放浪芸の研究が始まって、足を使って日本全国の芸を収録したりしているんですよね。当時はICレコーダーみたいな便利なものはないし、テープレコーダーも大きくて重かったから、持ち運ぶだけでも重労働ですよ。若かったからこそ出来たことだと思いますね。
三田 放浪芸の取材をレコードにしようというプロデューサーが当時ビクターにいらしたことも良かったですね。今のレコード会社だったら、実現は難しいと思います。
矢野 まず時代が良かった。小沢さんが生きてきた時代というのは、映画、演劇、ラジオ、出版などすべてが一番輝いていた時期だったと思います。
加藤 彼が根本的に熱心で真面目だからこそなし得た事業ですよ。じゃないと放浪芸ひとつとっても、あれだけ研究することは出来ない。僕は告別式の弔辞で語りかけました。「昭ちゃん、よくあんな分厚い『日本の放浪芸』を著したね。私はコンプレックスの固まりにとらわれて読むどころか枕にするしかなかったんだよ」って(笑)。
三田 放浪芸だけではなく、本にしていないことも含めて、本当に博学ですよね。私は関っていなかったんですが、NHKであるドキュメンタリーを作るというときに俳優の高勢実乗さんのことでスタッフがレクチャーを受けに行ったりしていました。
加藤 『小沢大写真館』、あの本もすごい。あの中で、女性が野っ原でおしっこしている写真があるけれど、どれだけシャッターチャンスを待ったんだろう……。ああいう辛抱強さ、粘り強さがあるんです。
矢野 あの本の中の写真は、いまだったら盗撮で御用になってしまう写真ばかりですよね(笑)。
加藤 そうそう(笑)。あと、ストリッパーにもハマっていたよね。
三田 一条さゆりさんですね。
加藤 人を見出すのが本当に上手。藤山寛美さんにしても、人気が出ない前に「新喜劇でこういう面白い役者がいる」って言っていた。人気が出ると、スッと引いちゃうんだ。人や物を見出す着眼点もすごかった。
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