昭和のはじめ、銀座通りをモボ、モガが闊歩し、浅草ではエノケンが大活躍した文化的豊饒は、関東大震災から復興する東京の活力がもたらしたものだった。
その時代を背景にした『俳風三麗花』を上梓したのが四年前の春のこと。筆を執る動機はふたつあった。
ひとつは、歌物語というわが国古来のスタイルを復活できないだろうか――という不遜な狙い。古事記、源氏物語、伊勢物語といった文藝作品は、物語のあちこちに和歌がちりばめられ、情緒を深くしている。その形をよみがえらせるために考えついたのが、三人の若き女性たちが俳句の道に勤(いそ)しみながら様々な出来事に遭遇する「句会小説」という方法だった。
ふたつ目の動機は、私が幼いころ耳にした、祖母をはじめとする明治生まれの女性たちが口にしていた話し言葉を、自分より若い読者に伝えたいと思ったことである。
物語に登場する三人の女性たちには、それぞれモデルがいる。
一番淑(しと)やかな阿藤(あとう)ちゑには、私の父方の祖母、長谷川かな女が投影されている。かな女はちゑと同じく東京日本橋に生まれ育ち、後年、高浜虚子に師事して俳句の道に入った女性である。祖母は私が中学二年生のときに他界したが、生涯洋服は着たことのないひとだった。そのくせ新しいものが好きで、晩年は、当時まだ珍しかったグレープフルーツをこよなく愛した。
浅草藝者、松太郎のモデルは、祖母の俳句仲間だった寺田まつ子さん。かつて赤坂のお座敷に出ていたという彼女は、私が小学生のときにはとうに還暦を過ぎていたが、句座のなかでもひときわ姿勢が良く、子供心にも艶めいた空気を感じた。当時の俳誌をひもといてみると、
「風あらぶ机上の鉢のうそ金魚」
という彼女の句が載っている。ちなみに、かつて俳句と花柳界の関わりは深く、虚子は新橋藝妓連の宗匠をつとめていた。