- 2019.04.16
- 書評
人間関係にある抑圧とエロスというタブーを怖れず描いた天才漫画家
文:桐野夏生 (作家)
『月読 自選作品集』(山岸凉子 著)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#コミック・コミックエッセイ
山岸凉子が、「りぼんコミック」で、「レフトアンドライト」という作品でデビューしたのが、一九六九年。以来、第一線で描き続けて、五十年の節目を迎えた。
『アラベスク』『日出処の天子』『舞姫 テレプシコーラ』などの長編はよく知られているが、その合間を縫うようにして描かれた短編の驚くべき数と、その質の高さを知っている者はどのくらいいるだろうか。
特に、山岸凉子が三十代に入ってから描かれた短編群は、鳥肌が立つほどの傑作揃いで、その創作意欲に畏れを感じるほどだ。分岐点は、七八年「ハーピー」や、七九年「天人唐草」あたりからだろうか。ご本人に伺ってみたいところである。
山岸凉子の短編に、たびたび表れるテーマは、「抑圧」と「エロス」である。エロスの抑圧でもあるし、抑圧によって生じるエロスでもある。
それも、原初的な人間関係、つまり親子や、兄弟・姉妹間における抑圧が描かれることが多い。しかも、巷間あるような、抑圧された者がそれを乗り越えて、自身を解放してゆくようなシンプルな物語には決してならない。
家族間にあるのは、愛情だけではない(どころか、まったくないことも多い)。時に、憎悪、嫉妬や搾取などが存在し、それらがふつふつと沸き立てば呪縛となる。またある時は鎮まって、家族の絆という幻想で、表面を覆い隠したりもする。だから、抑圧が高じた精神的な(あるいは肉体的な)子殺しが起きたり、妹殺し、姉殺しもある。
子供にとっては、親という権力者が存在する限り、その檻から逃れる術がない。まして、性的虐待が絡んだ時のおぞましさは、一生抱えるトラウマにもなろう。本人が抑圧に気づかず、また、そこから逃避する方法もわからずに、死や発狂などの悲劇で終わることもある。
山岸凉子は、そんな家族の中の人間関係にある抑圧とエロスというタブーを、怖れずに描いた。その切っ先鋭いリアリティと、テーマの今日性において、読者の支持を熱く受け続けているのだ。
その創作の原点とも呼ぶべき抑圧とエロスというテーマは、この『月読(つくよみ)』という神話や古事記を元にして描かれた短編群でも、通奏低音のように流れている。
いや、むしろ神々の、怖れを知らない欲望の発露により、さらに激しさを増しているようだ。以下、解題を試みる。
「天沼矛(あめのぬぼこ)」
「天沼矛」とは、イザナギ神とイザナミ神が、この矛を使って渾沌とした水沼をかき混ぜ、矛から滴り落ちた滴が島になったという、「古事記」に表れる矛のことである。
第一話「夜櫻」の蛇神は一人いる寂しさに耐えかね、その矛を使って、一人の乙女を生み出す。だが、乙女は蛇神と同様、寂しくて毎晩泣いているのだ。蛇神は乙女を哀れに思い、おのれを焼いて、夜の帳(とばり)を払おうとする。蛇はエロスの象徴であり、乙女が自らの乳で火を消すというくだりも、生殖を仄めかしている。そのせいか、この作品は珍しくハッピーエンディングだ。
他方、第二話の「緋櫻」は、結婚を控えた娘の新居を建てるために、見事な桜の樹を切ろうとする物語だ。娘の相手は再婚だが、娘はその事情をまだ知らない。やがて、桜の樹には、ある秘密が隠されていたことがわかる。この作品をホラーと呼ぶ人もいるかもしれないが、ここにも姉妹間の葛藤が透けて見えて悲しい。
第三話の「薄櫻」は、主人公の少年が療養所で出会った年上の「荒雄」との儚い交流の物語だ。人魂は誰かの霊魂だという。老人の人魂は低いところを飛び、若者の人魂は高いところを飛んでいくという。その話を聞いた主人公は、退院したある日、自室の窓から高い空を行く人魂を見て、荒雄の死を知る。美しい物語だ。
どの作品も「桜」が現実を変える「矛」となっている。「矛」によって何かが生まれ、何かが変わっていく。
「月読(つくよみ)」
男神であるイザナギが産んだ三人の神は、三貴子と呼ばれる。イザナギが左の目を洗って産んだ天照大御神(アマテラスオオミカミ)、右の目を洗って産んだ月読命(ツクヨミノミコト)、そして鼻を洗って産んだ須佐之男命(スサノオノミコト)である。
山岸凉子の手にかかれば、三貴子でさえも、「抑圧」と「エロス」の煩悩地獄に陥れられる。姉である天照大御神に焦がれ、その歓心を買いたいと、月読命は懊悩するのだが、天照大御神は、弟の須佐之男命の方を気に入っている。月読は、粗雑で荒々しい須佐之男命が嫌いだ。しかし、天照大御神は、その男らしさを好み、死者の夜を守る仕事をする月読の暗さを退けようとするのだった。
太陽の光でしか輝けない月という存在は、抑圧の中で生きるしかない姿を運命づけられているようでもある。
「木花佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」
木花佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)は美しい姫。姉の石長比売(イワナガヒメ)とともに、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に嫁ぐことになった。だが、石長比売は醜かったために、一人、実家に戻される。二人の父親は、木花佐久夜毘売は花のように美しいが命は短く、石長比売は岩のように長い命を保証しているのだから、二人一緒にいないといけないのに、と怒ったという。この作品は、神話を下敷きにして、自由に発想した物語である。
「典子」の三歳違いの姉、「咲耶」は神童のような存在だった。妹に「典子」という名を付けたのも、当時まだ三歳でしかない姉だった。「咲耶」という凝った名に対し、「典子」という平凡な命名をされた妹は、運命を決定づけられたような気がしている。実際、姉は妹を見下し、その進路も決めようとする。「典子」は、姉の支配から何とか逃れようとするのだった。
美しい妹と、堅苦しく優秀な姉。あたかも「石長比売」が、「木花佐久夜毘売」に復讐を果たしているかのような、逆転した物語になっている。
「蛭子(ひるこ)」
蛭子は、イザナギ神とイザナミ神との間の最初の子だが、女であるイザナミが最初に声をかけたために、骨のない不具の子になったと言われている。
この作品の中での「蛭子」は、親戚の美少年「春洋(はるみ)」のことである。盗みを何とも思わず、要求が通らない時は陰湿な嫌がらせをする。何をしでかすかわからない不気味な子供は、神話の蛭子とは反対に美しく、しかし、心の不具合を呈している。
「蛇比礼(へみのひれ)」
蛇比礼とは、十種神宝のひとつだそうだ。比礼とは、今で言うスカーフのことだとか。八歳の従姉妹の少女と一緒に住むことになった男子高校生の「達也」は、少女の白いすべすべした冷たい肌に囚われてゆく。
少女は人ではなく、エロスの象徴、白い蛇なのだ。部屋の中には、鱗と思しき小さなガラスの破片が落ちているのに、「なにもかもがメチャクチャ」だと嘆く達也の母は、気付きもしない。
「ウンディーネ」
この短編集の中で、「ウンディーネ」だけが、七八年に描かれたものだ。
カメラマンの主人公の前に突然現れる美しい少女が、沼で亡くなった少女の霊であることは、誰もがすぐに気付くことだろう。「沼が怖い」と言いながら、沼に入ってポーズを取る少女の健気さは、死んですべての恐怖や抑圧から解放された者の無垢なのだろうか。この作品だけ色合いが違うが、この叙情性も山岸凉子の持ち味であろう。
かように勝手気儘な解題を続けてきたが、的を得ているかどうかはわからない。
ただ、どの作品を読んでも、まず絵に魅せられ、物語の精緻さに溜息を吐いた。そして、山岸凉子のような天才漫画家と、同時代に生きる幸せに感謝した。
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