わたしは手渡された手記を開いたものの、彼の前で頁を繰るのは居心地が悪かった。狭い室内に座っている彼の周囲には、人が年齢を重ねるに伴って増えてゆく過去の空気の残滓や、あたりを払う、と形容しても良いほどのよそよそしい気難しさ、鬱屈した焦燥感といった要素が堆積しており、それらに彼の元々大柄な身体つきも加わって、相対するわたしを圧迫したからである。わたしは何とか彼に察しさせようと、当たり障りのないことを喋っていたが、彼はなかなか気づかなかった。彼は一言も喋ろうとせずに、大きな眼でわたしの顔を――と見えて、実はわたしの背後を――見ているばかりだった。やがてわたしが、祇園にでも行ってきたらどうですか、と訊ねると、彼は面食らった様子で立ち上がった。確かにあのへんには用があった、と彼は呟き、部屋を出ていった。窓から望む岡崎疎水の葉桜の陰に彼が消えてから、わたしは手記に目を通した。
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