特集

『音に聞く』高尾長良――立ち読み

文: 高尾長良

文學界9月号

「文学界 9月号」(文藝春秋 編)

 晩春の或る日、わたしは東山二条の自宅において伏見区在住の友人の訪問を受けた。彼は、わたしの記憶が正しければ、四十代半ばの独身者だが、若い頃から文学や音楽に没頭しては、些細なことで気を損ねて怒りを爆発させる、扱いにくい男として知られていた。そのような人間にままあることとして、彼は超然とした風体の上に厄介な矜持を身につけており、ひとつの仕事に長く従事できるような男ではなかった。わたしは久しぶりに彼に会ったため、懐かしさから色々と彼の近況を訊ねたところ、彼は古書を扱う業者の見習いのようなことをしている、と言った。彼は、知人の手によるという一冊の手記を携えており、この手記をわたしに見せることが彼の来訪の主目的だった。薄汚れた紙に細かい字でびっしりと書き記されたそれは、たかだか二十年前の手記にしては随分古びた様相を呈していた。彼は紙束の始末に困り、かと言って廃棄するには忍びず、知人と同性の人物に読んでもらえれば彼女も喜ぶだろうと思って、わたしのような文学好きの女性を頼ることにした、と話した。これだけ聞くと書籍や文字には疎い人間のようだが、彼が現在就いている仕事からして不慣れというはずはない。ちなみに彼の知人とは、この三人称で書かれた手記に出る有智子(うちこ)という女性である。

文學界 9月号

2019年9月号 / 8月7日発売 / 定価970円(本体898円)
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