〈第一部〉
ウィーン八区のヨーゼフシュタットで市電を降りると、冷涼な空気が彼らを包んだ。黒い空は星を見つけるには曇りすぎていた。汚れた雪の積み上げられた通りを歩き続け、彼らがフロリアニ通りに近いアパートメントを探し当てた時刻には雪が降り出していた。
アパートメントは姉妹が父の口利きで選んだ、古びてはいるが小綺麗な物件だった。姉妹にあてがわれた五階の踊り場に面した部屋には、黒い繻子の張られた椅子、引き棚、草花を象った木彫、一台のベッドが備えつけられていた。狭い空間を更に占拠しているのが窓辺に置かれたピアノであり、それは姉妹の渡航に際して父の知己から贈られたものだった。彼らは大家から短期の賃貸契約書を受け取り、諸々の取り決めの説明を受けた。「――お分かりと思いますが、最も重要なことは、ピアノには弱音器を付ける、ということです。」有智子は振り向いて妹を見た。真名(まな)はコートを脱いで白い牛革のジャケットを羽織り、ソファの端に身体を寄せて座っていた。その様子は、腰かけているというより、天鵞絨の表面に軽く触れているかのようだった。刈り上げた形の良い頭から小さな鼻と顎にかけては室内の灯りが行き届かず、旅の疲れで半ば閉じかけた薄い瞼は、安らかな考えを育んでいるように、もしくは大家の言葉を受け流し自分の内部の音楽に耳を傾けているように、無関心に満ち満ちていた。有智子は契約書を受け取り、署名した。
この続きは、「文學界」9月号に全文掲載されています。
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