特集

『瞬きと瞬き』樋口恭介――立ち読み

文: 樋口恭介

「文学界 9月号」(文藝春秋 編)

 全てはⅰから始まる。

 ⅰは最初の記号である。

 ⅰは私の記号である。

 ⅰは虚構の記号である。

 ⅰは何よりもまず、ここに描かれる虚構を示している。

 ⅰ。その記号が置かれる想像上の場所。その空間に交点は存在しない。ⅰとⅰにより引かれた線が、その他の線と交わることは決してない。

 その空間において、空白は、つねにすでにあらゆる座標に存在する。

 私は私と触れ合うことはない。五秒前の私、五秒後の私、それから今の私。それらの私がこの私と交わることは決してない。私は私と関係していない。

 鏡の中を覗きこむこと。それは、全ての私を他者へと変えていく営みだ。私は名を持たない。私は変わってゆく。私は失われる。

 私は名もなきⅰ、失われたⅰ、単なるⅰだ。

 やがて全てがⅰになるだろう。

 

――バラード・ホブランド「瞬きと瞬き」のためのメモ

文學界 9月号

2019年9月号 / 8月7日発売 / 定価970円(本体898円)
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