この本の原著を手にした時の驚きは、今も鮮明だ。北朝鮮外交や金ファミリーについて、初めて明かされる衝撃の事実が詰まっていたからだ。事前に知っていれば、スクープ記事を百本は書けたはず……。
そんな愚痴はさておき、本のタイトルにもなっている「三階書記室」から説明しよう。金正恩(キムジョンウン)・朝鮮労働党委員長を補佐しており、あらゆる情報と権力が集まる部署の名前だ。
二〇一五年三月、その三階書記室からの暗号ファイルが、英国駐在の太永浩(テヨンホ)公使の元に届いた。「ロンドンで開かれるエリック・クラプトンの公演チケットを六枚購入せよ」という、謎めいた指示だった。
正恩の実の兄、正哲(ジョンチョル)が、この公演の観覧を計画していたのだ。夜遅くロンドン入りした正哲は、レコード店に行きたいなどとわがままを言い出し、太を困らせる。ところが同じ車に乗っていた正哲が、歌を歌いながら涙を浮べているのを目撃し、「一瞬憐憫の情が湧いた」と振り返っている。
独裁体制の頂点に立つ弟、正恩の下で隠遁生活を強いられている正哲にとって、ロンドン滞在は自由を味わえる短い時間だった。金ファミリーが抱える深い闇を垣間見た瞬間だった。
今、米国と北朝鮮は、「非核化」をめぐり駆け引きを展開している。しかし本書には、この交渉の内幕を暴き、北朝鮮の核放棄を楽観視する人たちを落胆させる事実が書かれている。
金日成(キムイルソン)が核開発に乗り出したのは、朝鮮戦争で米国からの原爆投下を怖がって国民が続々と脱出し、国が崩壊するとの危機感を抱いたからだった。このため、核を使わせないよう「非核化」を説きながら、ひそかに核開発を進めた。
金日成の息子、金正日(キムジョンイル)は、巧みな外交で時間を稼ぎ、二〇〇六年に、初の核実験を成し遂げる。
さて正恩は、どうするのか。一六年、在外公館の大使が平壌に集まり、核保有国になるための作戦会議を開いた。
米国と韓国が大統領選を行っている間に短期間で核武装して対話に転じ、核保有国として認めさせるという計画がまとまった。同じような手順で核保有国となったパキスタンを見習った。
韓国では朴槿恵(パククネ)大統領が弾劾され、選挙が前倒しされたことから北朝鮮は核実験を早めたが、一八年の初頭からは予定通り対話モードに入った。核放棄など最初から考えていないのだ。
北朝鮮は、太を「人間のクズ」と呼び、暗殺対象の一位に挙げているという。抜群の記憶力と分析力に裏打ちされた彼の告白を恐れ、怒ったに違いない。
本書には、二〇〇二年の日朝首脳会談の内幕も収められている。拉致問題解決のため「無条件での対話」を正恩に呼びかけている安倍晋三首相は、本書を暗記するほど読み込み、北朝鮮外交の強さともろさを研究しておくべきだろう。
テヨンホ/1962年、平壌市生まれ。88年、外務省(外交部)入省。2013年より駐英北朝鮮大使館公使。16年、長男に対して帰国命令が出たことをきっかけに脱北を決意、妻子とともに韓国へ亡命。亡命した元北朝鮮外交官の中では最高位級に当たる。
ごみようじ/1958年、長野県生まれ。東京新聞論説委員。著書に世界で初めて金正男の肉声をスクープした『金正男独占告白』など。
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