目だけが研ぎすまされていくような梅崎の風景描写と、たとえば「影裏」で称賛された冒頭、川沿いの自然の叙述に近いものがある気がして読み返した。視覚でどこまでも情景に分け入るような表現が多いのは、「影裏」の特質のひとつだが、人物とその人物にまつわる出来事を緊密に調和させたこの文体は、もしかするとこの作品でほとんどはじめて生まれたものだったのかもしれない、とあるとき思った。梅崎だけでなく、先行する作家たちのあらゆる文章の“型”をひたすら通過したことによって、文章や文体が磨かれるのは書き手にとってあたり前のことだが、ではなぜ「影裏」が、このような文体で書かれたのかが気になった。その答えは「影裏」以外の小説にあった。
芥川賞の選評を中心に、「影裏」という物語の核心とはいったい何なのか、単なる“ほのめかし”ではないのか、という意見が散見された。描写を重ねることで、物事の関係を詳(つまび)らかにしない書き方がなぜ採られたのか、「影裏」以降の作品を読んでわかったのは、これが著者にとって東日本大震災を書くための、唯一の文体だったのではないかということだ。
こちらもおすすめ