〈世界というのが夾雑物(きょうざつぶつ)で満ち溢れていて、ほんの些細な事柄からも、亀裂は生まれて、ばらばらになるほど脆いというのは心得ている。ならば束の間の調和を遠くから眺めて慈しむよりは、そこへ身を投げ、愉しんで過ごすべきだろう。〉(「陶片」)
巨大な崩壊の前で大きく見開かれるばかりの目ではなく、身体ごと巻き込まれるのを愉しむべきだと述懐する香生子に、同性の恋人ができる。「影裏」においてもうひとつの軸ともいえるセクシャルマイノリティというテーマを、「陶片」はさらに正面から香生子に語らせる。
Lなどという隠語でなく、自分の性愛にしかるべき名前をつけようとする香生子の心の動きは、破片という表象の変奏と、季節のめぐりをとおしてつぶさに描かれるが、〈年不相応に飾りけのない男〉として、独特の存在感をみせる義兄の密告によって、世界は再び脆く崩れおちる。「影裏」の最後で物語を飲みこんだ〈濃い倦怠〉が、「陶片」では怒りの表出に変化する。
〈世界は臆病者で溢れている。〉
〈すべては思ったとおり、予期したとおりで、じつにこの世は、想定の範囲内に収まる事象で満ち満ちている。〉
著者はこれまで一貫してあらゆるマイノリティの側に立ち、当事者としての不安や孤独を丹念に描いてきたが、「陶片」においてはじめて表現された怒りの感情は、著者の物語をこれからも大きく動かすだろう。
あらためて「影裏」という作品が、第一二二回文學界新人賞を受賞したデビュー作でもあるということに慄(おのの)く。この作品集に収められた三作品が、著者の年譜において“沼田真佑初期三部作”と呼ばれ、後々まであわせて読まれるだろうことは疑いようがない。同時代を生きる文学について語るとき、これらの作品は今後も言及され、何度も立ちかえることになる。日々あらわになる世界の亀裂に、亀裂からはじまる崩壊に、身をもって入りこもうとする著者の、来歴の最初の一行がいま、ここからはじまる。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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