側室から生まれた次男坊が征夷大将軍に
オール讀物5月号より、「極楽征夷大将軍」の連載をスタートしました。
主人公は足利尊氏。少年時代の尊氏と、2歳下の弟・直義(ただよし)とが、鎌倉の由比ヶ浜で波をながめて遊ぶシーンから物語は始まります。
なぜ、いま、足利尊氏なのか。
1338年、尊氏は征夷大将軍の座に就いて足利将軍家の開祖となりましたが、ほかの征夷大将軍に目を向けると、源頼朝も、徳川家康も、みな正室から生まれた長男で、(征夷大将軍ではありませんが)天下人になった信長も織田家の嫡男でした。いっぽうの尊氏は次男、しかも側室の子です。側室腹の次男坊で幕府を開いたのは、尊氏が最初で最後なんですね。
当時の次男の常として、嫡子で当主の長男・高義とのあいだには埋めがたい格差がありました。さらに尊氏は側室の子なので、生まれた時から何も期待されず、誰からも関心を示されず、ゆえに一片の責任も背負わない。お気楽ではあるけれども武士としての気概や意欲に欠ける、そんな尊氏少年だったと私は考えています。
ほかの征夷大将軍とは明らかに違う、この尊氏の生い立ちと気質に注目することで、室町幕府のメカニズムを読み解けるのではないか。適当な男なのに、不思議と合戦に強かった尊氏流の生き方に迫れるのではないか。こう考えたところから、「極楽征夷大将軍」の構想が生まれました。
いずれ小説で書いていくことなので、深くは述べませんが、のちに成立する室町幕府の権力構造を見ると、中心に尊氏がいて、片側に政務担当として実質的に幕府を作った弟・直義がいる。もう片側には足利家の家政をとりしきり、執事として幕府を支える高師直がいる。
室町幕府にこの権力のトライアングル構造をもたらしたものこそが、尊氏のもつ独特の気質だったのではないかと考えています。
「観応の擾乱」はなぜ起きたのか?
ここからさらに考えを進めていくと、「観応の擾乱」はなぜ起きたのか? という問題にも逢着します。なぜ、補佐役である直義と師直が対立してしまったのか。なぜあれほど仲のよかった尊氏・直義の兄弟が戦わなくてはならなくなったのか――。
生い立ちに深く根ざした尊氏の気質、そこから生じた権力のトライアングル構造こそが、「観応の擾乱」の謎を解き明かすカギだと私は考えています。単なる兄弟ゲンカなどではないのです。そして、その骨肉の争いを尊氏だけが生き抜くことができたのは、いったいなぜなのか?
私は学者ではありませんから、あくまでエンターテインメントという形式の中で、あるクリアカットな仮説を立てることによって、室町幕府のメカニズムを解明し、尊氏のユニークさ、彼の生き抜く力に迫っていきたいと思っています。
連載をはじめるにあたって、第1回の重要な舞台に設定した由比ヶ浜を見に行きました。私はもともと湘南の海は好きで、かつてもよくぶらっと行っていました。車を走らせて海に向かい、何もせず、浜からボーッと波をながめるんです。
サーファーの友人によると、波には、レギュラー(向かって右方向に崩れていく)とグーフィー(左方向に崩れていく)があるそうです。利き足が右のサーファーは、レギュラーの波に乗らねばならないので、沖からやってくる波を見て、波がどちらに崩れていくかを瞬時に見抜かなければならないのだとか。
連載の第1回で、尊氏と直義が、由比ヶ浜の波に浮かべた木っ端がどちらに流れるかを当てる「右か左か」という遊びをしますが、これはレギュラーの波、グーフィーの波の話にヒントをえて書いたものです。
実際に由比ヶ浜まで歩いてみると、意外なほど鎌倉の街から近いことがわかります。夕日の沈む海をながめながら、幼い日の尊氏少年もきっとここに遊びにきていただろうな、と感じました。
一族から将来を嘱望されず、いつも兄弟ふたりきりで遊んでいた尊氏と直義が、これからどのように室町幕府を作っていくのか、楽しく読んでもらえたらと思っています。
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