エジプトでよく聞くことわざがある。
「時は全てを笑う。ピラミッドは時を笑う」
なるほど、と感心したのは、学生時代に貧乏旅行で初めてエジプトを訪れた二〇歳の時だ。紀元前二六世紀に造られたという巨大なクフ王のピラミッドの前に立ち、この言葉の意味が少しだけ分かった気がした。全てのものは時の流れに逆らえない。しかし時がどれだけ過ぎようとも、それをあざ笑うかのようにピラミッドは変わらず存在している。諸行無常の世にあって、この国の遺跡は太古の昔から変わらない。圧倒的な存在感で今もそこにある。
だが悠久のエジプト史は、盗掘と略奪の歴史でもある。
古代王朝が始まり、ファラオ(王)が眠るピラミッドに副葬品が納められると、さっそく墓泥棒が登場した。ピラミッドは目立つ。遠目にもその威容が分かるので「ここに宝がありますよ」と宣伝しているようなものだ。そう気付いた王たちはやがて墓を砂漠の岩山にひっそりと作るようになった。だがこうした墓も次々に暴かれる。珍しく盗掘を免れたのが「黄金のマスク」で有名なツタンカーメン王の墓だが、これはむしろ例外といえるだろう。
盗掘者はエジプト人だけではない。中世以降、「秘薬」とされたミイラを求め、文化財略奪に手を染めたのは主に欧州の人々だった。やがてエジプトをまるごと奪おうとしたナポレオンが登場する。一九世紀以降は古代への情熱にかられた学者、好奇心いっぱいの旅行者が大挙してエジプトに押し寄せた。こうした中に、映画「インディ・ジョーンズ」シリーズのモデルになったとされる稀代の冒険家ベルツォーニも登場する。
よくもまあ、人はこれほど盗みをはたらくものだ。エジプト史を概観するとつくづくそう思う。「エジプト最古の職業は墓泥棒」といったジョークさえある。もちろん古代でも盗みは犯罪であり、特に墓泥棒には死罪も適用された。
それでも人は盗む。
ツタンカーメンの王墓を発見した英国の考古学者ハワード・カーターは、著書『ツタンカーメン発掘記』上(酒井傳六、熊田亨訳、ちくま学芸文庫)の中で、古代エジプト人が墓の中に宝物を惜しみなく入れたために、「建造物の豪華さそのものが破壊の原因となった。せいぜい数世代のうちに、ミイラの眠りは妨げられ、宝物は盗まれるのであった」と指摘した。そして第一八王朝の初期までには「エジプト全土に、略奪されていない王墓はほとんどなくなっていた」と嘆いている。
子供の頃、テレビで窃盗や強盗のニュースが流れる度、よく祖父が「浜の真砂は尽くるとも、だなあ」とつぶやいていたのを思い出す。安土桃山時代の伝説の盗賊・石川五右衛門は「釜ゆで」で処刑される前、「石川や 浜の真砂は尽くるとも 世に盗人の種は尽くまじ」と辞世の句を詠んだという。浜辺にある無数の砂がなくなっても、世の中から泥棒がいなくなることはない。そんな意味で、祖父からよく「盗みをすると、釜ゆでにされるぞ」と脅されたものだった。
「釜ゆで」まではいかないが、現代イスラム社会も盗みを厳しく戒めるのは同じだ。イスラム教の聖典コーラン(クルアーン)には「それから泥棒した者は、男でも女でも容赦なく両手を切り落してしまえ。それもみな自分で稼いだ報い。アッラーが見せしめのために懲しめ給うのじゃ」(『コーラン』上、井筒俊彦訳、岩波文庫)との記述がある。実際、今なお体の一部を切断する刑罰を認めている国もある。イスラム教徒にとって、盗みとは本来かなりの重罪なのだ。
エジプトでも二〇一八年、遺物密輸の罰則が強化され、罰金は最高一〇〇〇万エジプトポンド(約七〇〇〇万円)、長期の禁錮刑も科されると報じられた。だが盗掘は絶えない。どれほど罰が重くても関係ない。五右衛門の言う通り、泥棒が尽きることはないのだ。
歴史は面白い。でも勉強を始めると挫折する。よくある話だ。筆者も例外ではなく、これまで実に多くの地域・時代の本に手を出し、そのたびに情けないほどたくさんの挫折を繰り返してきた。古代エジプト史もその一つ。専門で学んだわけではなく、あくまで素人の「一歴史ファン」として古代文明の謎に酔い、壁画や遺跡の写真をぼーっと眺めるのは好きなのだが、体系的に勉強しようと思うと大変だ。なにしろ古代エジプト王朝は三〇〇〇年も続いたのだ。覚えるべき王様や神様の名前も多く、壁に彫られた古代文字ヒエログリフ(神聖文字)は難しく、見学したい遺跡もあまりに多い。素人にはとても手に負えない。
四〇代の半ば、毎日新聞のカイロ特派員としてエジプトに赴任することが決まった。これはいい機会だ。あれこれ追わず、一つのテーマを古代からじっくり調べることでエジプト史を概観できないか。そう考えておそるおそる取材を始めた時、惹かれたのは古代から連綿と続く「盗掘」の話だった。それをまとめたのが、この本だ。
略奪、冒険、裏切り、そして新発見。本書は盗掘を主題に据え、お宝を盗みまくった者たちの歴史に迫ったものである。とはいえ墓泥棒の話から横道に逸れた部分も多い。でも言い訳めいて申し訳ないが、実はそれもエジプト史が持つ魅力だったりする。
新型コロナウイルスの感染が拡大した二〇二〇年には、世界中で「人類と感染症の闘い」についての歴史も考察された。紀元前一二世紀のラムセス五世のミイラからは天然痘に特有のあばたの痕跡も発見されており、古代人もウイルスと闘ってきたことが分かる。エジプト史をうろちょろしていると、そんな話にも行き当たる。
「私は今もエジプトの古代遺跡全体の六割は未発見だと思っています。まだ解かれていない謎は山ほどあります。だからこそエジプト史は面白く、未来があるのです」
ある時、ミイラ研究の第一人者であるカイロ・アメリカン大学のサリーマ・イクラム教授にそう言われた。イクラム氏はパキスタン出身の女性考古学者で、家族で初めてエジプトを訪れた九歳の時、ピラミッドの威容や、まるで生きているような石像の数々に魅了されたという。そしてツタンカーメンだ。この王も九歳前後で即位したと知り、当時同い年だったイクラム氏は親近感を覚え、彼と友達になりたいと思ったらしい。
「私は九歳で古代エジプトと恋に落ち、考古学者になろうと決意しました。今もその恋は冷めていません」
エジプト史は面白い。イクラム氏ほど激しい恋でなくてもいい。本書を読んで古代史に「ほんのりとした片想い」くらいの気分を味わい、少しでも楽しんでもらえたら本当にうれしい。
ではそろそろ古代史への旅に出たい。古代エジプト王朝が成立した紀元前三〇〇〇年頃から現代に至るまでの約五〇〇〇年の歴史で、昔も今も変わらない盗掘者たちの姿に迫ってみたい。
だがその前に「出発点」として現代のエジプト、そして少し場所を広げて紛争が続くシリアやイラクに飛びたいと思う。まずは今、目の前で起きている盗掘の現状報告から本書を始めたい。
(「プロローグ」より)
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