二〇二〇年の春、日本では新型コロナウイルス感染症の対策が講じられた。人との距離を二メートル確保し、旅行などの不要不急の外出を控えることになった。密の環境に慣れてしまったわたしたちには、なかなかむずかしい課題と思える。でも、トナカイ遊牧民や森林の奥深くで暮らす人たちには不要不急の外出もなければ、旅行や出張に出かけることもない。隣人は一〇〇キロほど離れて住み、古来の信仰心や文化を守り、自給自足で満ちたりる生活なのだ。
わたしたちが求める「新しい生活様式」に、シベリアの人たちはなんの新鮮さも感じないだろう。何百年も紡いでいる光景であり、未来永劫に変わらない日常であろう。乱世を生き抜くために、シベリアの生活が励みになるなど、わたしは想像もしなかった。まるで時空を超えて、価値観が逆転してしまったかのようだ。とはいっても、わたしはシベリアの人たちの営みを美化するつもりはなく、ましてシベリアへの避難を勧めるわけでもない。ただいえるのは、文明に明確な優劣をつける価値基準が消えうせてしまったということだ。
地球儀を回しながら、わたしは過去・現在・未来が刻む歴史への向かい方を考え込んだ。多くの人たちが経済に軸足をおき、より便利な生活を求めてきた。過去に背をむけて未来にむかって邁進し、大きな喜びを得た。だがこれからの時代は、わたしたちの姿勢に変化が生じるかもしれない。経済を円滑に回すにしても、過去からの歩みを辿り、それらに真正面から向き合い、未来を背に後ろ歩きの姿勢で未来にゆっくり進むことになる。「一寸先は闇」と形容されるほどに不確実な未来が待ち受けているからだ。
シベリアで過ごしたまったりとした時間をあらためて思い起こしながら、わたしは幸せのありかを自問してみた。しみじみと湧きあがってくる幸せは、外的な刺激が引き起こす熱狂とは反対に、ゆっくりと満ちてくる。この感覚は、人と社会との距離感に通じるように思う。
本書の編集は、文藝春秋文庫部の曽我麻美子さんが担当してくださった。人との心地よいエモーショナルディスタンスを大切にされている曽我さんだからこそ、コロナの時代に本書が生まれたとわたしは思う。「シベリアこぼれ話」という囲みの特設ステージを用意していただき、いまでもシベリアがわたしの心に語りかけてくる豊かさを書き加えることができた。本のサイズがコンパクトになり、写真もその大きさも単行本とは変わった。曽我さんのおかげで「詩情が出るような感じ」に仕立てられ、旅心がわきたっている。わたしは文庫の妙を知り、新しいシベリアが誕生した。
二〇二〇年八月二三日
中村逸郎
(「文庫のためのあとがき」より)