「お父さんの職業は?」と、幼いころに誰かに尋ねられると、「お父さんは、会社員。お母さんは、ふつうのお母さん。いつもお家にいる」
と、私は答えていた。こんな真っ赤な嘘を淡々とついていた小学生の私の心理は、一体どういう状態だったのだろう……。
「お父さんはロックンローラーで、お母さんは女優」だなんて、口が裂けても言えず、なにより、子どものなかのダイヤモンドみたいに堅い意志が、その事実を断固として認めたくなかったのだ。とにかく、当時の私の願いは、ただひとつ。目立つことなく、落ち着いた両親のいる穏やかな家族の子であることだった。
ところが、そんなささやかな願いは成就することもなく、父親が社会の掟を破る度たびに、私たち家族のあり方は世に晒され続けた。気がつけば、メディアを通して互いにコミュニケーションを取る始末の家族となり、我が家には秘め事も建前もなく、すべてが公になっていた。挙げ句の果てには、晩年の両親には「逆仮面夫婦」などと言い得て妙な呼び名まで付けられ、若かりし頃は流血を伴う喧嘩が日常茶飯で、最後まで「良い夫婦」の模範とは程遠い実情だった彼らの、何が真実で、何が虚構なのかさえも、もはや区別がつかなくなっていた。
やがて、二〇一八年九月に母が他界し、その半年後に父が逝き、自分にとって大ごとだったはずの人生の苦悩があっさり行き場を失い、四十年以上かけてじっくり育ってしまった「ファザー&マザー・コンプレックス」は到底消化できず、ポツンと取り残された。それ以降はとりわけ、私が人前に駆り出される時は、我がいびつな家族のエグザンプルの提示を求められる機会が増えていった。そういったことの節度というものが、一体どこらへんならば、目の当たりにする人々の食傷を抑えられるのか……躊躇してみたり、開き直ってみたり、答えのない葛藤をいまだに繰り返している。
けれども、そもそも両親が健在の頃から、私たちは「晒された家族」だった。
それなら、私たちをひとつの「標本」、「世界の数十億家族分の一」として、例えば、脳科学という道を通し、客観的に分析して頂くことで、何か思いがけない気付きを得たり、長らく抱えてきたもどかしさを消化できるかもしれない。そんな自分なりのエクスキューズを握りしめ、二〇二〇年一月、「週刊文春WOMAN meets 樹木希林展」と題して、五百名のオーディエンスを前に、脳科学者の中野信子さんと対談させて頂く好機を得ることになった。
初対面の中野さんとは事前の打ち合わせはせず、舞台に上がる十五分前に楽屋で「はじめまして」のご挨拶をさせて頂いたが、「彼女となら、どんなことでもお話ができるはず」という、不思議なほどの確信を覚えた。それぞれに創刊時より同じ雑誌内で連載を持っているという親近感もさることながら、兼ねてから、中野さんの言葉や佇まいの中に、そのインテリジェンスと同じく懐の深さを感じていた。九十分の公開対談はあっという間に終わり、互いにまだ話し足りないというもどかしさを感じ取ってくれた週刊文春WOMAN編集部が「その話の続きは誌面でしましょう」と提案してくれた。
通常、雑誌の対談では編集者やライターの方々が同席し、傍で話を聞くスタイルが多いけれど、今回はすべての回において、中野さんと私の二人きりの対談をお願いした。その甲斐あってか、いつも心の赴くままに、たとえ話が脱線しようと気兼ねなく、延々と互いに心のうちを明かし続けられたように思う(多忙な中野さんを何時間も独占できるなんて、すごい役得だなと悦に入りながら)。
更に仕合せだったことに、中野さんご自身の家族観も、惜しみなくシェアして下さり、結果的にそれぞれの育った、また現在も育てている家族というものが立ち現れてきたのだ。
たかが家族、されど家族。
誰にとっても尊くも、如何ともし難い、人と人のつながりの細部を覗くことは、ひいては世の中の縮図を見渡すことにも通ずるのかもしれない。
「家族」というテーマが根っこにあるのは確かだが、見事なまでに話は枝分かれしていき、気づけばそれなりの大樹に育ったように思う。
そして、きっとこの樹は永遠に正解の姿は見つからぬまま成長し続け、時にまた「葛」や「藤」が絡まり、先の世代は、その蔦を剪定しながら自分なりの人と人のつながりを模索するのではないだろうか。そんなことを夢想しながら、もしも、この本を手にとって下さった方の息抜きや深呼吸に少しでもお役に立てるのなら、私たちの白昼の密会も本望である。
(「はじめに 晒された家族」より)