うらぶれた団地で出会った結珠と果遠。惹かれ合う少女を通して描く家族、そして愛の物語
第一章
彼女を思う時、いつもわたしは七歳に返る。幼いあの子、幼いわたし。振り返った時、陽だまりの中に佇んでいた彼女。濃いえんじ色のスカートの秩序だったプリーツ、そこから伸びた棒みたいな脚を包んでいた真っ白なソックス。夕方の翳りが混じり始めた日なた。朝ほど強烈ではなく、真昼ほどあっけらかんともしていない、時間によってやわらかく揉まれた後みたいな午後の光。ずっと、ずっとそこにいてほしい。
これがわたしの祈り、わたしの恋。
〇
月曜はピアノ、火曜はスイミング、木曜日は書道と英会話、金曜日はバレエ。習いごとのない水曜日は家で宿題をして、通信教育のテキストを進め本を読んでママのお手伝いをする。小学校に上がってから、私のカレンダーはその繰り返しで埋まっていた。ところが二年生になってGWを過ぎた水曜日の放課後、ママが突然「一緒に来なさい」と制服のままの私を車に乗せた。三十分くらい走って、コインパーキングに車を停めると、そこからまた二十分くらい私の手を引いて歩く。駐車場の周りは工場や倉庫みたいな、ずどんと四角くて大きな建物が多かったけれど、そのうち景色が縮んだように小さなアパートや一戸建てがぎゅうぎゅう詰まった場所を通った。誰かのうちに行くのかな、ときょろきょろしたけれどママは立ち止まらず、とうとう草がしょぼしょぼ生えた空き地(私には読めない漢字と、どこかの電話番号が大きく書かれた看板が立っている)だらけの寂しいところに出た。目の前には背の低い建物がずらっと一列に並び、その周りはフェンスに囲まれている。あれも、家? 壁がぺかぺかした水色なのも、横に数字が書いてあるのも何だか怖い。私のうちは庭のある一戸建てで、クラスの子も大体同じような家に住んでいた。
「ここ、どこ? あれはなに?」
私が立ち止まったのに苛立ったのか、ママは手をぎゅっと握って「『団地』っていうの。ママの知り合いのおうち」と強く手を引っ張った。
「ママがボランティアしてるの知ってるでしょう、きょうもその活動のひとつなの」
ママはお年寄りの施設や、パパが働いている病院で読み聞かせをしていた。
「本を読んであげるの?」
「そう」
短く答えたきり、ママは私の顔を見なくなる。これ以上何も言ったり訊いたりしてこないで、というサイン。団地の建物は「1」から「10」までで、「5」と「6」の建物の間にはフェンスで仕切られた砂場と鉄棒と時計だけの小さな公園があり、時計の針は四時前を指していた。じっくり眺める暇もなく、ママに引っ張られて「5」の建物に入る。エレベーターはなく、狭くて薄暗い階段を挟んでふたつの家の玄関ドアが向かい合っていて、表札やかわいいプレートのかかった家もあれば、新聞入れから新聞が溢れて花束みたいになった家もあった。薄い青と緑を混ぜたような変な色の扉に、銀色の冷たそうなドアノブ。ママはじぐざぐとした階段を五階まで一気に上り、「504」という札以外には何もないドアの前でしばらく息を整えた。つないだ手はじっとり汗をかいている。ママの指がドアの脇のボタンを押すと、ピンポーン、と甲高い音が鳴り響いた。うちのインターホンよりずっと大きく耳に刺さるような音で、そこらじゅうから人が出てくるんじゃないかと心配になった。
でも、実際に開いたのは、ママがピンポンを押した家のドアだけ。ドアノブがきいっと音を立てて回り、扉が細く開くと知らない男の人が顔を覗かせ、私はびっくりしてママの後ろに隠れた。制服の帽子の丸いつばを、両手でぎゅっと摑む。
「鍵くらい掛ければ。不用心だよ」
私のことなんか見もしないで、ママは平然と話しかける。パパやお兄ちゃんに話す時とも、スイミングのコーチや宅配便のおじさんに話す時とも違う、スプーンやナイフにくっついたいちごジャムみたいな声だった。べとっとへばりついて残ってしまう甘さ。
「こんな部屋から何盗るんだよ」
「何もなくてもよ。どうせまた朝まで飲んでたんでしょ、顔色悪い。前みたいに救急車で運ばれてもいいの?」
「うるせえな」
男の人はとても乱暴に答えた。ママにそんなふうに話す人を見たのは初めてで、ぼさぼさの髪や無精ひげや充血した白目、室内から流れ出すむっとこもった空気、何もかもが怖くて足がすくんだ。ママが平気そうにしているのも恐ろしかった。なのにママは私を強引に引っ張り出し「この子」と男の人に差し出すように立たせた。
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