うらぶれた団地で出会った結珠と果遠。惹かれ合う少女を通して描く家族、そして愛の物語
「ご挨拶しなさい」
私はか細い声で「小瀧結珠です」と名乗った。男の人は、私を見下ろしてじろじろ眺め「へっ」と鼻で笑う。
「ちっせえ声だな、ちゃんと食わしてんのか」
「人見知りしてるのよ」
ママが言い返す。ママはちっとも男の人が怖くなさそうで「してるのよ」のところは半分「してんのよ」と聞こえた。普段のママが絶対にしない言葉遣い。私の不安はママにすこしも伝わっていないようだった。
「歳の離れた末っ子だから甘やかされてるの。ほら、もう一回やり直して」
背中を手のひらでぽんと叩かれても、言葉は出なかった。男の人は黙って目を見開くだけの私にそれほど興味がないのか「いいよ別に」とすっと顔を上げた。顎の下に長く飛び出た数本のひげと鼻の穴が黒かった。
「結珠ちゃん」
突然、男の人が言った。別に話がしたいわけじゃなく、ただ名前を呼んでみただけ。そんな言い方だったから返事はしなかった。
「おいしいもんいっぱい食わせてもらって大きくなりな」
私がどう返事をしたらいいのか迷っていると、ママは再び私を後ろに引っ込めてドアノブに手をかけ、扉を大きく開いて室内に一歩踏み出した。私がママ、と呼びかけるより早く、ママは「結珠」と振り返らずに言う。
「ママ、ここでやることがあるから、降りた階段のところで待ってなさい。三十分くらいで行くから。一階よ、動かないでね。公園に時計があったから、時間はわかるでしょ? 誰に話しかけられても返事しないで、もししつこくされたらブザーを鳴らしなさい」
「ボランティア?」
「そう」
そのまま私を見ず、ママは扉を閉める。男の人が「ボランティア?」と私のまねをしてから突然けたたましく笑い出した。どんな顔をしていたのかは、ママの背中で見えなかった。「大きな声出さないで」というママの尖った声の後で、だっしゃん、と聞いたことのない派手な音を立てて扉が閉まると、笑い声はすこし遠くなった。でもまだ聞こえる。ママがかしゃんと鍵を閉めた後も。
私はてんてんと階段を降り、入り口の集合ポストから一階の部屋に続く数段の段差に座り込んだ。制服を汚したら後でママに叱られるかも、でも着替える時間をくれなかったのはママだし、どこだかもわからない変なところで三十分も立って待つのは、怒られている子みたいで恥ずかしい。あんなおじさんに『100万回生きたねこ』や『赤毛のアン』を読み聞かせてどうするんだろう。じっと膝を抱えて座り込んでいると、スカートのポケットに入った卵形の防犯ブザーの重みを感じる。小学校に上がると同時に渡されたもので、紐を引くと大きな音が鳴るらしいけれど、一度も使ったことはなかった。もしも知らない人から声をかけられたら、知らない人がついてきたら、知らない人に触られたら……そんな「もしも」は怖い。でも「もしも」の時、どんな音が鳴っても、ママは私のところに来てくれないかもしれない、と思うのはもっと怖かった。
目の前の公園には誰もいなかった。ブランコも滑り台もないから、人気がないのかもしれない。耳を澄ませると、どこかで子どもが遊ぶ声、大人がおしゃべりする声、廃品回収を呼びかけるスピーカーの声が聞こえるのに、私がいるあたりからは物音ひとつ聞こえてこなかった。空色の壁に耳をくっつけると硬くて耳たぶがひんやりした。薄暗い階段の、すり減った滑り止めの溝やコンクリートのひび割れを見ているとだんだんと寂しい気持ちになり、明るいところに飛び出して行きたくなった。ふわふわと暖かい日なたの空気を吸いたい。ここでじっとしていると、身体が縮んで石になりそう。知らない公園はよその子の縄張りみたいで緊張するけど、今なら誰もいないから、鉄棒の足掛け上がりの練習ができる。大丈夫、ママが来るまでにここに戻ればいい。私はそう自分に言い聞かせ、立ち上がって駆け出した。その時、向かいの棟のベランダが目に入った。
五階の、端っこの部屋。手すりから大きく身を乗り出している子どもがいる。私とそんなに歳の変わらない女の子に見えた。鉄棒で前回りをする時みたいに、腕を手すりに突っ張って身体を浮かせているのが見えて、私は息を呑んだ。
この続きは、「別冊文藝春秋」5月号に掲載されています。