
本を買うにはお金がかかるのだ。幾価でもかかるのだ。買ったら買ったで保管場所が要るのだ。書架はみるみる埋まるものなのだ。そして買って持っているだけでは意味がないのだ。ちゃんと読めないのであれば、本は無意味な紙束である。整理整頓をし、いつでも読めるようにしておくには手間がかかるのだ。際限なくかかるのだ。
これは、読書子の悩みそのものである。
明治大正昭和と、出版システムが整備されればされる程にその懊悩は肥大する。帝国図書館の懊悩も肥大する。一番の難敵は、戦争である。ある時は予算削減、ある時は思想言論統制、ある時は物理的攻撃と、常に戦争は図書館の前に立ち塞がる。
悲嘆に暮れるのは図書館職員だけではない。読者である。本を欲する者である。
本書に記されているとおり、帝国図書館はそれはもう多くの人に活用されていたのであるが、樋口一葉も菊池寛も、ただ「図書館に通っていた」のではない。彼ら彼女らは「本を読みに行っていた」のだ。僕は、その辺を失念していたのだと思う。
「図書館“そのもの”を語り手とする」という中島さんの奇手奇策によって、僕はその点に漸く思い至り、膝を打った――という次第である。
ただ、ご承知のとおり、この『夢見る帝国図書館』は、擬人化された図書館に半生を語らせるというファンタジーめいた小説――ではない。
そのたくらみは周到である。
小説というのは、まあウソである。でも何から何までウソという訳ではない。現実からなにがしかを借りてこなければ、小説は書けないし、書いても通じにくい。小説というものは、ウソとマコトが不可分にブレンドされているものなのである。だからこそ、嘘を真実っぽく書くことも、現実を面白可笑しく書くこともできるのだ。その匙加減が、小説の、延いては小説家の腕の見せどころということになるのだろう。
中島さんの小説の佇まいは、とても優しい。気の好いご近所さんがかけてくれた朝の挨拶の如く、優しい。時に苛烈な先行きが待ち受けていたりもするのだけれど、優しい。だから読者は迷うことなくその優しげな日常に入り込んでしまう。微細に描写されるディテールも、語り手の心の機微の積み重ねも、それをやんわりと後押ししてくれる。だから読む者はなんの躊躇いもなく上野で喜和子さんと出会うことになる。
当然、僕らはその書物の中の日常で、図書館や、本や、人のことを考える。読み手は語り手と同調して、この先何が起きるのかを夢想し、起きたことを反芻する。
その辺の書き方はもう、手練れである。とても巧い。
ところが。
突然、「夢見る帝国図書館」というそれまでとは異質なパートが挿入される。
同名の作品は現実(と読者が思っている)パートにも登場する。喜和子さんいうところのお兄さんが書いたらしい、そして喜和子さんが書くつもりでいるらしい、そして語り手がいつか書くかもしれない物語がそれである。読んでいる方は、このパートがそのいずれかなのだろうと、そう思う。だが、どうもそうではないのだ。
作中作として中盤に登場する喜和子さんの文章がまったく違う扱いになっていることからも、それは明らかだろう。各所に挿入される「夢見る帝国図書館」は、作中作ではないのだ。
金欠を憂え、戦禍に怯え、閲覧者に恋をする。動物たちも、時に蔵書までもが語り合う。「夢見る帝国図書館」パートは、ある意味で自由自在、融通無碍である。けれどもこのパートで語られるものごとは、何もかも史実、実際にあった(と思しき)ことばかりである。
ラストに到って、地と図は反転する。それまで語り手が紡いでいた現実(と読者が思っていた物語)は、「夢見る帝国図書館」パートのひとつのパーツに過ぎないのではないか。この小説の主人公は、やはり図書館だったのではないか。
否――それはどちらでも同じことなのだ。たしかに、語り手と喜和子さんと、その二人を取り囲む人々との物語は、本と、そして図書館の物語へと回収されていく。すべては図書館の見た夢であるかのように。そしてその図書館の見た夢という夢を見たのは、喜和子さんであり、語り手であり、読者なのだから。
不確かな記憶と不確かな記録。そのあわいに屹立するものは、限りなくリアルであり、限りなくフィクショナルである。フィクションがリアルに、リアルがフィクションに呑み込まれ、それは干渉し合い補完し合う。おそらく小説というものはそうやって醸造されるものなのだ。
本書『夢見る帝国図書館』は、小説でしか為し得ない技法で、小説という装置を用いる以外に行き着けない場所に連れて行ってくれる、そうした小説なのである。
僕は、二十年くらい前に取材で国立国会図書館の地下深くに降りたことがある。我が国唯一の法定納本図書館の内部は、やはり凄かった。書物を偏愛する者としては得難い体験だったと、それはそう思う。でも、国会図書館はどうしたって公共機関なのである。
一方、帝国図書館はそうではない。彼は、僕らである。
何しろ夢を見るくらいなのだから。