阿部 実は、二年前の松本清張賞の授賞式後のパーティーで、中島さんから「阿部さんの小説『発現』が面白かった」という言葉をいただいて、私はすごく救われた気持ちになったんです。雑誌のレビューでも『発現』を取り上げていただいて、ぜひ一度、じっくりお話しできたらと思っていました。
中島 『発現』は、実際にすごく面白く読みました。この小説のどこに惹かれたかというと、「記憶」というものが継承される、あるいは遺伝するということが書かれていますよね。よく戦争体験を語り継ぐとか、体験を後世に伝えていくという言葉を耳にしますが、他人の「体験」はあくまで自分のものではない。詳細な記録を引用することや、読書という体験はできますが、それは一次的な体験とは別なものだと思います。ところが「記憶」というものは、「体験」がもっと形を変えたもので、ある意味、人から人へ引き継げるものではないか──。
『発現』の中では、悲惨なトラウマを引き継いでしまうわけですが、重要な意味がそこにはあるように感じました。私より少し上の世代の方の父親は、出征経験のある方が大勢いたけれど、そこで見たであろう凄まじいものはほとんど語られてこなかった。でも何らかの形で子供たちは、記憶を受け取っている。最近、村上春樹さんがお父様のことを書かれたものを読んでいても、ことさら体験談を聞かされたわけではないのに、やはり父の記憶というものが受け継がれているように思い、私自身もよく父の「体験」と自分の「記憶」について考えています。
阿部 人間は自分が他者に嫌なことをされた時、それを語ることはするけれど、自分が他者に嫌な行為をしてしまったことを語る時には、どうしても口が重たくなると思うんです。小学生の頃の恩師の話なのですが、先生が学生だった頃、ある教師が自分の戦争での武勇伝を面白おかしく語っているのを聞いて、すごい反発を覚えたそうなんです。先生は戦争で大切な方を亡くされていて、「なぜそのように誇らしげに戦争のことを話せるのか、理解できない」と。総じて人間にはこういうところがありますよね。
中島 昭和史家で亡くなられた半藤一利さんが、戦争についての話を聞きにいくと、とにかく相手は嘘ばかりつく。特に手柄話ばかりする人間は、ほとんど噓をついているとおっしゃっていましたね。
阿部 歴史を勉強していた時に感じたのが、実際に起こったことがそのまま歴史になるわけではないということ。起こった事実を後世の人が改めて意味づけをして、はじめて「歴史」として継承されるということです。人々に語られなかった体験は、もはや歴史として残ることもなく失われていく。私自身は、学校の授業や取材を通して戦争体験者の方のお話を実際に伺うことも出来ましたが、この先はそういった機会を得られない世代がどんどん生じていくでしょう。
その時に、実際の体験はしていないけれど、話を聞いた人間がどのように受け止めたのか。私たちの世代の記憶として、もう一度、再構築する必要があると考えて書いたのが、『発現』でした。ただそれは本当に難しくて、戦争の辛さや悲惨さについては、実際にそれを体験された方が書き残されているものがあるわけで……その上で新たに戦争を描くということは、二次情報や三次情報を受け取った世代が、今、どのようにそれらの記憶を受け止めたかという話になっていくんじゃないかと考えたんです。
中島さんの『小さいおうち』でも、主人公の甥の次男が出てきますよね。彼がいることによって、世代間の認識の差を明らかに感じることが出来ました。『夢見る帝国図書館』でも、必ず現代っ子の視点で回想されるというか、戦争を体験した当事者ではなく、断片的な記憶を見聞した人物の視点で最後を引き取られています。フィクションなので主人公自らに語らせることも出来たはずなのに、あえて読者に近しい世代の人物から見たものを語らせているところに、当時を生きていた人への敬意が表れている気がしました。
中島 体験は引き継げないという話をしましたけれど、自分がその時代を生きた人として語る書き方には躊躇があるんですね。私は戦争文学を読むのが好きで、それこそ戦後派の作家など、戦争に実際に行った人の書いた作品は沢山あるし、私たちはそれをぜひ読むべきだと思います。すべてがダイレクトに書かれているわけではないけれど、彼らから「受け取った」ものが多くて、その気持ちが『小さいおうち』や『夢見る帝国図書館』に通じていったのかもしれません。