【百年企業・コマツの底力】小川啓之社長 北陸から世界へ雄飛した骨太メーカーが培った“企業理念”とは?
出典 : #文春新書
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#政治・経済・ビジネス
文春新書の新刊『逆境経営』(税込・1,155円)は、グローバリズムの波に翻弄される日本社会にあって、実直に、そしてしたたかに歴史を重ねてきた日本企業14社のありようを追いかけた好著です。著者の樽谷哲也さんはダイソー、ミズノ、グンゼ、サイゼリヤなど、独自の発展を遂げた日本企業の名物経営者やそこで働く人の声に丁寧に耳を傾け、そこから数多くのビジネスヒントや企業哲学を引き出していきます。
今回は、14社の中から、建設機械・鉱山機械の国内最大手にして世界ナンバー2の百年企業「コマツ」のパートを特別公開します。「工業富國基」という考えかたから出発した「コマツ」が、機械という「モノ」づくりだけでなく、さまざまな「コト」を提供するなかで企業価値を高めてきたことがわかる、目からウロコのエピソードが満載です。
北陸に“城下町”をなす世界企業
「株式会社小松製作所」と漢字の登記社名でしゃちほこ張るより、「コマツ」と平易な通り名で、さらには「KOMATSU」という英字表記のほうが私たちに広く浸透している会社なのではないであろうか。その英字ロゴを見かける場合のほとんどは、巨大な建設機械の黄色いボディーなどであろう。建設機械や鉱山機械のメーカーとして国内最大手であり、世界でも米キャタピラーに次ぐ。
東京・赤坂に本社を移し、都心の一等地に地上10階、地下4階建ての自社ビルを構えて半世紀あまりになる。屋上緑化を先んじた高層ビルとしても静かに知られている。
毎年、春分を迎えるころ、国会議事堂のほど近く、皇居を囲む外堀通りと、六本木通り、あるいはその上を走る首都高速都心環状線の交わる大きな交差点から、屋上に桜の花と緑の葉がそよいでいる白亜の建物が視界に入ったのなら、それがコマツの本社ビルである。
社名のとおり、石川県小松市で設立され、創業の地には現在も社員研修施設などが置かれている。2021年5月、正式な会社設立から100周年を迎えた。工場は大阪や茨城、栃木などにもあるが、石川県全体にとってもむろん、とりわけ小松市にとっては由緒ある別格の存在であり、主要工場のひとつである粟津工場などを擁し、一帯はコマツの企業城下町である。
親子代々、コマツに勤務し、「小松一家」と称してはばからない家庭が小松市には多いらしい。息子や娘がコマツに職を得ることは、本人以上に親にとって、将来の安泰を手に入れたも同然の幸いであり、誉れなのであるとも聞いた。石川県人にとり、あるいは小松市民にとり、コマツといかに深く結びついてきたかが端的に表れていよう。いまも、小松市民のざっと3分の1がコマツ関係者であり、中小零細を含む地元の関連・取引先企業は五百をくだらないと、集めた資料にあった。
北陸新幹線を、県内の主要都市にあるJR金沢駅から、JR小松駅まで延伸させる工事が現在、佳境を迎えている。新幹線を小松駅まで伸ばすことは地元住民の長年の悲願であったらしい。現在でも、小松空港から小松駅へはタクシーで10分ほどと交通に不便はない。
小松駅の目の前にあったコマツの小松工場跡地に創業時の旧本社社屋や工場の建物を復元するなどし、子どもたちが楽しめるアミューズメント施設として、またコマツの歩みを知る資料館として、2011(平成23)年5月、「こまつの杜」がオープンした。社員の研修施設も備えている。赤坂の本社を頭脳とするなら、こまつの杜はさしずめ心臓部であろう。
こまつの杜の入口前の広場には、巨大ロボットが現出したかのような黄色い超大型ダンプトラック「930E」、超大型油圧ショベル「PC4000」がピカピカに磨き上げられて鎮座し、運転席搭乗のデモンストレーションなどもしている。大人も子どもも運転席に座ることができる。マジンガーZだかガンダムだかが原寸大でお目見えしたかのような迫力に圧倒されていると、ちらちらと粉雪が舞ってきた。日本海に面した北陸の町であることを実感させる。
30年以上も使われる製品
一般に、建設機械メーカーと、コマツは規定される。取り扱う商品は、長いものでは30年以上使用されるものもある。安価なものでも一機が新車で1000万円ほどとなり、大型ダンプトラックなどではさらに2億円、3億円とスケールが天井知らずのようになっていく。自家用車業界とは商品単価の桁が軽く二つ三つ異なり、海外展開を含めた連結決算で年商3兆円になんなんとする業容にコマツはのし上がってきた。
2019年から第12代社長を務める小川啓之は、大阪に生まれ育ち、父が機械関連の仕事に携わっていたこともあり、「子どものときから、人の背丈の何倍もあるような大きなダンプトラックにかかわる仕事に就きたいと思っていました」と率直に話した。京都大学大学院金属加工学修士課程を修了後、コマツに入社して幼少時の夢を叶えた。
「私どもの製品は、大きく3つに分けられます。まず、建設機械、鉱山機械で、この2つの売り上げがおよそ90%、産業機械は10%ほどといったところです。近年では、これに林業機械を加えて拡大を図っています。大型の林業機械で単に木を伐採するだけではなく、植林の機械なども導入して生育させることで光合成を促して、CO2を吸収するサイクルにつなげていく試みです」
建設機械とは油圧ショベルやブルドーザー、ダンプトラックなどであり、建設・土木工事などに用いられる。鉱山機械は、地中を掘り起こしたり、山を削ったりして、石炭や銅、鉄、金、ダイヤモンドなどの資源を得る。産業機械は、自動車や半導体などの製造のために使われる装置である。アジアなどでは対人地雷除去機も人命を救うために稼働している。
「売って終わり」ではない
建設・鉱山機械メーカーの難しいところで、同時に独自性を発揮する利点でもあるのは、製品を販売して終了とはならないことである。
小川は、日本の建設機械のマーケットは購入とリース式がおよそ50%ずつであると話す。単価が高い製品であるだけに、ローンや金利をはじめとするファイナンス面でのビジネスも伴う。大型で特殊な機械になればなるほど、ユーザーは、操作・操縦をするオペレーターの手配やトレーニング、整備や修理のための部品、消耗品の購入、燃料代などの負担が大きくなる。機種にもよるが、部品や補修の手当てで、ユーザーの負担は新車購入価格の総計約二倍増になるともいわれる。
メーカーにとっては、部品供給や中古機械の下取り、リセール(中古販売)と、機械本体の販売以上に、10年、20年単位での長いアフターセールスが重要であり、安定した収益の柱でもある。
リセール市場について付言すると、日本製の建設機械は中古でも品質がよく、部品が充実していることで世界中の関係者に広く知られていて、高値で売買されている。その代表がコマツ製の建設機械であることはいうまでもない。こまつの杜の広場に展示されている超大型ダンプトラック930Eも、ショールームに置かれた新車のようだが、アメリカの鉱山で約四年、チリで約6年、24時間フル稼働して創業の地に凱旋してきたものである。
「われわれが手がけてきたのは製品の売り切りのビジネスではないんですね。ものづくり、アフターサービス、さらにお客さまの現場での施工をより安全かつ便利にするためのたゆまざる創意工夫、そして省力化や無人化、IT化、デジタル化と、より高い価値を創造していかなければなりません。そうしたことと同時に、製品を購入したお客さまが最後に中古で高く売ることができれば負担する総コストも低くできて、コマツの価値をより認めていただけるでしょう。つまり、モノとコト、この両方を全社を挙げて追求しています」
国内に比肩しうる存在のない「ダントツ経営」と標榜したのは、2001年より2007年まで社長を務めた坂根正弘の時代からである。坂根は日本経団連の副会長として、周囲におもねらない一言居士として知られた。収益を後回しにしてでも品質を第一に重視し、頑として節を曲げぬ姿勢は、創業者が自ら率先垂範し、生き方として貫いてきたことであった。
創業者は吉田茂の兄
コマツの創業者、竹内明太郎(1860─1928)は、幕末期の万延元年、現在の高知県宿毛市に、土佐藩士の長男として生まれる。18歳年下の異母弟に、のちの昭和のワンマン宰相こと吉田茂がいる。
明太郎の父の竹内綱(1839─1922)は、明治維新が進んだ動乱の時代に、政治や外国貿易、会社経営と忙しく立ち回る。20代前半にして、窮乏する土佐藩の財政を地租改正によって立て直している。1873(明治6)年、34歳のとき、陸奥宗光の要請により、大蔵省に出仕することになる。父について13歳の明太郎も上京した。
綱は、同じ土佐出身で二歳年長の板垣退助と近く、大蔵省を辞し、さまざまな事業に乗り出しつつ、自由民権運動にも深くかかわる。やはり土佐の出で、1歳年長の後藤象二郎とも親交を深めていた。明太郎は、自由民権運動の指導者である土佐出身の中江兆民が開いた仏学塾で学んだ。こうした生い立ちと環境が人格形成に影響を与えぬはずがない。
綱は、自由民権運動で忙しい身でありながら、長崎にある高島炭鉱の経営にも乗り出す。日本最古の大規模開発の炭鉱であったといわれる。さらに、長崎・端島(軍艦島)の炭鉱、佐賀・芳谷炭坑の鉱山開発権も得ていった。この芳谷炭坑の経営を任され、1886年1月、まもなく26歳の誕生日を迎える明太郎が佐賀に赴いた。明太郎は、鉱山や機械の専門書を読み漁って知識を得る一方、英国から技師を招き、大型ドリルやハンマーなど、炭坑用の最新機械を輸入した。経営環境の充実にも資金を惜しまず、従業員の家族によって炭鉱町ができあがるほどの一時代を築いていった。
「儲けはその次でよい」
竹内綱・明太郎父子は、1894年に竹内鉱業を設立して本社を東京に置きながら、事業を拡張していく。そして、1902年、石川県小松にある遊泉寺銅山の経営に進出するのである。父に任されて実質的な経営者となった明太郎は、鉱山開発のための発電所や水路を難工事の末に新設し、遊泉寺銅山は大成功を収める。
また、水路を周辺の耕地にも整えたことにより、鉱山開発前までヒエとアワしか収穫できず、貧苦に喘いでいた住民たちは、念願の稲作が可能となって栄えていった。明太郎は、自社とその従業員だけが栄えることをよしとしなかった。
明太郎は、1900年のパリ万博をはじめ、欧米先進国を視察に訪れる。その経験から、鉱山開発には最新鋭の大型機械の導入が不可欠であると、いっそう痛感するようになる。同時に、石炭も鉱石も、いつかは掘り尽くすことになるものであり、無限の天然資源ではないと、行く末を見通していた。工業立国こそ日本のとるべき針路である、と。
父の綱は、「工業冨國基」(工業は国を富ます基なり)と説いた。明太郎もまた、この言葉を座右に置いた。そして、機械工業を自国で発展させるべく、芳谷炭坑付属鉄工所として、1909年、唐津鐵工所を興す。炭坑用機の製造から始め、米国式の大型旋盤や研削機などの工作機械の製品化に成功していった。
若い技術者たちの養成が工業立国には不可欠であると、会社経営にとどまらない情熱を燃やしつづけ、私費で社員たちを海外に学ばせた。蓄財にはとんと関心を持たず、事業で得た私財を惜しまずに注いで、法律学校として開校していた文系の早稲田大学に多額の援助をし、1908年、理工科(のちの理工学部)を開設するまでに至る。
そして、1917(大正6)年、遊泉寺銅山近くに、竹内鉱業の機械修理部門として小松鉄工所を開設する。繁栄を誇った銅山も、いずれは廃れ、閉山に追い込まれることが避けられない。そうであるなら、大都市ではない地域にこそ、地場産業が必要になると見越していた。
小松鉄工所は、工作機械や鉱山用機械を自社生産していき、1921年5月、竹内鉱業から分離独立し、小松製作所として新たなスタートを切る。ときに、竹内明太郎、61歳であった。
明太郎は、小松鉄工所を創業したときの心得として、「事業の施設はすべからく無駄なきものに。製品は欠点なき完全なものに。研究は一時も怠ってはならぬ。人の養成は将来を考えて努めて多く」などと述べ、「儲けはその次でよい」と結んでいる。
小松製作所の将来像として、輸入機械に頼らぬ工業立国を実現すべく、生産の困難な製品を独力で高品質につくり、積極的に海外に輸出することとした。終生、教育には私費を惜しまず、情熱を傾けた。晩年、昭和恐慌によって経営が苦しくなると、東京・麻布の自邸を手放すばかりか貯蓄もはたいて竹内鉱業を解散させ、小松製作所と唐津鐵工所を守った。無私、自由と公平は、竹内明太郎を培った幼少時からの筋金入りの原風景であった。
名利をまったく求めず、財閥をなすこともなかった。父譲りの「工業冨國基」という理想をひたぶるに追求し、人を育て、地域が産業によって繁栄することを願いつづけた。ひいては、それが今日のコマツイズムの源流をなしたのではなかろうか。「儲けはその次でよい」とは、明太郎の生き方を表す信条であったともいえる。
米キャタピラーの脅威
理想は少しずつ実現されていき、小松製作所は、明太郎亡きあと、1931(昭和6)年に農耕用トラクターの、1943年にはブルドーザーの原型となる「小松1型均土機」の国産第1号機を完成させるのである。
だが、戦後の1947年、日本に駐留するGHQから、トラクターへのガソリン供給は非効率であると非難を受ける。ガソリン供給の停止命令を発動され、事業の主柱であるトラクターの受注がなくなり、さらに社内で労働組合が蜂起したことで、経営は危機に瀕する。
小松製作所の社長である中村税は財界に顔が広かった。農林事務次官を務め、第一次吉田茂内閣で厚生大臣などを歴任していた大物として知られる河合良成を、懇請の末に相談役として迎え入れた。河合は小松工場へ赴き、組合の幹部と相対することになる。平易な言葉で語りかけた河合は、100日にわたっていた組合闘争をわずか3時間で収めたと伝わる。これを機に河合は社長となり、1964年までの17年間にわたって指揮をとった。
1950年代に入ると、粟津工場で始めていたエンジンから本体までのブルドーザーの一貫生産が軌道に乗り、トラクター以上の主力製品となっていった。工場を新設するなど、業容を広げていく。
しかし、またも危機が訪れる。
1960年代初頭、米キャタピラーが日本市場へ乗り込んでくると明らかになった。コマツはひとたまりもなく潰されると社内に動揺が広がる中、より高品質の製品をつくれば充分に対抗できると社員を鼓舞し、いまも語り継がれる「対策」本部を河合は主導するのである。
JIS(日本工業規格=当時)に見合うレベルに安住せず、品質最優先で独自の高い規格の製品づくりを進めれば必ず活路があると励ました。エース級の製品づくりをも意味したⒶ対策は、キャタピラーに伍するにとどまらず、小松製作所を世界でも有数のブルドーザー・メーカーに押し上げることに結実する。
1964年からは長男で通産省出身の専務だった河合良一が社長を継ぎ、1982年まで十八年間にわたって務めることとなる。非オーナー会社では珍しい親子二代にわたる中興の祖である。Ⓐ対策につづくように、1970年代には「Ⓑ活動」を展開する。Ⓐ対策では、キャタピラーをはじめ、海外メーカーに対抗した。このⒷ活動では、コマツ自らが海外市場に打って出て、輸出を強化していくことを目的とした。その陣頭に立ったのが河合良一である。日本の建設機械メーカーとして不動の存在となり、「世界のコマツ」と呼ばれるまでになっていった。
1980年代は、プラザ合意以後の急激な円高による不況という逆風に見舞われ、また、バブル景気は輸出メーカーに大きな打撃を与えることにもなった。期待の産業機械の売り上げも伸び悩み、小松製作所にとって苦しい時期がつづいた。一人の有名なトップが辣腕を揮う組織ではなく、全社員による団結とたゆまざる創意工夫によって経営が成り立つ足腰の強い会社へと脱皮していく変革の時代ともなった。
「ダントツを狙おう」
創立70周年を迎えた1991年5月を機に、コマツという呼称に統一して現在に至る。バブル景気の終焉、2008年のリーマン・ショックなど、荒波を乗り越えてきた。
コマツには、その名も「コマツウェイ」という、社外には公開していない企業理念を詳しく記した冊子が存在する。従業員教育のテキストに、また社員が暗唱し、常に携えるべきものとして、重んじられている。竹内明太郎の教えを元に、代々の社長ら経営幹部の指針を集め、時代に合わせて更新しながら、ブラッシュアップされてきた。
その一つを挙げると、「ナゼナゼを5回繰り返そう」という教えがあり、現象と原因について、よくよく追究すべしと教えている。なぜと3回繰り返して問え、というのは企業理念などでよく見聞きするものだが、これでは「なぜ」を10回、己に問うことになる。コマツのものづくりと品質の探求はかくあるべしと強調しているのであろう。
海外事業にもかかわり、「伝説の男・修理の神様」といわれた河合正二の信条として、「五感を研ぎ澄ます」という教えがある。機械の発する音、オイルのわずかな濁りから、部品の寿命を見極められた。さらに、「やってやれないことはない。やらずにできる訳がない」と奮起した。「故障で止まるなんて恥。俺の腕にかけて、そんなことはさせたくない」、「なんとしてでも俺がやってやる」という語録が残る。「動かしてこそブルドーザーの価値がある。止まってちゃブルの価値は何にもない」と──。コマツイズムであろう。
「日本のブルドーザーの父」と呼ばれた山本房生は、「できない理由より、意欲をもって可能にする方法を考える」、「汗をかけ。汗をかかなければ知恵は出ない」と説いた。
もう一つ、「ダントツを狙おう」という教えも挙げておきたい。「品質最優先。コストを無視せよ」と説かれている。第9代社長の坂根正弘が「ダントツ経営」と公言したと記した。坂根は、入社まもないころに謦咳に接した河合良成を「経営の師」といってはばからなかった。経営者は言葉の力を持たなければならないとも語っていた。そのことを、河合から学んだ。そして、長く「お客様と共に成長する」と掲げてきた。
現社長の小川啓之は、竹内明太郎が小松鉄工所創業時に掲げた「儲けはその次でよい」と締めくくられる心得を挙げた。「明太郎さんは面白いことを説いていますね」と笑いつつ、「とてもいいことをいっている」と生真面目そうな経営者の表情に戻った。
企業文化は一朝一夕にならず
2011年3月11日、小川は茨城工場の工場長であった。建屋が半壊状態となり、津波の被害も受け、操業はとうてい不可能になる。本社からは、一切の指示も命令もなく、すべての指揮権が小川に委ねられた。従業員たちは自宅が被害を受けているにもかかわらず、自主的に休日返上で工場の復旧作業にあたっていた。工場長として、ひたすら現場の再興を考えることに専念できた。被災からわずか一週間で生産再開に漕ぎ着けた。最も苦しかったはずのこのときにこそ、「コマツっていい会社だなと思ったんです」と振り返る。
「企業文化は急にできあがるのではなくて、脈々と築かれていくものでしょうし、困難のときにいかに立ち向かうか、ということにもなる。過去のDNAが現場主義となって企業文化が形成されてきたのでしょう」
コストや利益について考えるのは後回しでよいと、創業者も歴代社長も説いた。やがて、大型ブルドーザーの部品一つの単位ごとにまで品質を高める技術と企業風土へと昇華し、デジタル化をいっそう急ぐ。省力化から無人化、電力化、脱炭素化、ドローンなどを使った技術の応用と、進化をとめることはできない。自らも、コマツウェイの根幹をなす「現場・現物・現実をよく見よう」というのが信条である。
世界が未曾有の困難を抱える時代に100周年を迎え、存在意義を自らに問いながら、次の100年の現実に思いを馳せている。
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