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祝・第169回 芥川賞受賞 市川沙央『ハンチバック』冒頭8,000字特別公開

祝・第169回 芥川賞受賞 市川沙央『ハンチバック』冒頭8,000字特別公開

市川 沙央

『ハンチバック』(市川 沙央)


ジャンル : #小説

第169回芥川賞を受賞した、市川沙央さん『ハンチバック』の冒頭8000字を特別公開いたします。


『ハンチバック』(市川 沙央)

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 <title>『都内最大級のハプバに潜入したら港区女子と即ハメ3Pできた話(前編)』</title>

 <div>渋谷駅から徒歩10分。</div>

 <div>一輪のバラが傾く看板を目印にオレは欲望の城へと辿り着いた。</div>

 <div>どうも、ライターのミキオです。今回は、ハプニングバーの超有名店「×××××」に潜入取材してまいりました。ではさっそくレッツゴー。</div>

 <div>ペアーズでマッチングしたワセジョのSちゃんと肩を並べて入店。(待ち合わせ場所に先に着いていたSちゃん、ニコッと笑った顔が在京キー局の最初から完成された新人美人アナみたいで可愛い。黒いタートルネックニットに包まれた胸はEカップ!)</div>

 <div>実はミキオ、会員証を既に持っています。(ライター転身前に常連でした)</div>

 <div>「×××××」は3フロアあり、1階はフロントとロッカールーム、2階がバーラウンジ、3階がプレイルーム。午後8時の店内バーラウンジはいいカンジに賑わっていました。男女比7:3ほど。</div>

 <div>「×××××」のルールで、バーラウンジでは服を脱ぐのもお触りも禁止です。でもキスはOK。オレとSちゃんがボックス席で仲良くモヒートを飲んでいると、「相席いいですか」と同じモヒート飲みのカップルが。</div>

 <div>自称32歳の体育会系商社マン、Sちゃんがワセジョと知るや同じ早稲田政経出身をカミングアウトして盛り上がり、その勢いでSちゃんと濃厚キスをおっぱじめます。ハプバ慣れてるな? ……ちなみにミキオは駅弁大学出身ですよお(^^;</div>

 <div>じゃあプレイルームに行っちゃう? ということで、3階へ。店員さんから許可をもらって、運良く空いていた部屋に4人で入室。</div>

 <div>商社マンのツレ、港区女子のYちゃん26歳はハプバは初めてだそう。でも高校時代に5Pまでは経験アリとか。どんな高校生活だよ! 床に真っ赤なマットが敷き詰められたプレイルームは一面がガラス張りになっており、リモコンでスモークガラスに変わる高級仕様。曇ったガラスの外にわらわらとタカる地蔵どもの気配を感じながら、まずはYちゃんにフェラしてもらう。あ、気持ちいい。さすが5P経験者はフェラがウマい。先走りをごっくんしてもらったところで攻守交代。オレは着衣が性癖なので背後からYちゃんのブラウスの中身を揉みしだいて、耳の穴をねろねろと責める。</div>

 <div>一方、Sちゃんはスモークガラスに立ったまま(もた)れて商社マンにEカップの胸を吸われていました。口元までずり上げられた黒ニットの中でくぐもる喘ぎ声が淫靡で可愛い。こぼれたEカップは梨のように白く張りツヤがあってさすがの21歳女子大生! しかも全然垂れてない美乳な巨乳です!</div>

 <div>オレの腕の中で26歳のYちゃんが敗北感からくる含羞に頰を赤くして俯いたのもむべなるかな。実は巨乳が苦手なミキオは、ちょっと垂れ気味な平均サイズのYちゃんの胸がどストライクだったんですけどね。そんなYちゃんに劣情を誘われたミキオ。ショーツに手を入れてアソコをなぞると既に濡れ濡れなYちゃん。「入れてもいい?」と耳元で訊くと「うん♡」と快諾してくれました。ちょうどいいタイミングで天井からパラパラと降ってきたコンドームのパケを摑み、一回戦開始。正常位で突き上げたらYちゃんはマツケンサンバのケンさんの語尾がエキセントリックに裏返るところみたいな声で喘ぎはじめた。スモークガラスに手を突かせて立ちバックでSちゃんを何度もイかせている商社マンを横目に見ながら、踊り狂うサンバには観客が必要だ、と俺はリモコンに手を伸ばす。一瞬でクリアになったガラスの向こうには片手を忙しくする地蔵たちが群れをなしていた――。</div>

 

 保存したWordPressのテキスト打ち込み画面を閉じ、私は両手で持っていたiPad miniを腹のタオルケットの上に置く。集中して最後まで書ききってしまう間に気道に痰が溜まって人工呼吸器(トリロジー)のアラームがピッポパピペポと小煩(こうるさ)く鳴っていた。ホースを通って寄せて返す空気でかれこれ20分くらい攪拌され泡立った痰に、吸引カテーテルを突っ込んでじゅうじゅうと吸い出し、呼吸器のホースのコネクタを気管カニューレに嵌めると、私は枕元からiPhoneを取ってビジネス用のチャットアプリを開く。

――ハプバ記事「×××××」前編を納品しました。フィードバックお願いします。

 奥から湧いてきた痰をふたたび吸引して取りきると脳に酸素が行き渡って気持ちが、いい。

――ありがとうございます。引き続き(後編)と、それからナンパスポット20選福岡編と長崎編を週末までにお願いできますでしょうか?

――OKです。3記事とも土曜までに納品します。

 iPad miniを持ってもう一度WordPressにログインし、編集部がテンプレートにタイトルだけ入れて作成してある記事の中から福岡編と書かれたエントリをタップ。ここから編集権限がBuddhaに移る。Buddhaは私のアカウント名だ。私は29年前から涅槃に生きている。成長期に育ちきれない筋肉が心肺機能において正常値の酸素飽和度を維持しなくなり、地元中学の2年2組の教室の窓際で朦朧と意識を失った時からずっと。

 歩道に靴底を引き摺って歩くことをしなくなって、もうすぐ30年になる。

 壁の時計は正午を(うかが)っていた。膀胱を意識すると尿意を感じたので、面倒だが仕方なくトイレに起きる。涅槃のお釈迦様だってたまには立って歩くだろう。カニューレのカフから注射器(シリンジ)で空気を抜き、呼吸器のコネクタを外し、アラームが鳴る前に電源を切る。

 右肺を押し潰すかたちで極度に湾曲したS字の背骨が、世界の右側と左側に独特な意味を与える。ベッドは左側からしか降りられない。寄りかかるのは右側が楽で、だが右を見ようとしても首が回らず、テレビは左前方にしか置かない。冷蔵庫の上段にも下段にも右手しか伸ばせない。左足は爪先だけが床につく。だから跛行(はこう)にも程があるといった歩き方になり、気を抜くとドアの左の桟に頭が激突した。

「――」

 今朝も気を抜いて頭を打ったが、悲鳴のための空気は声帯に届く前に、気管切開口にカニューレを嵌めた気道からすうすうと漏れるだけだ。

 トイレから戻って呼吸器を着ける。iPhoneの方でTwitterの個人アカを表示し、〈ハプニングバーで天井からコンドーム降らすバイトやってみたい〉とツイートした。特に誰からもいいねは付かない零細アカウントだ。寝たきり同然の重度障害者女性が年がら年中〈生まれ変わったら高級娼婦になりたい〉とか呟いているアカウントなんてそりゃ皆んな反応に困るよな。

〈マックのバイトがしてみたかった〉〈高校生活がしてみたかった〉〈高身長美男美女でブラックカード持ちの両親の元に生まれた165センチの私は健常者だったら天下取れたのに(何の天下だよ)〉〈生まれも育ちも神奈川県だけど東京には数えるほどしか行ったことがない(町田を除く)〉〈自動改札機が普及する前に歩けなくなったので鋏で切符切る改札しか知らない〉〈新幹線も乗ったことないけど子どもの頃の海外旅行はいつもビジネスクラスだった〉

 午後1時に玄関から入ってきたヘルパーが食事を用意し、私は本格的に呼吸器から離れて起床する。ワンルームマンションを一棟丸ごと改造した施設、グループホーム・イングルサイドは、両親が私に遺した終の住処だ。十畳ほどの部屋と、キッチン・トイレ・バスルームが私の足で行ったり来たりするスペースのすべて。365日、ほかに私が通うところもなければ、ヘルパーとケアマネと訪問医スタッフと呼吸器レンタルの業者以外は訪ねてくる者もない。西向きの掃き出し窓から晴れた日は富士の頂がかすかに見えるけれど、西は右にあるから首が回らない。バルーンシェードの降りる出窓を背にしたワイドデスクの奥を定位置に、午後は座ったきりの生活を送る。正面の壁に50インチのテレビが据えてあって、しかし滅多に私はそれを点けず、隣の入居者の部屋から壁越し聞こえるテレビの音に時々耳をそばだてた。午後2時頃の隣人はいつもNetflixでトップ10入りしているような韓国ドラマを観ているらしい。

 喉のど真ん中に穴を開ければ原理的に鼻口で呼吸するより負荷が下がると、14の私に病棟主治医は説明した。以来、私が人工呼吸器を必要とするのは仰臥時のみだった。「ミオチュブラー・ミオパチーは進行性じゃないからね」が両親のお題目だった。――ありがたそうに唱えているばかりで、内容・実質のない主張、と大辞林の【御題目】の項にはある。何しろ遺伝子エラーで筋肉の設計図そのものが間違っているのだから、劇的な進行がないと言ったって、維持も成長も老化も健常者と同じようにはいかない。

 曲がった首に負荷のかかりにくい姿勢をつくるために椅子の上で両脚をパズルのように折り畳んで、デスクの左側のノートパソコンを起動させる。3年前から在籍する某有名私大の通信課程は、オンデマンド動画を視聴したあと30人弱のクラスメイトとフォーラム討論をして1コマ分の出席点になる。通信大学は二つめだった。私は中卒だから一つめの大学は高卒資格なしでも事前に単位を取れば入れる特修生制度のあるところに潜り込んだ。学歴ロンダリングと自ら嗤いながら通信大学のハシゴをしているわけだが、私にとって社会的なつながりと言える場はコタツ記事ライターのバイトを除けばここにしかなく、世の中に一言で通用する肩書き、例えばプルダウンから選ぶご職業の欄に設定された選択肢、つまり会社員とか主婦とかになれない私は、40を過ぎても大学生の3文字にお金を払ってしがみついていた。

 首に負荷をかけない姿勢は腰に負荷をかけるので、30分経つと足を下ろして腰を(なだ)める姿勢に移る。また30分もすれば首が痺れてくるから両脚を所定の位置に折り畳む。そうしている内にも重力は私のS字にたわんだ背骨をもっと押し潰そうとしてくる。硬いプラスチックの矯正コルセットに胴体を閉じ込めて重力に抵抗している身体の中で、湾曲した背骨とコルセットの間に挟まれた心臓と肺は常に窮屈な思いをパルスオキシメーターの数値に吐露した。息苦しい世の中になった、というヤフコメ民や文化人の嘆きを目にするたび私は「本当の息苦しさも知らない癖に」と思う。こいつらは30年前のパルスオキシメーターがどんな形状だったかも知らない癖に。

 遅いブランチを消化して頭がクリアになってきた頃、私はMoodle上でメディア・コミュニケーション科目のフォーラムを開き、課題に答える意見を書き込んでいった。

〈考えてみれば、あらゆる活字には書き手がいる――通販カタログの商品説明の欄や写真のキャプション、住宅・求人情報のチラシの文章も、必ずそれを書く誰かがいて、対価が発生しているんですよね。クラウドソーシングに登録してライティングのバイトをするようになって私はそれを今さら認識しました。検索汚染が問題化して久しいいわゆるコタツ記事と呼ばれるSEO系WEBメディア記事のライターの対価は1文字0.2円~2円くらい。コタツ記事というのは、取材をせず、ほとんどネット上の情報のつぎはぎで粗製濫造されたPV稼ぎの記事をいいます。私が雇われているWEBメディアでは、男性向けは風俗店体験談やナンパスポット20選といった記事+マッチングアプリの広告の組み合わせ、女性向けは圧倒的に復縁神社20選+電話占いの広告が貼られた記事が人気です。どれだけ復縁ニーズがあるんだよ別れた恋人なんか諦めなよという感じですが……。1記事3000円貰えるので、介護や子育て中の方、私のような重度障害者など、家から出られない人たちにとっては良いバイトです。私はお金目的ではないので、いかがわしい記事で稼いだ収入は全額、居場所のない少女を保護する子どもシェルターやフードバンクやあしなが育英会に寄付していますけど。〉

 ふりかけさえあればお米が食べられるなどと、いじましいリクエスト理由がフードバンクのウィッシュリストに書いてあったから、Amazonからせっせとふりかけを送りつづける日々だ。グループホームの味気ない給食にもふりかけは欠かせないので、お金があってもなくてもふりかけの救世主()は変わらない。

 このグループホームの土地建物は私が所有していて、他にも数棟のマンションから管理会社を通して家賃収入があった。親から相続した億単位の現金資産はあちこちの銀行に手付かずで残っている。私には相続人がないため、死後は全て国庫行きになる。障害を持つ子のために親が頑張って財産を残し、子が係累なく死んで全て国庫行きになるパターンはよく聞く。生産性のない障害者に社会保障を食われることが気に入らない人々もそれを知れば多少なりと溜飲を下げてくれるのではないか?

 トイレに行ってインスタントコーヒーを作って戻ってきた私は酸素飽和度が97に戻るのを待ってからiPhoneを手にする。

〈中絶がしてみたい〉

 暫く考えてみて、そのツイートは下書き保存する。私はノートパソコンのブラウザからEvernoteを開く。炎上しそうな思いつきは取り敢えずここに吐き出して冷却期間を置くのだ。

〈妊娠と中絶がしてみたい〉

〈私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう〉

〈出産にも耐えられないだろう〉

〈もちろん育児も無理である〉

〈でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから〉

〈だから妊娠と中絶はしてみたい〉

〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉

 

 COVID-19が猛り狂っている時期は個室に引きこもるが、せっかく改装費をかけた設備を活用しないのも開設者の娘として無責任な気がして、夕食は2階の食堂に降りてくることにしている。ヤマハの電動ユニットを付けた車椅子には外出用の吸引器(OB-Mini)を常時積んであった。人工呼吸器から離れている間も、痰を引く吸引器は片時も手放せない。気管カニューレというプラスチックの異物が喉に突っ込まれている限り、粘膜は勝手に戦うし、設計図を間違えている呼吸筋はまともな噴射力のある咳すらできない。

「1階の徳永さんのご家族が葡萄をいっぱい差し入れてくださいました」

 ヘルパーの須崎さんが私の前に食事のトレイをサーブして言った。

 巨峰とピオーネが3粒ずつ載った小皿がデザートに付いている。鯖の味噌煮とマカロニサラダとわかめのお味噌汁とごはん。部屋からふりかけを持ってくるのを忘れた。

 マスクの上の両目を笑いモードにして須崎さんに頷く。――葡萄かあ、秋ですねえ、ありがとうと伝えてください、くらいの意味を一つの頷きで表す。ありがとうは後で入居者のグループLINEにも入れるけど。

 カニューレの穴を塞げば声を出せるが、喉に負担がかかって痰が増すので私は殆ど喋らない。首を縦か横に振るだけでは伝達できない事柄のみ音声言語を使う。センテンスが長くなると息切れしてしまうから、込み入った話は結局LINEを介することになる。

 3列向こうの対角線上の席では、脊損の山之内さんがヘルパーの田中さんの介助を受けながら食事している。私はそちらに顔を向けて2回、角度をずらして会釈した。それぞれから浅い会釈が返ってくる。優秀な車の営業マンだったという50代の山之内さんはお喋りな人で、ベテランヘルパーの須崎さんを相手にとりとめもない世間話を続けていた。

「でもまあ、デジタルなんかが台頭してくる前に現役社会から放り出されて良かったのよ。パソコンなんて腕が動いた頃も打てなかったもん」

 咀嚼の合間に遠慮なく声を発する山之内さんの顔の前でマカロニサラダを盛ったスプーンがさっきから浮遊待機している。

「今は車の運転席も全部タブレットですよ。あたしも息子の車借りても全くわかんない。ラジオも点けられないの」

 語尾がいつもウフっとした笑いで終わる須崎さんは空気の調べを明るい長調(メジャー)にするムードメイクのベテランだ。

「でもVR? あれはやってみたいね。メガネでどこでも好きなとこ行けるんでしょ」

「ああいいよね、あれ。釈華(しゃか)さんて、VR、やる?」

 須崎さんから水を向けられた私は首を横に振った。

 筐体にしろソシャゲにしろゲームに手を出して長続きしたためしがないのと、段ボールを開けて潰すのが面倒なので――。

「釈華さんの部屋、新しい機械いっぱいあるもんねえ。こないだ買ったのは本のスキャナ? だっけ。卒論、たいへん?」

 私は頷いた。――やっとテーマが固まってきたくらいですが。

「田中君もああいう機械欲しいんじゃない。いつもスマホで漫画読んでるもんね」

「休憩室で? あら、おれにも読ませてよー。カイジとか、まだやってる?」

「読んでないです」

 福本伸行を読んでいないのか休憩室で漫画をそんなに読まないのか判然としない答え方だった。30代半ばの田中さんなら、所有にこだわるよりも漫画アプリとか。待てば0円、とかいうやつかもしれない。縦スクとか?

 マスク越しだが至近距離で一言喋った田中さんを山之内さんがとっさに「コロナ、コロナ」と咎めた。自分は物を嚙む口でべらべら喋っているのに。

 田中さんは黙ったまま、山之内さんの好みに従いスプーンに掬ったごはんを味噌汁に浸してから椀ごと口元に持っていく。

 お喋り好きの山之内さんの食事介助は根気がいる。誤嚥して肺炎になられたりしても困る。とはいえここはグループホームだから、管理規則ガチガチの前時代的な施設みたいな抑圧は厳に慎まねばならない。

「でも、おれは漫画よりパチンコやりてーなあ」

「連れてってあげたいけどねえ。遊べなくても、雰囲気だけでも」

「雰囲気! 雰囲気じゃーなあ」

 当事者公認の自虐的笑いどころが来た。「ま、今じゃー自分の(タマ)もハジけないんだからしゃーねーよな」

「やめなさい。うら若い女性の前よ、山之内さん」

「あ、ごめんねえ」

 私は真面目な顔で首を少し傾げながら平然と味噌汁を飲んだ。1979年生まれはとっくにうら若い女性ではないにしろ、初潮が19歳だった私はまだ40代に見られる姿形を獲得していない。あるいは私の成長曲線も標準の人生からドロップアウトした時点で背骨とともにS字に湾曲しているかだ。

 ひとしきり和やかな空気を醸成すると須崎さんは食堂に来ない利用者の配膳のためキッチンに引っ込んで盛り付けをした後、トレイを持って廊下に出ていく。

 空気の調べが短調(マイナー)に変わり、静かになった食堂で私はさっき冷却した呟きが世の中に流して摩擦を起こさず常温を保つかどうか、考えてみる。こんな小さな食堂でも、私にとっては公共の場であり、社会だった。社会性のない呟きは、社会の空気のリズムを乱す。私の無様な跛行みたいに人々の耳目をぎょっとさせる。胎児殺しを欲望することは、56歳脊損男性の底明るい下ネタとは次元が違う。

 せむし(ハンチバック)の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。

 皮を剝いた巨峰を首から上しか動かないおじさんの口に挿し込む若者の真っ直ぐな背中を見遣りながら、私はきれいに食べ終えた味噌煮の鯖の中骨を箸先でぼっきり折った。


市川沙央(いちかわ・さおう)
1979年生まれ。早稲田大学人間科学部eスクール人間環境科学科卒業。筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側彎症および人工呼吸器使用・電動車椅子当事者。「ハンチバック」で第128回文學界新人賞を受賞し、デビュー。

単行本
ハンチバック
市川沙央

定価:1,430円(税込)発売日:2023年06月22日

電子書籍
ハンチバック
市川沙央

発売日:2023年06月22日

プレゼント
  • 『終わらない戦争』小泉悠・著

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