- 2023.04.10
- 書評
動物小説の範疇を超え、新しい小説として普遍性を獲得した直木賞受賞作
文:北方 謙三 (作家)
『少年と犬』(馳 星周)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
犬の寿命が短いことが、受け入れ難いと思っていた時期がある。そう思っても受け入れなければならないのが、死というものである。新しい犬に出会うたびに、おまえ、死ぬのだよな、と小声で語りかけたりした。幼いころから、暮らしの中に犬がいた私は、その死に、どれほど出会っただろうか。数えようとは思わないが、その度に襲われる胸の痛みは、生々しく思い返すことができる。
ある時、死ぬというのはただいなくなることだ、と教えるために犬たちは私のところへ来た、と思うようになった。
私はそれで、犬の死を受け入れてきた。そばにいてくれる間だけ、無垢なるものを心の一部で感じていることができた。いなくなった時、私は死というもののありようを、教えられ続けてきたのだろう。
はじめ多聞という名で現われる、本書における犬は、死を教えるためにいるわけではなかった。空腹で、満身創痍の状態で、人の前に現われる。人が、放っておくことができないような容子を持ち、助けられる。助けられるのは出会いの時だけで、すぐに助けた人間の癒しになっていく。その過程で、助けた人間は、これまでとは違う自分に気づく。人生というものが垣間見えて、終りを自覚したり、生き直そうと考えたり、絶望の中の光を見つけたりする。その時に、犬は消えてしまうのである。
次々に、様々な人生に多聞は関る。やがて多聞と記された首輪もなくなり、出会った人間がつけてくれた名で呼ばれるようになる。
犬の運命に、読者は引きずりこまれていく。犬に思い入れを抱く読者も多いだろう。大抵は満身創痍の出会いだから、傷の回復が気になる。回復し、元気に駆け回る犬を見て、胸を撫で下ろす。ほぼ完璧に、人間との生活の約束事を心得た犬に、驚嘆の思いを抱く。
このあたりが、この作者の巧みなところだが、実は一篇一篇に描かれているのは、さまざまな情況にある人間たちなのだ。犬が来てから去るまでの、わずかな期間の人生が描かれている。人生を一本の樹だとすると、描かれているのは、梢を鋭利な刃物で切った、その切り口である。その人間、その人間の、最も人間らしい鮮やかな切り口が、ひとつの人生全体を感じさせ、すぐれた短篇の持つ特性が示されているのだ。
この作品は、七つのそれぞれにほとんど関係のない人生を描いた、出色の短篇集と見ることができる。同時に、多聞という犬を中心にした連作短篇集という、巧妙な二重構造を持っているのだ。
そして多聞という犬の生涯が、最後の一篇で繋がる。五年間の旅が、しかし読む者にとっては哀切で痛烈でさえある。多聞ではなく、多聞に関った人間たちの人生がである。人の物語を読んだのだ、という思いが私には強く残った。
作者は、『不夜城』という、ノアール小説でデビューした。寵児であった。寵児が作風と合っていたかどうか、うまく分析できない。
眼をつぶって疾走するように、書きまくるということを、この作家は慎重に避けたのかもしれない。やがて作風は、徐々に変貌しはじめた。それは作家としてあたり前のことで、どう変貌していくかが、問題だということになるだろう。
その変貌の一部を、私はある文学賞の候補作として読み続けることになった。変貌に、いいも悪いもない。どういう作品が出てくるかであろう。そして、ノアールのころの、硬質なものが消えていくのを感じた。代りに獲得したものがなんだったのか。物語性だったのか。これまでより深い、人間の描写だったのか。
実際、本書を読むと、物語性も人間の描写も獲得しているように思える。
人は、深い思考の中で、日々を送っているわけではない。たとえば『少女と犬』という一篇は、自殺願望を持った少女が犬に出会うことで、日常の中の大切なものを見つけ出すという話だが、ストーリーの展開に、微妙な緊張感があり、それが少女の感覚を深いものに感じさせていく。再生を扱ったこの一篇が、私は好きだった。次の『娼婦と犬』では、次第に哀切さが強まってくる。哀切さも、ありふれた情念だが、ひとつひとつの哀切さが、それぞれに人の心を動かすということがわかる。通俗にまみれたものの哀切さであろうと、悲しみであろうと、人生の真実を閃光のように見せたりするのである。
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