文壇に身を置きながら、組織を束ねた文藝春秋創始者・菊池寛。
今に続く文化を数々生み出したアイデアマンが発揮した、独自のリーダーシップとは?
その本質に迫る、豪華対談をお届けします。
林 門井さんの菊池寛を主人公とした新刊『文豪、社長になる』を読ませていただきました。菊池寛のお金への無頓着さは聞きしに勝ると思った一方(笑)、人を信じようとする姿勢に感銘を受けました。リーダーとしてここまで人を信じたり、優しくしたりするのは難しいことですよ。問題の起こった現場を見て、「何か事情があったんだろう」だなんて、ふつうだったらなかなか思えません。
門井 発足して間もない文藝春秋社のお金を社員に横領されたというお話は史実ですね。他にも、そういった類の話は無数にあったと思います。それでも、菊池寛は目の前の人や、会社のためにお金を使い続けた。もちろん自分のためにもお金を使いはしましたが、周囲に使った分と比すると、そこまででもないんですよね。この楽天性はすごいものがあると思います。
林 私は昨年7月に日大理事長に就任したのですが、それ以前から日本文藝家協会理事長を務めています。菊池寛は文藝家協会初代会長として、その際相当お金を出されたそうです。
門井 もともとは、劇作家協会と小説家協会という2つの組織がありました。劇作家の方が公演の当たり外れが大きく、収入が安定していないですから、互助組織を必要としていたんですね。一方、小説家たちのほうが収入は平均して高かったので、あまり重要視されていなかった。しかし関東大震災で小説家たちも生活を意識せざるを得なくなった結果、両組織を統合するのが良いのではないかと、現在の日本文藝家協会に続く、「文藝家協会」が菊池寛によって設立されました。現理事長を前に、釈迦に説法のような状況ですが(笑)。
林 そもそもの質問になりますが、どうして菊池寛を小説で書こうと思われたんでしょう?
門井 それは、文藝春秋に書いてくれと言われたからですね。
林 そんな、身もふたもない(笑)。出版社って、やっぱり創業者を書いてほしいと思うものなんでしょうか。
門井 創業100周年だからって(笑)。とはいえ、実は依頼を受ける前から、菊池寛の主要作品はすべて読んでいたんです。
林 それはすごいですね。菊池寛の作品と言えば、「父帰る」「無名作家の日記」「屋上の狂人」といった短編や戯曲のイメージがあります。
門井 今なお読まれる長編作品は『真珠夫人』くらいでしょうか。あとは小説に加えて、もともと社史とか出版史も好きで、文藝春秋にいた池島信平などの編集者にも興味を持っていました。100周年記念に、という依頼にはびっくりしましたが、菊池寛という題材そのものには、そこまで驚きはなかったですね。
林 私の実家は山梨の小さな書店だったんですが、母親がよく言っていたのは、お正月休みに入る年末の閉店間際、自転車に乗った工員さんがやってきて、「オール讀物」と新刊書を一冊買っていくって。吉川英治が爆発的に売れたように、大衆小説が娯楽だった時代の勢いを感じますよね。菊池寛の生きた時代でも、非常に内容のレベルが高いはずの「文藝春秋」が、倍々で売れていく。
門井 当時の人にとって、活字は大切なエンターテインメントだったんですね。講談社は明治に誕生していますし、実は大正時代に創刊された「文藝春秋」は、すでに成熟した産業に後発として参入した状況でした。雑誌社の大きな波にぎりぎり間に合ったとも言えます。
盟友・直木と芥川
林 直木三十五がこれほどの大流行作家だったという話にも、びっくりしました。今、書店に並んでいる直木の本と言えば『南国太平記』くらいでしょう。
門井 当時は、菊池寛と並ぶか、もしくはそれ以上の流行作家だったそうです。この作品を書くにあたって、直木が文藝春秋の編集者・菅忠雄にあてて出した書簡を古書店で買いまして。まず驚いたのが、直木の書く文字の小ささです。細かな字でワーッと詰めて書いてあって、これは速書きするための字だと思いました。大きな文字を書いていたら、時間がかかってしまいますから。爆発的に売れてから、少々書き飛ばして推敲が足りず、現代ではなかなか読まれなくなってしまったのかもしれない、とも想像します。
林 作中に芥川龍之介や横光利一、川端康成、小林秀雄といった小説家や評論家が出て来ますけれども、純文系の作家の方が今もなお読まれ続けている印象を受けました。当時、純文学の方が地位が高いとされていたこともありますが、大衆作家はその時どれだけ人気があっても、悲しいことに、いつか消えていくんだなとつくづく思ってしまいましたね。
門井 ただ、菊池寛が芥川賞・直木賞を制定した直接のきっかけとしては、直木の死が大きいようなんです。ここは小説で書かなかった部分になりますが、ひょっとすると、当時は直木の方が芥川よりも評価が高かったかもしれない。
ちょうど直木の登場と同じくして、大衆文学という言葉が出て来ます。それまで、今でいうエンタメ小説は「絵入りの小説」と呼ばれて、通俗とされていました。例えば、新聞連載には必ず絵が入りますよね。そういった作品が「大衆小説」と呼ばれるようになった頃、直木は活躍していたんです。プロレタリアート文学が勃興した時期でもあって、「大衆」という考え方が広く通用した時代だったからとも言えますが。
林 当時、新聞小説も通俗とされていたんですか。
門井 ええ、菊池寛は新聞小説『真珠夫人』で一躍時の人となりますが、芥川のような芸術派を評価する文壇からは「あいつは通俗になっちゃったよ」と批判もされたほどでした。でもそれに対して、菊池寛は決してひるみません。「生活だって芸術だ、君たちもお金は欲しいだろう」というような反論までして、ついには「日本の純文学作家の一か月の原稿料の総額は、僕一人の通俗小説の原稿料に及ばない」なんて言い放つ(笑)。図々しいとも言えますが、あまり裕福でない家に育ったがゆえに、生活というものへの確信があったんでしょう。
林 決して卑俗な感じではなくて、たくましい生活者の目を持っていますよね。全く嫌な感じがしません。
門井 菊池寛の尊敬できるところは、いくら通俗と言われても、表現を捨てなかったところです。社長業もしながら、ちゃんと推敲を重ねていたのは、立派だなと思いますね。
林 昨夏に日大理事長に就任してから、生活の98パーセントを捧げていて。あとの2パーセントで「週刊文春」と「an・an」のエッセイを書いている現実があります。小説の連載もありますが、やはり作家としての時間を確保するのはどうしても難しいことですよ。
一方で、菊池寛は女性関係のことを耳にしますけれども、これはさすがに書けませんでしたか? 社長を務めた大映で女優さんに手を出したり……今なら許されないことですが。
門井 その点は、寛自身が妻の包子さんに語る形で書きました。これは書かねばならない、という気持ちもどこかにありましたね。
林 宇野千代だったり、女性作家との関わりはどうだったんでしょう。この作品にはあまり登場しませんよね。
門井 菊池寛は思想を本当に問わない人でしたので、それなりに付き合っていたと思います。吉屋信子をすごくかわいがって、向こうも「菊池先生、菊池先生」という感じでいい関係だったようです。
林 当時の文壇は綺麗な女の作家もいたと思いますが、中でも庶民的な雰囲気の吉屋の性格、人柄、才能が好きだったというのはいいですね。あと、『クマのプーさん』の翻訳者であり『ノンちゃん雲に乗る』の著者として知られる、石井桃子も登場しています。
門井 当時、作家が小説を代筆させるということはよくあったのですが、菊池寛は決してそうはしなかった作家でした。それでも、石井桃子をはじめ、優秀な女学生にいわば「ネタ取り」はさせていたんですね。彼女たちに西洋の本を翻訳させて、そこに着想を得て小説を書くというやり方です。
林 芥川が中国の故事を題材にするようなものでしょうか?
門井 ああ、確かに! 換骨奪胎とも言えるスタイルは、もしかすると、芥川からヒントを得たのかもしれません。外国の話をかみ砕いて、日本の話として紡ぎ直す。これは芥川の方が先にやっていますね。
林 小説を読んで知りましたが、月刊「文藝春秋」の「社中日記」って菊池寛の時代からあったんですね。変なエリート意識と仲間意識を感じさせるちょっと嫌な文章は、戦前の昭和にできていたのかと、合点がいきました(笑)。
門井 「社中日記」だけ同人誌の雰囲気がありますよね。僕は大正時代のような文体そのものは、むしろ好きです。今作中で僕自身で創作できないかと画策したものの、ダメでしたね(笑)。
しがらみ無しの物語
林 書くのが難しかったという点では、戦争協力に関してもそうだと思うのですが、どうでしょうか。当時の文壇と軍部との結びつきが強かったのは事実です。戦時下で反戦を掲げられた作家は、ほとんどいませんよね。菊池寛も、日本文学報国会の発足に参加しました。
門井 小説にも登場する通り、作家を「ペン部隊」と称し団体で戦地へと連れていく音頭もとりましたね。
林 作家はある種のお調子者ですから、時流に乗ったというのはあるかもしれない。林芙美子は南京一番乗りを華々しく書き残しています。
門井 林芙美子は南京から日本へ戻ったその足で、大阪の朝日会館、東京の日比谷公会堂とつづけて講演して、その後も全国へ行って、すべて超満員。戦争関連の収入も相当のものだったと思います。
林 国を挙げての高揚感に乗っちゃったのかなと思います。とはいえ、作家はみなさん戦時中のことは口をつぐみます。
門井 ただ、小説の中で、どういった戦争協力をしたかよりも、「これほどのリベラリストである菊池寛は、どこで戦争賛成側に回ったのか」という瞬間を知りたいと思ったんです。その変化のドラマにこそ、説得力がある。僕なりに出した結論として、菊池寛の気持ちが変わった瞬間を描きました。
林 私は原則として、歴史を小説に落とし込む上で、史料をたくさん読み込んでも、自分が面白いと思った部分しか使わないんです。作家が興味をひかれなかった部分は抜かしていく。
門井 僕も現代人の自分が読んで面白いと思うかどうかは意識していますね。歴史的意義は考えません。
林 そこは歴史学者の方にまかせておくところですもんね。
門井 おっしゃる通りです。そういう点で、公職追放、女性関係も濁さず書きました。何より、会社の周年記念で創業者の物語とはいえ、美辞麗句でうずめたくなかったので。そこは文藝春秋に勘弁してもらったところです。
林 私、色んな出版社とおつき合いがありますけれども、文藝春秋って本当に不思議な会社ですよね。他社は代々創業家が力を持つことが多くて、私はそういうお家を「出版貴族」とも呼んでいますが、文藝春秋には菊池寛の銅像が会社にあるだけですよね。親族だからといって幹部になるルートがあるわけでもない。
門井 菊池寛が戦後に文藝春秋社を解散した後、残された社員が奥さんのへそくりを集めてまで作った文藝春秋新社に、菊池寛は経営面で一切タッチしていないんですね。だからこそ、今でも文藝春秋は創業者をこうして売り物にできるのかもしれません(笑)。もし今、菊池家が文藝春秋のオーナーだったら、女性問題も戦争責任も何でも小説に書いたこの本が、出せていない可能性だってありますから。
林 やはり菊池寛は本当にみんなに慕われた人ですね。世話を焼いてあげて、お金も渡して、生活の心配までしてあげて、だまされてもそこまで恨まずに。ものすごい人望を持っていたんですね。
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