巻末の年譜にあるとおり、光原百合さんは二〇〇八年から三年間、綾辻行人さん・有栖川とともに小説推理新人賞の選考委員を務めた。
選考後に互いの近況などを語り合っていたある時。病院の検査でよくない診断を受けたことをお話しになった。弾みでつい洩れたのか、口にした方がいくらか気分が楽になるからだったのかは判らない。
大阪大学時代に推理小説研究会に所属していた光原さんは、ミステリ作家としてデビューする前から関西在住の綾辻さんや私と面識があり、ずっと親しくさせてもらっていたものの、肝胆(かんたん)相照らす昵懇(じっこん)な仲ではなかった。そんなほどよい距離がある者だから打ち明けやすかったのか。「私、急にいなくなるかもしれませんけれど、びっくりしないでくださいね」というメッセージだったようでもある。
その後、出版社のパーティなどで何度もお会いしたが、「お体の調子はいかがですか?」などと尋ねたりはしていない。いつもと変わらず上品かつ溌剌としていて、明るい笑顔で周囲の人と談笑する姿を見て、「お元気そうだな」と安堵するばかりで。
「もう大丈夫です」とも聞いていないので、気掛かりではあった。同じ想いだったであろう綾辻さんが、「光原さん、いつもどおり明るくて、偉いね」と言ったのを覚えている。
「偉いね」とは、大人が子供に向けて言っているようだが、他にふさわしい表現があるとも思えず、私は頷くばかりだった。感情を巧みに押し殺せるのは大人の態度として立派である、という意味での「偉い」ではない。今を存分に生き切っているのが感じられ、敬意を覚えたのだ(綾辻さんもそうだったのだろうと思う)。
二〇二二年の夏、光原さんの訃報を知る。コロナ禍で作家の集まる場がなくなり最近のご様子を知らなかったので、強い衝撃を受けた。光原さんに「びっくりしないでくださいね」とメッセージをもらっていたのに。享年五十八は早すぎる。
作家デビュー前夜に書かれたものから、郷里の尾道への想いをこめた比較的新しいものまで、本書には光原さんの作品世界を堪能できる短編・掌編がまとめられているが、日本推理作家協会賞・短編部門を受賞した「十八の夏」は収録されておらず、ベスト・オブ・光原百合という構成にはなっていない。これまでにない形で作品が並べられているので、ファンにとっては追悼のアルバムに思えるだろうし、初めて光原作品に接する方にとってはその作品世界への招待状になる一冊かもしれない。
読みながら、亡き作者の顔が浮かび、想い出が次々に湧いてきたが、私は年譜で光原さんの人生をあらためて鳥瞰(ちょうかん)し、心を揺さぶられた。前記のとおりの間柄なので、ここまでくわしくは知らずにお付き合いをしていた。
人間だから、数知れない苦しみや悲しみ、迷いや痛みを光原さんも経験なさったに違いないのだが、それは光原さんご自身しか知りようのないこと。
年譜が物語っているのは、詩やおはなし(夢いっぱいのメルヘンはもちろん、頓智が利いた謎解きもお好きだったのだろう)が大好きな女の子がお気に入りの雑誌を見つけ、少女期には友人らと囲碁や吹奏楽を楽しみ、大学では知的関心から英文学の研究に進みながらミステリへの愛着を深め、かねて愛読した雑誌に作品を発表し、ミステリ作家として世に出て、英文学の研究者となって郷里に戻り、演劇に興味を広げ、(年譜には書かれていないが)好きな音楽や怪談に関する創作も行ない、教え子や地元の人たちと喜びを共にした――という軌跡。
他人様の人生にコメントをするのは烏滸(おこ)がましいが、それを承知で「生きた甲斐」に満ちた一生でしたね、と言いたい。もちろん、自由気ままに生きたら自然にそうなるはずもない。多大の努力と知恵があって築けた人生で、よき環境で育ち、よき人たちとの出会いといった幸運もあったのだろう。何にせよ、こんな人生なら「生きた甲斐」がある。
人生をゲームに喩え、勝利や成功に執着する人がいる。人生を修行や修練の場とみなして、忍耐や厳しさを必須と信じる人がいる。それで納得できるのなら他人に迷惑をかけない範囲でご勝手に、と私は思う。
人は誰しも望んで生まれてきたのではない。不愉快に感じる方がいるとしても、事実だ。問答無用でいきなり参加させられて、ゲームも修行もあったものではない。
しかし、気がついたら生まれていたのだから、生きなくてはならない。生きる意味を探しながら生きても答えが見つからずに悩む人もいるが、私たちは理屈を通すためだけに生まれてきたのでもないだろう。「生きる甲斐」を手に入れ、「生きた甲斐」を抱いてこの世を去ればよいのではないか。
年譜だけ見れば波乱万丈から遠く、穏やかで豊かな人生。ご本人が不機嫌そうにしたり、疲れていますとアピールしたりする場面は一度も見ず、優しく大らかさを感じさせる人であったが、それは生来のものというより自制心の強さの発露だったのではないだろうか。
そういう人が小説を書いたら、自分が体験したくないこと、ひたすら避けたいことを凝縮し、残酷で恐ろしい作品ができ上がることもあり得る。人は現実で忌避したことを虚構で体験して楽しむ生き物だし、そういう作品は作者に解放感を与えてくれると思うのだが――。
光原さんはもう一周回って(回ったのだと思う)、調和や解決に至る物語をたくさん書いた。優しく心温まる物語と言って終わらない屈折をしばしば持ちながらも、救いを用意した作品が多い。それらは世界をゲーム盤や修行の場と捉えている人に向けて書かれているのではなく、「生きる甲斐」に手を伸ばそうとする人を勇気づけるだろう。思うようにならないことだらけの世界だけれど、その理不尽や不自由さも「生きる甲斐」に転じることがあるのだ、と。
ただ、読者を慰撫(いぶ)しつつも作者は自分を甘やかすのを潔しとしなかった。ミステリという形式を選んだから、調和と解決に至るために面倒な謎を解かなくてはならない。本書の収録作品を読み返しながら、随所で「苦労して難所を乗り越えているなぁ」と感心した。ミステリを愛したせいで抱えた苦労と「書く甲斐」と言うべきか。
ハートウォーミングを売り物にシンプルな小説を書いていたら、もっともっと本が売れたかもしれないが、光原さんにそんな欲があったはずもない。「生きる甲斐」を遠ざけてしまいかねないから。自由でなくなるから。
光原さんはこの世界から旅立ってしまったが、作品は残っている。いつまでも読み継がれますように――と願う。
この大切な本の末尾に寄稿するにあたり、私の想い出話を並べてはいけない、と抑えてきたのだけれど、最後に一つだけお許しを。
二〇〇四年秋、光原さんに招かれて尾道大学(当時)で講演をしたことがある。教え子である学生さんたちも交えて街を散策したり、皆さんと夕食をご一緒したりもした。
講演を終えた日、私は尾道泊まり。駅近くのホテルのティーラウンジでしばし光原さんとお茶を飲みながら、講演について振り返るなどした。どんなことを話したか思い出せないのが残念だ。私が雑談に持って行ったのだろう。
大学関係の人らしい光原さんのお知り合いがラウンジを出入りするたびに、「こんばんは」「お疲れさまです」と挨拶を交わすので、ここは光原さんのホームなのだな、と意識した。思えば、光原さんと会うのはいつだって東京か関西で、二人で話す機会はなかった。いつもまわりに何人もの人がいて、みんな笑顔だった。
何を話したかは覚えていないが、あの尾道の宵(よい)、ふだんより寛いだ雰囲気に光原さんが包まれていたのが忘れられない。窓の向こうは瀬戸内の海だった。
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