なぜ足利尊氏なの――?
話題の直木賞受賞作『極楽征夷大将軍』(垣根涼介著)が「足利尊氏」を主人公にした歴史小説だと聞くと、首をかしげる人もいるかもしれない。
信長、家康との一番の違い
鎌倉時代末期~南北朝時代は、日本史上もっともややこしく、わかりにくく、人気のない時代と言われている。日頃、文春オンラインをチェックしている知的好奇心の強い読者のみなさんも、「足利尊氏=室町幕府を開いた人」くらいの知識しか持っていない人が大半だろう。
一般に、武門のトップ、天下人、戦さを勝ち抜いたリーダーといえば、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの名前がすぐに浮かぶ。彼らは歴史小説の主人公としても不動の人気を誇る。
では、なぜ、いま尊氏なのか。信長、家康たちと足利尊氏の一番の違いは何か。それは「尊氏だけが嫡男でないこと」だと、『極楽征夷大将軍』の著者・垣根涼介さんは指摘する。
尊氏流「天下のとりかた」
武家政権の「初代征夷大将軍」として幕府を開いた頼朝も、家康も、正室から生まれた長男だった。天下人になった信長も長男、秀吉も(詳細は不明だが)長男だったようだ。かたや足利尊氏は、側室の産んだ次男坊。
当時の武家社会で、嫡子と次男(しかも側室の子)との間には、天と地ほどの身分・立場の差があった。出生時から尊氏は、お家存続のために一片の責任も負わず、その裏返しとして何も期待されず、周囲から一切の関心を示されない幼少期を送る。唯一の話し相手は、同じ母から生まれた弟の直義(のちの室町政権で大活躍する)。
『極楽征夷大将軍』でも、幼き日の尊氏と直義が、鎌倉の由比ヶ浜で日がな波遊びに興じる、印象的なシーンが描かれている。
この生い立ちは、当然、尊氏の生き方に大きな影響を与えた。指導者としての教育をまったく受けず、立身の可能性もゼロ、「やる気」を出すことさえ禁じられて育った尊氏が、なぜ長じて天下をとることができたのか。
その謎を解くヒントが『極楽征夷大将軍』にあるわけだが、当然、尊氏流「天下のとりかた」は、信長、秀吉、家康とは違ってくる。そして、この尊氏流「天下のとりかた」こそ、令和のいまを生きる(特段の才能もやる気もない)私たちの処世に、大いに参考になるのではないか、というのが本稿の主旨である。
あまりのだらしなさに驚愕
かねて尊氏に興味のあった垣根さんは、史料を読み込むうち、そこに描かれる尊氏のあまりのだらしなさに驚愕したという。
「日本史に名を刻む武将の中で、おそらく一番だらしのない人間だと思う。調べれば調べるほどろくでもない男で、どうしてこんな人間に幕府が起こせたのか、不思議に思った」
そのいっぽう、
「僕自身にもかなりその傾向がありますから(笑)、尊氏のキャラに惹かれる部分もあった」
と、インタビューで語っている。
「だらしない」と自覚のある垣根さんも驚くほどにいいかげんな男が、なぜ天下をとれたのか? 否、むしろ、いいかげんな男だからこそ天下をとれたのではないか? この逆転の発想に『極楽征夷大将軍』の要諦がある。
個の優秀さだけでは測れない「何か」が歴史の流れの中にはある
垣根さんは、先のインタビューでこうも述べている。
「尊氏よりもはるかに優秀な楠木正成、新田義貞、後醍醐天皇はみんな次々に滅んでいくのに、なぜか尊氏だけが最後まで生き残る。ということは、個の優秀さだけでは測れない“何か”が歴史の流れの中にはあるんでしょう」と。
『極楽征夷大将軍』の巻頭には、「Don’t think,feel. Be water」というブルース・リーの有名な台詞が引用されている。
家督を継ぐことさえ嫌がり、仮病を使って出陣命令を拒む若き日の尊氏は、信長、秀吉、家康のように、勇猛果敢で、知略に富み、自らぐいぐい前に出るリーダーとはまったく異なる。
しかし、やる気も立身欲も野心もない尊氏は、まさしく「水のように」融通無碍に“世間”と一体化し、坂東武士から慕われ、愛され、戦えばなぜか連戦連勝し、弟の直義、家宰の高師直ら能吏に手厚くサポートされて、ついに幕府を開くに至るのである。
この尊氏の姿は、令和に生きる私たちの心にどこか響いてこないだろうか。
「尊氏みたいになりたい」
そんな人にとって『極楽征夷大将軍』は必読の一書となる。
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