- 2023.10.09
- ためし読み
伊岡瞬、衝撃のノンストップサスペンス「追跡」連載スタート!
伊岡 瞬
伊岡瞬「追跡」#001
出典 : #WEB別冊文藝春秋
ジャンル :
#小説
,#エンタメ・ミステリ
火災現場で発見された“父親とその息子夫婦”の遺体。
しかし実際は、全員赤の他人であった。
彼らが家族を装った目的は?
そして、その場から「失われたもの」の行方は――?
世界の不穏な真実を暴くノンストップサスペンス!
1 当日
*
うだるような暑さとは、こういう日のことをいうのだろう。
二日前に梅雨明け宣言が発表された。
死んだ父親が口癖のように言っていたのを思い出す。
——梅雨明け十日といって、この時期はきれいに晴れて容赦ない猛暑になる。
外を回ることが多いので、毎年この時期になると身をもって痛感する。
築島紀明巡査部長が、タオルハンカチで汗を拭いながら現場についたとき、すでに現場検証の山場は過ぎていた。
近所の住人から一一九番通報があったのは午前三時過ぎ、鎮火が約三時間後の午前六時半ごろだ。いまはすでに午後一時を回っているから、当然かもしれない。
あたり一帯には、火災直後の濃い臭いが漂っている。建材や家具、寝具、衣類などが不完全燃焼した異臭、つんと鼻を刺すのは樹脂類が放つものだ。そして、それらの人工物とは異なる、有機物の焼けた臭い。
ただでさえ胃のあたりが収縮しそうなところへ、この暑さだ。拷問か、と自嘲したくなる。
警視庁捜査一課、強行犯捜査係に異動になって丸三年が経つが、火災がらみの事件はいまだに慣れない。
なんとか気を取り直し、素早く状況を把握する。
検視官をはじめ、本庁の幹部はほとんど引き上げたあとのようだ。機動捜査隊はおそらくまだ活動中で、消防と鑑識課の職員たちが、制服に汗を滲ませながらそれぞれの持ち場で検証を続けている。
築島は、汗を拭うふりをして鼻をハンカチで押さえ、やや離れた場所に立ち、家だったものの残骸を見つめた。
「よう。お疲れさん」
軽く右手を挙げ声をかけてきたのは小西主任で、周囲を見回ってきたようだ。小西は階級としては警部補で、築島ほか合わせて五名の班員を率いている。だから「班長」と呼ぶものもいるが、築島は普通に「小西さん」と呼ぶ。
身長は百六十センチ台半ばだが、柔道四段で所轄時代には警視庁代表として全国大会に出たこともある猛者だ。怒らせると恐いが、普段はむしろ愛想がいいほうかもしれない。
白の半そでシャツにノーネクタイだが、築島以上に汗びっしょりだ。
「すみません、遅くなりました。あらかた終わったみたいですね」
焼け跡のほうへ顔を振る。
「まあ、そういうことだがしょうがない。気にするな」
小西主任は、短く刈ったほとんど白髪の頭をごしごしとこすった。
「東名高速の途中で事故渋滞にはまってしまって。下の道も考えたんですが、前にそれでかえってひどい目にあったので」
「どのみち、まだ現場検証は続いている。——それより、せっかくの里帰りなのに悪かったな。お母さん、元気だったか」
「はい、おかげさまで。よく『女は亭主を亡くすと元気になる』といいますけど、あれ、当たってるかもしれませんね。それにまだ六十五ですから。馬に食わすのかってくらい、手料理を食わされました」
「ま、それも親孝行だ。おれも母親を思い出すときには、手料理のことしか浮かばん」
場所柄を考えて微笑むことは控え、軽く頭を下げた。
三週間に亘って特別捜査本部が立っていた連続殺人未遂事件が、三日前に解決したばかりだった。
ふつうであればしばらく「在庁」と呼ぶ待機組になるのだが——いや、事実待機になったのだが、このところ強盗や怨恨などを動機にした殺傷事件が都内で相次ぎ、出動できそうな係がほとんど出払ってしまっていた。
同じような「在庁」になったばかりの数組の中から、築島が所属する係に白羽の矢が立った。
築島は静岡県で一人暮らしする母親のところへ、久しぶりに顔を出しに行ったのだが、今朝早くに連絡があり、ひと晩泊まっただけで呼び戻されることになった。
今年六十五歳になる母親は、三年前に夫を病気で失い、いまは一人暮らししている。いずれ、呼び寄せて面倒をみなければならないとは覚悟している。あるいは自分がこの職を捨て、最近はやりの地方移住をするか——。
「それで、ほかの連中は?」
同じ班のメンバーの姿が見えない。
「あたりをひと回りしている。お、一人来た——」
小西が視線を向けた先から、青い半そでシャツの男が歩いてくるのが見えた。同じ班の坂下巡査だ。身長百七十六センチの築島よりわずかに背が高いが、体重は十キロ以上少ないだろう。だが、痩せているというよりは絞っている印象だ。
「お疲れ様です」
坂下は刑事になって四年、築島より七歳年下の二十九歳で、今年の春に一課に異動になったばかりだ。所轄の人間とペアを組まないときは、この坂下が相方になることが多い。いまも、築島が来るのを待っていたのだろう。
「遅くなった」
坂下に向かってひとつ詫びて、再び小西主任に問いかける。
「火災犯係も来てますね」
不思議はないというより、むしろそれが順当だ。火災が主体の事件なら、同じ一課でも火災犯捜査係の担当だからだ。
「なのにうちらが早々に呼び出されたってことは、コロシの見込みってことですか」
火災案件で築島たち強行犯係が呼び出されるということは、単なる失火や放火ではなく、殺人などがからんでいるケースだ。
すぐに肯定の返事がくると思ったが、小西主任は、腰に手を当て眉をひそめている。
「今朝の時点ではどっちとも言えなかった。それで、火災とおれらと両方呼び出された」
「なるほど」
あまり納得はできないが、とりあえずそう答えるしかない。
ここへ車で来る途中、PSD型端末でざっと情報には目を通した。しかし、殺人か否かの点については触れていなかった。
だれからともなく、隣家の軒から伸びた大きな枝が作る影の下に移動した。
坂下は軽く汗を拭う程度で、暑さをぼやくこともなく、軽く腕組みをして鑑識活動を見ている。あまり汗をかいていないのは、体脂肪が少ないからだろうか。そもそも体脂肪が少ないと汗をかかないものなのか——。
つい、ぼんやりとそんなことを考えてしまう。正直にいえば、昨夜は少し酒を過ごした。
そのあまり冴えない頭でも、少し腑に落ちないことがある。
「今朝起きた火事でまだ検視も済まないうちに、うちらが呼び出しをくらうのは、少し早すぎませんか。在庁取り消しを恨んでるわけじゃありませんが」
「その言いかたは恨んでるだろう」
「恨んではいませんが、在庁組はほかにもいましたよね。どうしてうちらなんですか」
「やっぱり恨んでるじゃねえか。まあ、ぼやくな。上の判断だ」
「管理官の?」
小西は「いや」と言っただけで、話題を変えてしまった。
「見込まれたと思って我慢しろ。それより、出火原因はまだわからんようだ。失火か、放火か」
「ほかで起きてるヤマと同一犯という線は」
わずかに期待を込めて訊く。ここ二か月ほどの間に、練馬区、足立区・荒川区周辺、大田区の三エリアで、わかっているだけで計十二件の連続放火事件が起きている。いずれも未解決だ。マスコミには公表していないが、合わせて十数人の容疑者がいるにはいる。しかし、逮捕どころか署に呼んでの事情聴取にさえ至っていない。
このどれかの案件が急遽解決し、今回の放火も自分がやったと自白してくれないものかと思ったのだ。
「それはないな」あっさりと否定された。
「少し離れているし、そもそもほかは愉快犯だ。外に置いた自転車カバーだの、夜中に出したダンボールのゴミだのに火をつけてる。こっちは放火にしても、内部ないし顔見知りの人間だろう」
「火元に不審が?」
「原因は寝たばこの不始末」そこで一拍置いた。「に見える」
「ほかにも何か」
「実は」とそこで小西は声をひそめ、周囲をさっと見回した。規制線の中にマスコミはいないが、癖みたいなものだ。
「いいか、マスコミにはまだ漏らすなよ。遺体には刺し傷があった」
えっ、と思わず声が出た。その情報は初耳だ。ちらりと坂下を見ると、彼はすでに聞かされていたらしい。
それならば、順番はともかく、早々に強行犯係が呼ばれた理由はわかる。
「刺し傷は三人ともですか」
「息子夫婦らしい男女二名のみだ。まだ検視が終わったばかりだが、この二人は、死因も焼死じゃなく失血死になりそうだ」
「刺殺か。死んだのが息子夫婦で、もう一人は?」
「この家の主、志村潔という名だが、検視では大きな外傷はみつからなかったようだ。それと潔の死体の近くに包丁が落ちていた。柄には潔のものらしい血の指紋や掌紋もあった」
「ということは——」
小西がうなずく。場数を踏んだ刑事でなくとも、すぐに一枚の〝絵〟が浮かぶだろう。一人が残り二名を刺殺し、家に火をつけて自分は焼け死ぬ。
「無理心中」
ぼそっと漏らした築島の言葉に、坂下が同意するように小さくうなずいた。小西が答える。
「それもあるかもしれん。まだ何も言われてないが、あの検視の雰囲気からすると、少なくとも刺された二名は他殺とみるだろうな」
しかし〝絵〟が綺麗すぎる気もする。
「心中にみせかけた一家殺しの線は?」
現場から立ち去った、四人目がいたかもしれない。そういう意味を込めた。
「それもあるかもしれん」
「マスコミには?」
「四時の記者会見では、刺創について触れないとおれは見た。解剖もまだだから、あとで言い訳は立つ」
情報を小出しにしたり、核となる事実を逮捕まで隠すのはむしろ常套だが、小西の口調になにか含みがありそうなので訊いた。
「なぜです?」
「なんか臭うんだ。おまえも内心ぼやいてただろう。検視が済んでからならともかく、鎮火するかどうかという時間帯に、在庁組のおれたちに声がかかった。待ち構えてたみたいじゃないか」
築島は、その問いかけに直接は答えず、視線だけをさっと動かして坂下を指した。聞かれていいんですか、という意味だ。小西がごく小さくうなずいたので、さらに疑問をぶつける。
「係長はなんて言ってるんです」
「そのことは話してない。ただ、おれの勘だが——」
そこで突然口を閉じてしまった。焼け跡をじっと見ている。何か物体を注視しているのではなく、そのあたりに漂っている怪しげな空気を見出そうとしているように感じた。
今日の小西は少し変だと築島は思った。もちろん、軽々に言えないこともあるだろうが、普段の小西ならこんなに奥歯に物が挟まったような話しかたはしない。
話題を変えた。
「本部は立ちますかね」
あきらかな放火殺人事件で、しかも犯人が不明であったり逃亡しているなら、特別捜査本部の立つ案件だ。しかし、誰がどう見ても家族内の無理心中ならば、本庁一課が多数乗り込んでくる派手な捜査本部を立てるかどうかは疑問だ。事件は半ば解決してしまっているからだ。
「少なくとも今夜はないだろう。だがきっと立つな。おれは明日だとみている」
小西がそう睨んだのなら、そうなるだろう。そのあたりの小西の見込みが狂ったことはない。
これが仕事だとは思いながらも、ついため息が漏れる。三週間、実質的にほぼ休みゼロで働いて、休みはたったの二日間だった。
気持ちを切り替えて申し出た。
「今日はこのあとどうしたらいいですか。自分は坂下と聞き込みでもしますか」
本部が立つまで休んでろ、という甘い言葉を二割ほど期待した。
「そうだな。すでに所轄と機捜であたりの聞き込みをやってるから、そこらで汗でも引かせてこい」
「了解です」
坂下に合図して去ろうとしたところへ、小西の声がかかった。
「まてまて」
「何か」
「なんて言うわけがないだろう」
「やっぱりな」
「そうむくれるな。楽な仕事をさせてやる」
そう言って、築島と坂下を交互に見た。
「その前に、もうひとつ大事なことがあった」
まだあるんですか、という意味で右の眉を上げ、続きを待つ。
「なんか臭うと言ったのは、このことだ」
「なんですか」
「一人足りない」
「は?」
「近所の住人の話だと、この家には昨日まで四人の人間がいたらしい。死んだ夫婦の息子だという、小学校高学年の男の子がどこにも見当たらない」
——現場から立ち去った、四人目がいたかもしれない。
ほんの数分前に自分の胸に湧いた疑念を、築島は苦い思いで咀嚼した。
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