- 2023.10.05
- コラム・エッセイ
岩井圭也、南方熊楠に挑む! 博覧強記の才人が、生涯を賭して追い求めたものとは――新連載「われは熊楠」に寄せて
岩井 圭也
岩井圭也「はじまりのことば」
出典 : #WEB別冊文藝春秋
ジャンル :
#小説
「南方熊楠」の名を初めて聞いたのは、小学生の時だった。
私の両親は和歌山市の出身で、夏や冬の長期休暇にはよく和歌山へ足を運んだ。大阪に住んでいた私は、妹と一緒に母が運転する車の後部座席に座り、ラジオを聴きながら和歌山へ到着するまでの時間を過ごした。
母方のお墓参りに行った帰り道、なにげなく民家の表札を見ていると、妙に「南方」の札が多いことに気が付いた。
「なんでこんな多いん」
母に尋ねても、明確な答えは返ってこなかった。代わりに、南方姓の有名人について教えてくれた。
「南方熊楠もこの辺に関係あるんかなぁ」
「誰なん、それ」
「科学者。キノコの研究とかしてたらしいで」
そんな会話を、幼かった私は「ふーん」と聞き流して終わった。ただ、妙な妖気をまとう「南方熊楠」という名前は、脳の片隅に巣食って離れなかった。いったい、その人物はどんな研究を成し遂げたのだろうか?
それから数年が経ち、私は大学の農学部に進学した。理系ではあったが数学や物理は大の苦手で、もっぱら生物で点を稼いで入試を突破した。生物だけは、なぜかいくら勉強しても苦ではなかった。
大学生になってから、おぼろげに記憶していた「南方熊楠」についての伝記を読みはじめた。熊楠についての記述は、どの伝記を読んでも概ね同じだった。超人的な記憶力を持ち、語学に堪能であり、おびただしい数の百科事典を読み通した博覧強記の人物であったこと。また、日本の大学や研究機関には所属せず、終生在野を貫いた博物学者であったこと。日常生活においても、自由自在に胃の中のものを吐いた、往来を全裸でうろついたなど、特筆すべき行動には事欠かないようだった。
その奇人・才人ぶりを示すエピソードは数多く残されているのだが、肝心の研究成果については、なぜかどの伝記を読んでも明確に示されていない。
わかりやすい成果がないわけではないのだ。たとえば、ミナカテラ・ロンギフィラという新種の粘菌を発見した、学術誌『ネイチャー』に多くの論文が採用された、現代における「エコロジー」思想の先駆者である……などなど。
だが、そのどれもが熊楠の業績の一部に過ぎないようだった。熊楠の構想した学問はあまりに巨大であり、全容については死後半世紀以上が経った現在でも明らかになっていないのだ。
——結局のところ、熊楠は何を目指し、何を達成したのか?
この問いは、私の心の奥深くに根を張った。
熊楠の影響というわけではないが、その後、私は応用菌学研究室に進んだ。大学院修士課程を修了し、関東に就職して、小説を書きはじめ、作家となった。
熊楠のことはずっと気にかかっていた。いずれ挑戦すべきテーマだとは思っていた。むしろ、和歌山にルーツを持ち、菌について研究していた自分が書かずして誰が書くというのか、という気概すら抱いていた。
一方で、実際に書きだす勇気がなかなか出ないのも事実だった。年数を重ねるうちに、熊楠の存在は私のなかで肥大し、おいそれと手が出せない領域にまで膨れ上がっていた。
作家になって四年目のある日、出版社での打ち合わせでふと熊楠のことを話した。あまりに大きいテーマのため、もう少し作家として成長してから書こうと思っている……そんなふうに話したのだが、編集者氏は何かを感じ取ったようだった。それを新作のテーマにしよう、と提案してきたのだ。
今の自分に熊楠を描き切れるだろうか、という不安はあった。だが、決心するのにそう時間はかからなかった。どうせ、熊楠はいつか書かなければならないのだ。この辺で一度、大勝負に出てもいいのではないか。ちょうど専業作家になった時期でもあった。熊楠であれば、全精力を傾ける相手として不足はない。
この夏、およそ一年の準備期間を経て、「われは熊楠」の連載が開始する。
現時点でまだ最終到達点は見えていない。だが第一章を書き終えた今、ほんの少しだが手ごたえを得ている。この旅を終えた時、もしかしたら熊楠の見た風景を目撃できるかもしれない。そんな予感がある。
熊楠を巡るこの旅に、ひとりでも多くの方に伴走してもらえればと思う。
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