- 2022.12.16
- コラム・エッセイ
着想から完成まで。逡巡、自問そして覚悟――伊岡瞬さん書き下ろし文庫最新作『白い闇の獣』「あとがき」より
伊岡 瞬
『白い闇の獣』(伊岡 瞬)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
書き上げはしたが、これは世に出せないだろうと思った。
編集者と打ち合わせなどの際に「こんなものがある」と打ち明けて「うちで出さないか」と打診されたりもした。しかし、自分で話題に出しておきながら踏ん切りがつかず、先延ばしにしてきた。
心の整理がつくまでずいぶんかかった。
そんな作品だ。
躊躇するうちに月日は経ち、人間の置かれた環境はますます混迷を極めている。環境破壊、異常気象、貧困、飢餓、疫病、暴動、内戦、侵略、虐殺――。
もうたくさんだ。
暗澹たる話題の枚挙にはいとまがない。その時代にこの物語を上乗せする意義があるのか。いや、そもそも許されるのか。
人は小説に、物語に、何を求めるのだろう。夢か、希望か、刹那の愉悦か、自分の幸福を実感できる踏み台としての他人の不幸か。
封印したはずの物語を収納庫から出し、こうして白日の下にさらす時期に至っても、まだ心のどこかで逡巡している。
物語は予備知識がないほど入り込めるという持論なので、細かい展開について触れることは控えたい。
描こうとしたことをあえて一行で表すならば、
《この世界に神の慈悲などない。ただ、まっ白な闇が広がっているばかりだ》
ということになるだろうか。
しかし、観念的、自省的な描写は少ない。深山に分け入り、修行しつつ神仏と対峙する話でもない。あくまで“現実感”にこだわり、できごとを積み重ねることで物語を進める手法を取った。読者は、身を委ねていただくだけでいい構成にしたつもりである。
予備知識は無用といいながら、その舌の根も乾かぬうちに強調しておきたいのは、この作品は“少年法の不備”や“法改正の是非”を訴えることが主テーマではない。
とはいえ、太い柱の一本ではあるので、この点についてのみ簡単に触れたい。
ご存知のかたも多いと思うが、「少年法」は長年にわたって改正の論議がなされ、そのたびに立ち消えとなった。そして二〇〇〇年、半世紀あまりの時を経て改正少年法が成立し、翌〇一年に施行された(その後は、すでに数回改正されている)。
この物語は、その端境期が舞台になっている。その点をご理解いただいていれば、なお時代背景が入ってきやすいかもしれない。
一般的に、法律が改正、施行されると、市販の解説書や公的なホームページの文面などは、すべて「新法」向けに刷新される。旧法との差異に関する説明が若干あったにしても、旧法を主体とした詳しい資料を入手することはとても困難になる。
しかも、もともと少年法は、一種“舌足らず”な法律として知られている。解釈、運用に幅が出る。同じこと(犯罪)をしても、いってみればその案件処理にかかわった大人たちの判断で、少年に対する扱いに大きな差が出る可能性がある(ここはあえて断言せず《可能性がある》と表現しておく)。
物語を作る側からすれば、法律や規則の曖昧さは、便利なようでじつはやりにくい。解釈、判断をこちらに委ねられてしまうからだ。何度も立ち往生した。
あまり厳格に描写すると「ハンドブック」や「判例集」のようになってしまうので、端折ったり創作的に変えた部分もある。しかし、法令は可能な限り順守した内容にしたつもりだ。
もっとも困ったのは“運用”や“実務”の面であって、右に書いたように案件ごとの差異が大きく、資料にあたっても《なるべく》《迅速に》《寄り添って》などという抽象的、定性的な表現にしばしば出くわす。
細部においてどうしても判断が困難な場面があり、何か所か現役の弁護士にも相談した。それでも、明確な論拠となりうる資料がなく、ついに――詳細は避けるが――二十年以上前の非売品のテキストまで引っ張り出していただくという手間をおかけした。
しかし、繰り返すが法律の是非論を滔々と語るのが主眼ではない。
手前味噌になるが、たとえば『赤い砂』(文春文庫)という作品は、やはり二十年ほど前に“エマージング(新興)RNAウイルスの転写能力”に着目して書いた物語をベースにしているが「ウイルスのことなどまったく無関心でも一気読みできる」と好評をいただいた。
さて、冒頭で持ち出した自問の答えを、まだ書いていない。
こうして本になったことがつまり結論ではあるが、そこに至る心境の変化をやはり数行で表すことは難しい。あえていわせていただけば、作品の中にその答えを書いた。もう少し恰好をつけると「登場人物をして語らしむ」ことを意識した。
本にするにあたって、当初の骨格を残したまま、より読みやすく、より心に残る物語へ、現在の技能で書き直す、という非常に手間のかかる作業を行った。ことさら残酷に描いたつもりもないし、主要人物だからと幸運に恵まれたりもしない。ただ、彼らの棲む世界に入り、ともに行動し、目の前で起きていることを夢中で記録した。
そしてあらためて思った。この世界に慈悲はないが、意味のないこともまた存在しない。あらゆることは必然的に起きている。わたしはそう信じている。
ならば――善悪という色分けはひとまずおいて――この作品を書かせた存在こそが“慈悲なき神”ではないか。俎上に載せることが自分の使命なのではないだろうか。
そう踏ん切りをつけ、関係各位、知人などの励ましにもささえられ、ようやく出版までこぎつけることができた。
宣伝しなければいけないのに、とうとう最後までネガティブなことしか書けなかった。しかし、それでもなお“伊岡瞬”を読んでみたいという方には、もちろん自信をもってお勧めしたい。
家族、愛情、憎悪、暴力、裏切り、誠実、応報、赦し――これまでの集大成と呼んでも差し支えない、悲痛な物語である。
最後に、文責を一身に負う覚悟のため、お名前を出すことは控えさせていただきますが、本作の細部に関する取材に快く応じてくださった皆様に、この場をお借りしてお礼申し上げます。
(2022年10月24日)