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アート×旅小説『ユリイカの宝箱』の冒頭約20ページを無料公開!

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

ユリイカの宝箱

一色さゆり

ユリイカの宝箱

一色さゆり

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『ユリイカの宝箱 アートの島と秘密の鍵』(一色 さゆり)

 あなただけの「アートの旅」にご案内します――。

 第14回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作家・一色さゆりさんによる『ユリイカの宝箱 アートの島と秘密の鍵』(文春文庫)が、1月4日に発売されました。

 一色さんは東京藝術大学を卒業後、ギャラリー・美術館勤務を経て、『神の値段』『カンヴァスの恋人たち』「コンサバター」シリーズなどの数々のアート小説を手がけられています。

 本作は「アートの旅」をテーマにした連作短編集。その冒頭部分を公開します。

『ユリイカの宝箱』冒頭や、本編を読んで下さった方の感想を募集します。下記のフォームよりご回答くださいませ。
https://forms.gle/aE8eBbZnm2Nix6ye6


 そこは明るく、清潔な空間だった。

 吹き抜けになった天井は、距離感をつかめないくらい高い。白いポールが網目状に張りめぐらされた、近未来的なデザイン。ガラス越しに、初夏の日差しがふり注ぐ。くもりのないフロアも、階段や手すりも、ピカピカに光っていた。

 はじめて訪れた羽田空港第二ターミナルに、桜野優彩は圧倒された。

 目の前では、ひっきりなしに人が行き交う。薄手のコートを手に持っていたり、半袖だったりと服装はさまざまだ。ビジネスパーソン、学生、子ども、外国人。大小のキャリーケースや鞄を持って、一様に、目的地へと急いでいた。

 優彩は飛行機に乗ったことがない。しかし緊張の理由は、それだけではなかった。

 深呼吸をしながら、優彩は自分に言い聞かせる。

 大丈夫。待ち合わせに誰も来なければ、ショッピングでもして帰ればいい。せっかく早起きして、羽田空港まで足を運んだのだ。ネットで見た五階の展望デッキにでも行って、飛行機を見物しても楽しそうではないか。

 小型のキャリーケースを引っ張る手が、いつしか汗ばんでいた。

 にぎやかな話し声の、もっと遠いところから、搭乗手続きや就航便についてのアナウンスがこだまする。ちょうど目の前に発着掲示板があって、優彩は黒いリュックから、あの封筒を取りだした。

 搭乗する便は予定通りの運航らしい。待ち合わせ場所はたしかに、この出発ロビーのAゲートの前だった。きょろきょろと見渡すと、Aの標識が見えた。封筒をしまって、優彩はリュックのベルトをぎゅっと握る。

 世の中、そんなにいい話はないのだ。たとえ誰かが待っていたとしても、騙されている可能性だって高い。期待しちゃいけない。自分の身に、そんなに幸運なことが起こるわけがない。慎重にならなければ――。

 しかし心の防衛線を張るよりも先に、胸がとくんと打った。

 あの人かもしれない。Aゲートの前に立っている、一人の女性。

 優彩よりもいくぶん背が高く、小さなプラカードを掲げている。〈梅村トラベル 桜野優彩様〉と書かれていた。こちらの視線に気がつくと、まるでマナー研修でやるような礼儀正しさで、三十度ほどお辞儀をする。

 優彩はきつく瞬きをしてから、一歩ずつ、近づいていった。

「桜野様でしょうか?」

 はい、と優彩は肯く。

「このたびは、弊社からの招待を承諾してくださり、ありがとうございます」

 顔を上げると、女性は口角を上げた。正面から向き合ってみると、顔のパーツはそれぞれ小ぶりだがバランスがよく、きちんとメイクをした透明感のある人だった。頬骨の辺りに散ったそばかすを見つめながら、年齢はわからないが、少なくとも自分よりは年上だろうと思った。

「こちらこそ、よろしくお願いします。あ、これ、一応持ってきたんですが……」

 優彩は封筒を手渡そうとするが、女性からそれを制止された。

「お送りした案内状でしたら、わざわざ見せていただく必要はありません」

 女性は代わりに、ジャケットの胸ポケットから名刺入れを出す。ジャケットこそ羽織ってはいるものの、その下はボーダー模様のTシャツで、足元は履きなれた感じのアディダスの白いスニーカーだった。

 優彩はいつもの癖で、自分も鞄から名刺入れを出そうとして、はたと思う。

 今、私には名刺がないんだった――。名刺というより、社会人としての肩書がない。

 無職だから。

 優彩のためらいをよそに、淡々とした態度で女性は名刺を差し出す。

「桜野様とは、事前にお電話やメールでやりとりをさせていただいておりましたが、改めまして、私は志比桐子と申します。これから一泊二日で、桜野様をアートの旅へとお連れいたします」

 アートの旅――それは、今手に持っている封筒に書かれた文言と同じだった。受けとった名刺には、「ツアーアテンダント」という肩書がついている。またお辞儀をされて、優彩もつられる。

 彼女が見せた屈託のない笑顔に、まぶしい、と優彩は思った。決して顔が整っているとかモデルみたいとか、そういうことではない。内側から光っているような雰囲気をまとっているからだ。いったいこの光が、彼女のどこから発せられているのか、優彩にはまだわからなかった。

 シートベルトを締めると、肩の荷が下りた気分だった。

 思った以上に気を張っていたようだ。無理もない。飛行機というのはバスや電車とはわけが違うし、ここに来る前から、何度もインターネットで「飛行機 はじめて乗る」と検索していた。

 機内は満席に近く、通路側の隣に座ったのは、六十代くらいの女性だった。

「お嬢さん、お一人?」

 目が合ったタイミングで、話しかけられた。

「いえ、一人ではないんですが……」

「あら、お友だちと一緒なの? 席、替わりましょうか」

「いいんです。出発直前ですし」

 搭乗手続きを済ませたあと、「では、到着ゲートでお待ちしております」と言って、桐子は何列かうしろの席に座った。どうやら事前に、こういう席の配置を予約してくれていたようだ。

 桐子のさりげない気遣いには、正直助かる。

 高松空港までの一時間半を、初対面の相手と隣の席に座りつづけるのは気が進まない。かといって、東京からではなく現地集合にされてしまうと、一人で搭乗手続きをやり遂げられる自信もなかった。

 気になってふり返るが、桐子の席までは見えない。

「高松ははじめて?」

 ふたたび話しかけられ、優彩は座り直す。

「はい。四国自体、行ったことがないんです」

 旅行というものを、優彩は滅多にしたことがなかった。どれも冠婚葬祭など、やむにやまれず出かけただけで、それこそ旅そのものを目的とした自主的な一人旅というのは、まったく経験がない。興味がないからではなく、時間やお金の余裕がなかったからだ。修学旅行の積立金だけでも、親に申し訳ないと感じたくらいである。

 旅をする人たちに、漠然と憧れることはあっても、自分も行動にうつす勇気や欲はなかった。実際、日常とは違う場所に身を置くことで、どんなすばらしいことがあって、どんな気持ちになるのかというのも、過去の経験がなさすぎて、よくわからない。

「じゃあ、楽しみね。人生、はじめては一度きりしかないからね」

 たまたま隣に座っただけの、女性の何気ない一言は、心の琴線につんと触れた。

「はじめては一度きり……ですか」

「そうよ。どんなお金持ちでも、初体験を買うことはできない。時間はどうやっても巻き戻せないからね。だったら何事にも、今しかないっていう気持ちで向き合っていたいと私は思うわ。いくつになっても、はじめての経験はまだまだあるものね」

 独り言のように呟きながら、女性は優彩の隣の、窓の方を見やった。

 いつのまにか機体は動きだしていた。遠くの方にターミナルが見える。空が広い。徐行を止めたと思うと、エンジン音が大きくなって、機体はがたがたと揺れながら速度を増していった。ふわりと浮く感覚があって、思わず、優彩は肘置きを握りしめていた。

 窓の外で光り輝く雲海に目をやりながら、ジョニ・ミッチェルの大好きな一曲のことを思い出した。彼女はその曲を、飛行機に乗っているときに思いついたらしい。たしかに歌詞は、機内からの光景にぴったりだった。

 ――これまで雲というのは、羽毛の渓谷のように美しく、夢のお城のように神聖なものだと感じていた。けれども今や私にとって、雲は雨や雪を降らせては、お日さまを遮る厄介な存在でしかない。

 うろ憶えだが、そんな歌詞だった。

 今の優彩も、こうして雲を上側と下側の両方から、ようやく見ている。

 いつも下側にしかいないから、冷たい雨が降っている上空に、どんな世界が広がっているかなんて、考えたことさえなかった。これほどまばゆく美しく広い雲海が存在していたなんて。嬉しさと悔しさがないまぜになり、涙腺が熱くなる。こんな気持ちになるのは、いつぶりだろう。優彩はあわてて自分を戒め、深呼吸をした。

 心が動くのは怖いこと。そんな意識が、いつもあるからだ。

 半年前、優彩が高校卒業から七年間勤めた画材店が、店じまいした。

 個人経営の画材店では、絵具や筆といった画材だけでなく、デザイン用品、日常使いの文房具などを豊富に取り揃える他、ときおりカルチャー教室や絵画コンクールなど、楽しいイベントも企画していた。

 優彩自身、高校からよく通っていたので、卒業後に就職が決まったときは、奇跡が起こったと大喜びした。

 入荷する商品を吟味するのも、お客さんの問い合わせに対応するのも楽しく、優彩は充実した日々を送っていた。店にある商品の多くは、自分でも使うようにしていたので、自信を持っておすすめできた。

 いいお店だったのに――。

 でもどこかで、そうなるような悪い予感はあった。経営が厳しくなった理由は、文具が昔より売れないことと、加えて、通販サイトに押されたことだった。就職した当初から、先行きの厳しい業界であるうえに、大手のチェーンではないので生き残りは難しい、と危惧されていた。

 そもそも、好きなことを仕事にするなんて、うまくいかないに決まっている。画材店で働けていただけでも幸運だったのだ。世の中、夢を叶えられる人はごく一握り。みんな折り合いをつけて、生活のために働いている。とくに自分は実家が太いわけでもなく、高望みできる立場ではない。

 ありがたいことに、優彩が失職すると知った友人から、何件か新しい仕事の誘いはあった。主には、飲食店やアパレル店での手伝いだった。自分はまわりに恵まれている、と改めて感謝できた。それなのに、どれも違う気がして、結局、自分には無理なんじゃないかと足踏みしてしまう。高望みしてはいけないとわかっているのに、どうしてもその仕事が本当に自分のやりたいことなのか、という迷いが消えないのだ。

 自分の強みについて、また、自分の将来について、優彩は考えるほどに袋小路にはまる感覚をおぼえた。自暴自棄になって、SNSの匿名アカウントで愚痴ったり、公園でやけ酒をあおってみたりと、荒れた日々を送っていた。

 そんな折、母と二人暮らしをしている自宅に、一通の封筒が届いた。

 幼い頃からずっと住んでいるので、DMの類いが嫌というほどに届く。ポストには毎日のようにチラシが投函されており、下手をすれば、見逃して、捨ててしまうところだった。気がついたのは、母から指摘されたからだ。

 ――旅行会社からなんて珍しい。あなた宛てよ。

 最初のうち、優彩は取りあわなかった。

 ――旅行か……縁のない世界だねぇ。

 ――でも、これ、招待状って書いてあるわよ。

 ――もう。今はそんなお金、ないに決まってるでしょ。

 笑って答えると、母は意外なことを言った。

 ――無料で行けるんじゃない?

 ――え? まさか。

 母は勝手に封筒を開けて、確認してくれた。

 ――うん、やっぱりそうよ。ご招待しますって。

 優彩は訝しがりながらも手にとり、内容をくり返し読んだ。

 上質な紙に印刷されていた、「あなただけのアートの旅にご案内します」という一行に、優彩は戸惑った。こんなにおいしいことが起こっていいのか。その分、悪いことが起こってしまわないか。

 梅村トラベル、という社名には聞き憶えがなかったが、ネットで調べると、都内の小さな旅行会社だとわかった。一応ホームページはちゃんとしていたし、思い切って電話で問い合わせてみると、担当者の応対は丁寧だった。

 なんでも、その会社では新しくアートの旅行を企画する予定で、実際に客を募る前にモニター調査を行なっているという。今回はそのモニター参加への誘いであり、終わってからサービスの感想や改善点についてのアンケートに答えるだけで、旅費のほとんどを会社に負担してもらえるのだとか。

 電話口で説明を受けながら、優彩はキツネにつままれた気分になった。どうして見知らぬ旅行会社が、こちらの住所を知っているのか。そんなに都合のいい話が、自分の身に起こるのはなぜだろう。最初に抱いた不安は膨らんだ。

 半信半疑ながら、担当者だという志比桐子と、メールのやりとりをはじめた。

 希望する日時、移動手段、宿泊先、食事についての好みなど、細かい質問リストが送られてきた。やりとりのなかで、行先は瀬戸内海に浮かぶ直島という、以前から一度は行ってみたかった「現代アートの聖地」に決まった。

 ガタン、という衝撃でわれに返る。

 いつのまにか、機体は高度を下げ、薄い雲をくぐりはじめている。やがて青々とした瀬戸内海に、ぽつぽつと緑ゆたかな島々が浮かぶのが見えた。絵ハガキのような光景だった。今からあの島を旅するなんて、どんな出会いが待っているのだろう。現実の心配事は完全には消えないけれど、胸の高鳴りを抑えられなかった。   

   *

 高松空港で荷物を受けとって外に出ると、空は雲ひとつない晴天が広がっていた。時刻は午前十一時過ぎ。リムジンバスに乗りこむと、桐子は優彩に「よろしければ、窓側におかけください」と言って、二人並んで座った。

「この旅では、ご希望通り、公共交通機関をなるべく利用して参ります」

「ありがとうございます」

 レンタカーという選択肢もあったようだが、優彩は歩くことが好きだし、さまざまな乗り物を試してみたかった。それに、道中ずっと車を運転してもらうのも、申し訳なくて遠慮してしまう。

 バスが発車してまもなく、桐子から声をかけられる。

「じつはここにもアート作品があるんです」

「えっ、空港に?」

「はい。窓の外をご覧ください」

 バスは空港バスターミナルの正面にある駐車場の脇を通って、ぐるりとロータリーになった道を走っていた。その中央にある芝生の空き地には、石が高く積みあげられている。工事中の石材にしては、きれいな半円型をえがいており、背後には、同じ石でなだらかな坂がつくられている。

「あれ、ですか」

「はい。イサム・ノグチの《タイム・アンド・スペース》という遺作です。香川県は、花崗岩のダイヤモンドと呼ばれる庵治石が採れます。彫刻家のイサム・ノグチはそれを素材として使用していました。この作品は古代のストーンサークルみたいに、角度によって異なった姿に見えるんですよ」

「本当だ」

 優彩が答えると、桐子は満足げに肯いた。

 小さく窓を開けると、初夏の気持ちのいい風が流れこんでくる。

 前方から見ると、半円形に積みあがっていた石の山は、横からだと古墳のように円と三角形の二パーツに分けられた。なだらかな坂だと思っていた部分は、むしろピラミッドによく似ている。不思議な石のオブジェは、見る角度によって別の印象を与え、なにかの暗号でも秘めているようだった。

 リムジンバスは交通量の多い国道を、海の方にまっすぐ走りはじめた。

 高いビルが増えてきた頃、県庁の近くのバス停で、何人かが降りていった。ふたたび桐子は口をひらく。

「香川県庁舎東館は、丹下健三による名建築としても知られます。ここからはちょっと見えづらいかもしれませんが、重要文化財にも指定されていて、建築ファンから愛されているんですよ」

 桐子は、県庁舎の画像を見せてくれた。

 神社の鳥居の組み方をいくつも重ねたような、重層的なデザインの、どしりと構えたビルである。今風のガラスを用いた軽やかな高層ビルとは違い、コンクリートや伝統的意匠を多用しているので、やけに迫力があった。

「たくさん名所があるんですね」

 感心していると、桐子は「じつは」とつづける。

「香川県庁舎をデザインした丹下健三って、じつは広島の平和記念公園の設計をした人でもあって。ちなみに、さっきのイサム・ノグチも、公園内の慰霊碑の制作を依頼されていたんです」

「あ、原爆ドームの近くにあるんでしたっけ? テレビで見たことあります、アーチ型の石碑ですよね」

「それです。あれって、もとはイサム・ノグチがデザインしていたんですが、アメリカ人であるという理由で却下されたという経緯があったんです。そこでノグチの友人でもあった丹下健三は、そのことを残念に思い、もともとのデザインを生かした石碑を建てたそうですね」

 優彩はさきほど目にしたイサム・ノグチの《タイム・アンド・スペース》について思いを馳せる。時間と空間を超えて、ともに高松市にゆかりのある二人の友情が、日本国内にしっかりと残されているのだ。

 バスが発車したあと、大きな交差点で信号待ちをしているタイミングで、桐子はふたたび解説を加える。

「今、バスの窓から見える高松市立中央公園には、地元出身の菊池寛の銅像があります。香川県って他にも、猪熊弦一郎をはじめ、多くの芸術家のゆかりの地でもあって。高松市内だけでも、見るべきアートってたくさんあるんです」

「なるほど」

 メモひとつ見ずに解説していた桐子を、優彩は横目で眺める。

 公共交通機関を利用しながらも、こうして高松市内のアートスポットをたっぷりと案内してもらえるとは。お金を払わなくても自由に鑑賞できるアートが、意外とたくさんあるという事実にも、優彩は驚いていた。

 一人で来ていれば、石の彫刻作品や県庁舎など気にも留めなかっただろう。ましてやつくった人たちの人生や、街の歴史について教わったうえで見ると、他の風景も色調がはっきりして、ここにしかない特別なものに映る。

 桐子のような人は、どういう人生を歩んできたのだろう。自分がうまくいっていないと、つい他人の芝生が青く見える。ずっと順風満帆な人なんていないとわかっていながら、羨ましいというか、憧れを感じる。

 なんせアートに関わる仕事をしているのだ――。

「なにか?」

「いえ、なんでもないです」

 慌てて誤魔化し、優彩は窓の外に視線を戻した。

 高松駅は海岸の目の前にあり、フェリー乗り場までは徒歩五分ほどだった。

 桐子は「フェリーの時間まで余裕があるので、昼食をとりましょう」と言って、港のはずれにある小さな商店街に案内してくれた。実のところ、優彩はサンドイッチを持参していたが、旅慣れていない証拠のようで恥ずかしくなり、隠しておいた。

 水産物の卸売市場や飲食店など、小さいが活気のある商店街の一角に、「食堂」というのれんのかかった定食屋があった。店内は混みあっていたけれど、ちょうど二人席がひとつ空いている。

「いらっしゃい、そっちにどうぞ」

 元気のいい男性店員に案内されて、優彩と桐子は向き合いテーブルについた。最近ほとんど外食をしていなかったので心躍る。この際、値段は気にせず好きなものを注文しよう。せっかく香川に来たのだから、と優彩はうどん定食を選んだ。

 すぐにお盆にのって運ばれてきたのは、腰のありそうな太い麺に、つややかな卵ののったどんぶりに加えて、エビや白身魚の天ぷらの小鉢だった。優彩はいつにない空腹を感じ、うきうきした気分で手を合わせ、割りばしを割る。

 これまで食べていたうどんはなんだったのだろう。そう唸らずにはいられない食べ応えのある麺だった。絡みつくだし汁と、絶妙に相性がいい。また、添えられた天ぷらに油っこさはなく、魚の新鮮さとうまみがうどんの素朴さをよく引き立てていた。

 あっというまに完食した優彩に、桐子は目を細めて言う。

「直島には、岡山の方面からのフェリーも就航しているんですが、桜野さんの事前アンケートに、好きな食べ物は麺類だと書かれていたので、どうせなら香川県のうどんも味わっていただきたくて。この店はうどんも魚料理も絶品なので」

「そうだったんですね」

 こちらが気づいていないだけで、すべての旅程に、なんらかの意味があるのかも、と改めて感じ入る。

 同時に、ずっと気になっていたことを訊いてみたくなった。

「あの、アートの旅って、いまいちよくわかっていないんですが、私でも大丈夫でしょうか? とくに今回のような現代アートとかって、雑誌や本で何度か触れたことがあっても、実物はほとんど見に行ったことがないんです」

 桐子は食後に給されたお茶を一口飲むと、背筋をぴんと伸ばして、こちらをじっと見返した。

「旅行って、人生を見つめ直す時間だと思うんです」

 急に言われても、優彩は戸惑う。

 これまで旅行をした経験が少ないので、そう言われてもピンと来ないからだ。

「えっと、そう……なんでしょうか」

「はい。どうか難しく捉えないでください。現代アートにしても、高尚そうだとか意識が高そうだとか、敬遠されがちですけど、本当はもっと気楽に、これまでの人生について、生きることについて、ふと立ち止まって考えるためのきっかけに過ぎないと、私は思うんです。だから旅行とも、きっと相性がいいんじゃないかって」

 はぁ、と優彩は生返事をしてしまう。

 桐子は肩をすくめて、「すみません、急に真面目な話をしてしまって」と、黒髪を結いあげたうなじをさわったあと、にっこりとほほ笑んだ。

「難しいことは抜きにしましょう。桜野さん、招待状が届いたとき、戸惑いや疑問もあったかもしれませんが、正直ラッキーって思いませんでした?」

「へっ? まぁ、たしかに」

 気さくな問いかけに、思わず本音がもれる。

「それならば、余計な心配はせず、楽しんでいただければ、いいんです」

 とつぜん昔からよく知る友人のような砕けた口調になったので、優彩は面食らう。それでも、ツアーアテンダントと客という距離感を保っていた桐子が、打ち解けた態度を垣間見せてくれたことに、嬉しいと感じている自分もいた。

 ――はじめては一度きり。

 機内で隣に座った女性からもらった一言が、ふと胸にこだました。

文春文庫
ユリイカの宝箱
アートの島と秘密の鍵
一色さゆり

定価:770円(税込)発売日:2024年01月04日

電子書籍
ユリイカの宝箱
アートの島と秘密の鍵
一色さゆり

発売日:2024年01月04日

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