マルセル・シュオッブについて思うことをまとめて上手く言うことは難しい。新しい読者がシュオッブを知りたければ、二〇一五年に国書刊行会から浩瀚な一巻本として発刊された『マルセル・シュオッブ全集』があるし、そしてこの度は、追補の如くに『夢の扉 マルセル・シュオッブ名作名訳集』なる一冊が同版元より出た。昔からシュオッブ作品のあれこれに関しては名だたる文学者たちによる多種の翻訳が存在するため、この『夢の扉』は、全集に収録できなかった異訳の数々の精華集ということになる。本家全集では大濱甫・多田智満子をメイン訳者とする名訳群があった訳だが、こちらで新たにずらりと並んだ訳者名は渡辺一夫・矢野目源一・鈴木信太郎・松室三郎・青柳瑞穂・日影丈吉・種村季弘・上田敏・堀口大學・山内義雄・日夏耿之介・澁澤龍彥。「戦前期の古いものを軸にすえて」編纂したとのことなので、男ばかりになってしまうのは仕方がないようだが、それにしてもまさに百花繚乱――巻末解題に「「彫心鏤骨」という現在では使われなくなった言葉がなんとも似つかわしい」「凝りに凝って洗練の極みのこれらの翻訳文章は、名文家の誉れが高かったシュオッブの、端正に構成された小説にはたいそうふさわしい」とあるとおり。きりりとした濃紺と純白の対比が鮮やかな大型全集本が広壮な本宅であるとすれば、浅いブルーの小型本『夢の扉』は、さながら瀟洒な別邸といった塩梅。しばらく品切れとなっていた全集もこの機会に増刷され、こうしてシュオッブ・ブルーの二冊が新刊書店に並ぶという、珍しくもめでたい仕儀となった。と、ここまでざっくりご紹介。
そして言っても詮無いことをまたも言いだすのだが、ここまでの文中に出てくる女性名はただ一名、多田智満子のみ。懇切な巻末解題に出てくるシュオッブ信奉者たちも男ばかりなので、ますます絢爛たる男の花園っぽく見えなくもない。が、これは口が悪い。むしろ、多田智満子氏のような貴重な先達がひとりでも存在したことを喜ぶべきなのだろう。
とにかくシュオッブについて思うことを上手くまとめて言うのは難しい。信奉者の端くれの端くれ、微々たるじぶんが半世紀まえに出会ったシュオッブはおよそこのようなものだった。「眠れる都市」「大地炎上」のシュオッブ、泡立つ紺青の大洋に泛ぶ眠れる都市の島の話、炎に呑まれ滅びゆく世界の幼いアダムとイヴの如き少年少女の話。純粋に閉ざされた架空世界の描出というものに生まれて初めて出会って驚き、この印象はのちに「誰にも似ていない作家」「それまで誰も書かなかった種類の小説を初めて書いた作家」へと変わった。滅多とないその種の存在を好むようにもなった。それから多田智満子訳『少年十字軍』、白い本、聖別されたかのように白く薄く恐ろしい本。文章家としてのシュオッブをはっきり意識したのは『架空の伝記』。「恐ろしい流星が月の下で旋回」し、「舞台の戦闘場面に先行するような警報喇叭の陰鬱な音が響き」、「気化した薔薇色の血からなる薄明かり」に包まれる玉座上のシリル・ターナーなど。
コレット「私の修業時代」で、二十歳そこそこの無名時代のコレットが夫の友人シュオッブと親しい交流があったエピソードにはごく早い段階で気づいていて、この頃のシュオッブはちょうど『モネルの書』の時期。モネルのモデルとされる幼く貧しい肺病の恋びとを看取った直後で、だから結婚してパリに出てくるなり大病をして伏せっていたうら若いコレットに対しても、きっとその続きのように接した訳なのだろう。そうした事情についてコレットの回想記は何も触れておらず、ただ具体的にその折の日々が綴られていて、当時学生だった読み手の側としてはすっかり二十歳のコレットに感情移入してしまったのだった。アパートの四階まで毎日二度三度と上ってきては枕元で話し相手となり、トウェインやディケンズを朗読し、じぶんのために未訳作の翻訳までしてくれたシュオッブ。若さゆえに、その奉仕を当然の如くに受け取って。これほどの作家から無償の献身を受けた記憶は甘やかに残り、そして病が癒えたのちはいよいよ自身が創作のペンを取るのだ――このように小さく切り取られたじぶんだけのシュオッブのイメージを思い、それを愛する。
この度の『夢の扉』には『モネルの書』からの訳文が含まれておらず、そこだけがちょっと残念かも。それでも伝染病とドッペルゲンガーを扱った恐怖譚の名作「081号列車」にしても、イメージとしてくっきり残るのは花の刺繍布に包まれて眠る中国人妻と娘のあえかな肉感であること、そのようなところがとても好きだ。また今世紀に入ってから、本国フランスその他でもシュオッブ復権めざましく、特に『架空の伝記』『モネルの書』の文学的先進性が高く評価されているとのこと。
日本では多くの翻訳家・文学者たちが好んで取り上げ、それぞれ麗筆を振るったこの度のシュオッブ名作名訳集。これは世界でも例のない本であるようだ。単行本初収録の珍しい訳もあれば、よく知られた作の訳の違いを読み比べる楽しみもある。何のかのと言いながら、「かれは名声のためでなく、あえて幸福な少数者のために書いた」とボルヘスをして言わしめたシュオッブの貴重な新刊、『夢の扉』の降臨を寿ぎつつ。
(初出 「文學界」2024年3月号)
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