人生とビジネスをかけて学んだ「運」の極意
出典 : #文春新書
ジャンル :
#政治・経済・ビジネス
三十四期連続となる増収増益記録を更新
私はメディアに出ることがほとんどないので、そもそも私が何者であるのか、ご存じない読者が多いかもしれない。しかし私を知らなくても、黄色と赤のド派手な看板を掲げる「驚安の殿堂 ドン・キホーテ」という店を、誰もが一度は目にしたことがあるだろう。店内に一歩入れば、触れ込み通りの驚きの安さ、「高級ブランドからトイレットペーパーまで」の豊富な品揃えが異彩を放つ総合ディスカウントストアである。
私は四十歳を目前にした一九八九年三月、東京・府中市にドン・キホーテ一号店を開業した。それから約三十五年、日本経済はバブル崩壊による消費低迷など様々な試練に見舞われたが、我がドン・キホーテは一貫して、目を見張るような成長路線を歩んできた。
二〇一九年には社名をドンキホーテホールディングスから、パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス(以下、PPIH)に変更したが、そのPPIHは創業以来、三十四期連続となる増収増益記録を更新中である(二〇二三年六月期現在)。
快進撃は日本国内に留まらない。二〇〇六年には海外進出を開始し、アメリカのハワイ州にドン・キホーテUSAを出店。二〇一七年にはアジア初となるシンガポール一号店を出店し、その後もアジアを中心に店舗数を拡大、二〇二五年六月期までに海外で約百四十店の体制にすることを目標としている。
PPIHは現在、世界に七百三十店舗、従業員数約九万人を抱える国際流通企業となり、今期(二〇二四年六月期)年商は二兆円突破が確実である。二〇一八年六月期は約九千四百億円だったから、コロナ禍を挟んだわずか六年で、年商を二倍に引き上げたことになる。
若い頃は災難・苦難・苦闘の連続だった
ここまで威勢のいい話が続いたが、私の人生と仕事は初めから順風満帆だったわけでは決してない。むしろ全く逆で、災難・苦難・苦闘の連続であった。
若い頃の私は、何をやっても上手くいかず、常に悶々とした思いにさいなまれていた。
大学卒業後は小さな不動産会社に就職したが、入社してからわずか十カ月後に倒産。そこからは再就職もせずに、ギャンブルで食いつなぐような放浪と無頼の日々が始まった。当時の私のライフスタイルは、徹夜麻雀をして朝帰りし、夕方にまたゴソゴソと起き出して雀荘に出掛けていくという、自堕落を絵に描いたようなものだった。
「さすがにこれはまずい」と、三十歳を目前に一念発起。目をつけたのは、各地にぽつぽつと登場し始めていたディスカウントストアだった。心を入れ替えて必死で稼いだ軍資金の八百万円を全て突っ込み、一九七八年、東京・西荻窪にわずか十八坪の小さな雑貨屋「泥棒市場」を開いた。ところが、品物を仕入れてもさっぱり売れず、家賃は月二十万円なのに、売上は一日一万円にも届かなかった。なんとか商売のノウハウをつかみ、満を持して一九八九年にドン・キホーテ一号店を立ち上げるも、開業した年の売上はたった五億円で大赤字。その後も、何度もドン底に突き落とされるような経験をした。
無一文から二兆円企業を作り上げた
知識も経験も人脈もゼロの私にとって、小売業への挑戦は人生を賭けた“大博打”だった。博打と言ってもほとんど失敗する確率が高く、しくじったらブルーシートに段ボールの生活が待っていた。
だが、結果だけ見ると私は、無一文から一代で二兆円規模の企業を作り上げた、稀に見るような“大成功経営者”になり得たわけである。しかも、ほとんど一人勝ちだ。ドンキの立ち上げ時、日本全国にディスカウントストアは中小あわせて数万軒あると言われていたが、今生き残っているのはほぼ皆無に近い。当時の業界全体の売上を、ドンキが一社でカバーするほどになった。また、私より能力があって、仕事に熱心で、朝早くから夜遅くまで死ぬほど働く経営者は山のようにいたが、いつしか彼らも姿を消していった。
それでは、私の成功要因は何だったのか。あれこれと考えているうちに、「運」の存在に思い至るようになったのだ。
運は自分自身でコントロール可能
ここで言う「運」は、単なる「ツキがよかった」という類の話ではない。今でも私は自分の身の上話をすると、多くの人から、「安田さんは本当に運が強いですね」などとよく言われる。だが、私自身は特別に運が強いわけではない。災難を招いた「不運」を、「幸運」に変える力が強いのだ。
私は、人によって運の総量そのものに大差はないと考えている。現実を見れば、明らかに運のいい人とそうでない人はいるだろう。しかし、それは与えられた運をどう使ったかという違いに過ぎない。すなわち、運のいい人とは「運を使い切れる人」であり、運の悪い人は「運を使い切れない人」あるいは「使いこなせない人」だと言える。詳しくは本文で説明するが、運を良くする行為、悪くする行為は必ずある。例えば、不運の時の悪あがき(第二章)や、他罰的な言動(第四章)は、運を著しく落とす要因となる。
つまり、運は自分自身でコントロール可能なものなのだ。私はこれを「幸運の最大化と不運の最小化」(第二章)と呼んでいる。人生には幸運と不運が交互に訪れる。不運が訪れた時はいかにその不運を最小化するか、幸運が訪れた時はいかにその幸運を最大化するかが問われる。不運の時は下手に動かず、チャンスが巡ってきたら一点突破でがむしゃらに突き進む。こうして私は、人生と仕事において運を使いこなそうとしてきた。
さらに言えば、個人の「運」を会社組織の「集団運」に転化することで、さらに運を大きくしていくことが可能となる。
どちらかというと私は、遅咲きの経営者である。ドン・キホーテを立ち上げたのは三十九歳の時だが、そこから十年くらいは、企業として急成長は遂げたものの、内実は四苦八苦の連続だった。PPIHの業績が目を見張るように伸びた(率ではなく額として)のは、私が五十歳を過ぎた頃からである。さらに還暦(六十歳)を越えた二〇一〇年から今に至る間に、その売上と利益額は四倍以上と飛躍的に増えた(三十二頁の別表1参照)。
ここで何が言いたいかというと、運の良し悪しは、その個人に留まらないということである。とりわけ会社(組織)には「集団運」というものがあって、これが成長と発展の決め手になる。そんな「集団運」を育めば、個々人がおのずと自燃・自走する最強軍団が出来上がる。そうなれば、会社は大きな成長と発展を遂げることになる。
この三十年を振り返ると、家電メーカーなどの日本を代表する企業は、かつての栄光と反比例するようにどんどん業績が落ちていった。それに対して、PPIHの業績は二倍、四倍、八倍……といわば倍々ゲームのように大きく膨らんでいった。これは当社の「集団運」が起こしたミラクルだと、私は自負している。
運は誰も言わない「巨大な真実」
運は決して「宿命」ではない。気持ちの持ち方次第で、いくらでもコントロール可能なものだ。だが多くの人は、運そのものを正面から捉えたり、真面目に語るようなことはしない。単に、「運が良かった」、「運が悪かった」という話でオシマイにしてしまう。
もちろん、災害に見舞われるなど、自分一人の力ではどうにもならない不運もある。「運は人智を超えたもの」という解釈に敢えて異論を挟むつもりはないが、だからと言って、「運は天に任せざるを得ない」という常識論法に与するつもりはない。私は「運任せ」という言葉が一番嫌いだ。運は自ら切り開いていくものだと考えている。
運というのは、誰も言わない「巨大な真実」だ。私の人生を振り返ると、常に運という巨大な力に翻弄されながらも、何とかそれをコントロールしようと奮闘してきた。私なりに運を科学して、必勝パターンを分析し、「個運」と「集団運」を磨きに磨き上げてきた。だからこそ、今の私とPPIHの繁栄があるのだと断言できる。
そうした意味で、私は自らを「運の生き証人」と自認している。独自の視点から運を語る資格を有する者と言えるのではないか。
本書は運に関するリアルな処世の書
あくまで本書は、運に関するリアルな処世の書という位置づけである。少なくとも私は、現実から遊離した言葉遊びや禅問答的な議論をするつもりは一切ない。私がこれまで採用してきた手法の中で、最も確実かつ効果の高かったものを紹介し、地に足がついた議論を展開するつもりだ。従って本書は、運に関するあまたの思想書や哲学書、宗教書的なものとは、立脚点と次元を全く異にした、ある種の実学書的なものとなろう。
最後に、本書を読んでいただくうえでの留意点に触れておきたい。
本書では、第一章から第五章までを主に「個運」に関して、第六章から第七章を「集団運」に関しての説明に割いた。そのうえで、第八章からエピローグでは、個運と集団運を合体した「総体運」的なものについて、私の経験や考えを述べている。
個運が良くなければ何も始まらない
留意すべきは、それぞれの個運が良くなければ、集団運も良くなり得ないということだ。つまり、「個運が良くなければ何も始まらない」のである。
また、私のような経営者にとっては、集団運に恵まれなければ、結果として個運も良くならない。そういう意味では、両者は密接不可分な関係にあるわけだが、いずれにせよ個運こそが成功や幸福の出発点であると、私は確信している。
まずは個運を上げることが何よりも重要であると、最初に申し上げておきたい。
さて、「運」をめぐる探検に皆様をご案内しよう。本書を読み終える頃には、確実に運を良くする手がかりが摑めていることを、私が保証する。
「はじめに ドン・キホーテが起こした奇跡の源泉」より