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「刀を構えて、気息が整うまで待って…」短篇小説の呼吸、長篇小説の呼吸を北方謙三・松浦寿輝が語り合う!『黄昏のために』刊行記念対談

「刀を構えて、気息が整うまで待って…」短篇小説の呼吸、長篇小説の呼吸を北方謙三・松浦寿輝が語り合う!『黄昏のために』刊行記念対談

「文學界」編集部

『黄昏のために』(北方謙三)

出典 : #文春オンライン
ジャンル : #小説

『黄昏のために』(北方謙三 著)

 2024年6月10日に北方謙三さんの14年ぶりの現代小説『黄昏のために』が刊行されました。一人の画家の男を主人公にした掌篇集で、“究極の絵”を独り探求する画家の苦悶と愉悦が匂い立つ18篇が収録されています。

 刊行を記念して、「文學界」で同じく画家を主人公にした小説「谷中」を連載中の松浦寿輝さんとの対談が実現しました。創作作法からイタリアへの旅、画家にまつわる映画まで、グラスを手に語り合った模様をお届けします。(『文學界』2024年7月号より転載。写真=石川啓次)

◆ ◆ ◆

松浦    最新短篇集、読ませていただきました。『黄昏のために』というタイトルからも、北方さんの人生への思いが滲んでいますね。画家が主人公の北方さんの小説ということで、まず僕の頭に浮かんだのは、〈ブラディ・ドール〉シリーズの四作目の『秋霜』です。当時北方さんはまだ四十歳そこそこで、六十歳近い男の心境を想像して書かれたわけですね。そのほぼ十年後、五十歳近くになって『冬の眠り』を出された。これは事件らしい事件がほとんど起こらない静謐な長篇小説ですが、その主人公は三十代の画家で、作者と登場人物の年齢の関係が『秋霜』とは逆転している。今回の『黄昏のために』の主人公は、庭で薔薇を丹精しながら「老眼鏡が必要になるのは、そう遠い時ではないだろう」と思っているというから、まあ五十代半ばくらいでしょうか。まだ枯れ切ってはいない感じが魅力的なのですが、しかしなぜ画家なんでしょう。

北方    小説家だと生々しすぎるんですよ。でも、何となく自己表現したいんです。だから、画家にしようと。松浦さんだって『谷中』は画家で書いているじゃないですか。今日は画家同士の対談だなと思って来たんですよ。

松浦    そういうことになっちゃいましたね(笑)。昨年初めにお目にかかったとき、「一本十五枚の短篇を書き溜めて、一冊ぶんになったら短篇集を出す」とお聞きしました。その後、『チンギス紀』全十七巻という偉業を達成されたわけですね。長い階段を上りつづけていったん踊り場に出て、次の階段にかかる前にちょっと休憩という感じでこの短篇連作を書かれたのかなと、最初は思ってしまったんですが、実はこの連作は二〇一七年から書き出されているんですね。

北方    最初の六本ぐらいまでは、一冊の本にする気はなかったんですよ。長篇を書き進めるための言葉はいくつでもあって何行でも書けるけれど、枚数を十五枚に限定すると、選ぶべき言葉がたった一つしかなくなるんです。それで長篇で間延びしちゃった文体が引き締まる。そのために短篇を書いていました。

松浦    大長篇の執筆の合い間に、文章の気息を整えるようなおつもりで書き継がれていったということでしょうか。それにしても、十五枚というのは微妙な距離ですよね。それを走り抜けるのか、歩き通すのか。

北方    文体のためには、短ければ短いほどいいんです。本当は五枚でもいいんだけれど、難しいな。十五枚でも難しかった。今回は凝りに凝って、すべて原稿用紙の十五枚目の最後の行で終わらせました。

松浦    僕が注目したのは、十八篇すべてが二章立てになっていること。三章であれば序破急、四章なら起承転結で、結末がついて一応小説らしいかたちをなす。ところがこの連作の一篇一篇は、二つの章の組み合わせで出来ている。厚紙で紙飛行機を作るとき、胴体を作り、翼を作って、ぶっ違いに組み合わせるでしょう。それを投げると、風に乗ってすうっと飛んでいく。なにかそんな印象を受けたんです。

北方    飛行機だと考えたことはなかったけれど、何か動的なものを作品構成の中に求めたんでしょうね。それがどういう効果をもたらすかは、書いてみないと分からない。それに十五枚だと最後の一行が決まらなかったら全然駄目なんだ。

松浦    一篇ごとの着地はもちろんどれも見事に決まっている。ただ、いわゆる「よく出来た短篇」「短篇らしい短篇」――日本の近代文学はそういうのが得意ですよね――の締め括り方ともちょっと違うんです。ぷつっと切れて読者を放り出しつつ、しかも微妙な気合いで次の短篇につながっていく、そういう呼吸なんです。

 

北方    十本目を過ぎたぐらいで色気が出て、一冊の本にはなるのかなと思って、書き継いだところはあります。一番意識したのは、文章ですよ。繰り返しがなく、同じ言葉も使わずに頭からひと息で書いていけるか。

松浦    僕の見立てでは、北方さんは基本的には、やっぱり長篇作家、極めつきの長篇作家だと思います。長い長い物語を書き継いでいく現場で、一種の物狂いみたいな世界に入りこんじゃうわけでしょう。怒濤のような語りの奔流に巻き込まれ、あれよと流されていく感じなんじゃないですか。ところが今回の短篇集では、言葉一つ一つの前に立ち止まって、センテンス一つ一つを手仕事で削り出していく、そんな感触がある。それは、小説家の基本的なトレーニングですよね。

北方    そういうことです。気息を整えるといえば、僕は居合抜きをやっているんです。三畳巻きっていう胴体ほどの太さの巻き藁を抜き打ちで斬るには、気息が整うまでじーっと待っていて、スパーンと刀を振り下ろす。その瞬間に言葉が出るような感覚があるんだろうと。

松浦    『冬の眠り』の主人公は一種破滅型の芸術家ですが、今回の主人公の画家は、むしろ非常に細心に自己を律して生きている男です。注意深く薔薇を丹精したりしているわけで。

北方    だから、やっぱりよく考えると自分を書いてます。私、結構勤勉なんですよ(笑)。

松浦    それは存じております(笑)。北方さんって遊興的な男というイメージが世間的にはあるけれど、底のところではものすごく禁欲的な性格でしょう。
 北方    そうです。特に長篇小説を書き始める時は相当禁欲的だと思う。

早い勝負、遅さへの執着

松浦    物語というのは時間の芸術ですよね。始まりがあって、クライマックスがあって、終わりが来るという時間の流れがあるわけだけど、絵画というのは、その時その場に一挙に存在するものでしょう。今回みたいな十五枚の短篇は、空間のうちにいきなりぱっと現前している絵画芸術みたいなものとむしろ近しいのでは。

北方    通俗的な言葉で言うと、絵は勝負が早いんです。一目見たら分かる。小説は全部読まないといけないから。

松浦    それは確かにそうだ。

北方    僕は長篇でさえも早い勝負を求めているのかもしれないです。小説とは何か、しばしば考えます。説明じゃない。イメージの芸術、つまり描写なんです。描写ということになると、松浦さんの文章なんて、本当にすばらしいんだ。悠然たる流れなんだよな。

松浦    僕にはむしろ遅さへの執着があるんです。ゆっくりゆっくり進んでいきたいという思いが強い。

北方    その遅さが僕にはいいんだな。『人外』なんて、最初、何が何だか分からないわけよ。十ページ読むのに「なんだこれは」とすごい時間がかかって。最初は人間でも何でもないわけじゃない。だんだん読んでいるうちに、それが何かというのが見えてくる。これは「視点」そのものだなと思ったとき、最後まで読み通せました。

松浦    よく読んでくださいました。

北方    「読んだ」と言ったら「読まなくていいのに」とおっしゃいましたね(笑)。『名誉と恍惚』もゆっくりですが、ちゃんと物語が進むのがいい。

松浦    まあ一度くらいそういうこともやってみたかったんですよね。

北方    文体は時々変えておられますよね。『人外』はちょっと短いけれど、『谷中』ではゆったりと続くでしょう。

松浦    それは谷中という場所の土地柄もありますね。台東区から文京区にかけてのあのあたりの土地に流れている時間というのは、やっぱりちょっと独特なものがあって。

北方    主人公のあの画家、あんまり描かないもんね。

松浦    いつまでたっても描かない。鉢とか瓶とか果物とか見つめて、悩み続けている。

北方    僕は『谷中』を読み始めて、思い浮かべたのは堀辰雄だったな。『菜穂子』の、すごく息が長い文体。

 

松浦    うーん、『菜穂子』にはあんまり似てないと思うけど、ただ堀辰雄も隅田川沿いの向島あたりで育った人でしょう。東京下町育ちで、西洋かぶれになっていく、そのあたりの人生の成り行きというのは僕の場合とちょっと似ているかもしれません。

北方    堀辰雄が書いたものはちょっと作為的すぎるような気がするな。『谷中』は私小説ですか?

松浦    フィクションだけど、自分の記憶を投影しているところはありますね。あの辺の土地には子供の頃から縁が深くて、今でも非常に愛着があります。母の実家が文京区団子坂。それが下谷竹町の味噌屋に嫁入りしたんで、僕は御徒町のあたりで育ったんですね。それから中学高校は西日暮里で、上野広小路から不忍池の岸を回ってゆく都電で通っていました。というわけで谷中、上野あたりには昔からなじみがあり、授業が終わるとよく谷中霊園を抜けて家まで歩いて帰ったりしていました。あの辺の土地勘はおありですか?

北方    全然ないんです。主人公は酒を飲んで、道に迷って帰れなかったりするけど、松浦さんは土地勘があるんだなと思いながら読んでいた。あれは私小説的な選別がなされているんですよ。つまり、全部書くわけじゃなくて、どこで何を選別するか。それが一種の指標だろうと思う。あんなディレッタントの本屋っているんですか? たぶん、願望なんだろうな。

松浦    ああいうのは想像の産物で、密かな憧れの表現かもしれません。

北方    部屋から外を見て、幽霊みたいな男がいるなとか。

松浦    お寺が多い土地柄だから、墓地がいっぱいある。戊辰戦争の時にたくさん人が死んで、路上に死屍累々だったはずだけど、お墓にちゃんと埋葬されずに野ざらしになっちゃったようなことも結構あったんじゃないかと思うんですよ。そういう意味では意外に不穏な土地なんですね。

北方    野ざらしにして埋めるのは、本当は許可されないんですよ。俺の家の墓は山の中にあって、今もそこを守っている人が居るんです。庭に何か作ろうと思って穴を掘ったら、骨がボロボロ出てきたと。頭蓋骨が割れていたり、どこか傷ついているんだって。要は、賭場荒らしをやったやつを叩き殺して、埋めていたんです。役所に「埋葬していいですか?」と聞いたら、「焼いてないからできません」と言うんだ。それで、七輪で焼いて「これでいいか」と言ったら「構わない」と。

松浦    役人の考えることってよく分からないですよね(笑)。

北方    でも、十三体も出てきちゃったと聞いて、俺は嫌だったな。掘ればもっと出てくるかもしれない。

松浦    今回の短篇集にも、牛の頭を庭に埋めておいて掘り出して描こうとする話がありますね。

北方    あれは、叔父貴が画家で、そういうことをよくやっていた。俺も自分でやろうと思って。屋根に置いておくと、色が変わって野ざらしの骨みたいになるんだけど、二年ぐらい経ったらボロボロになるんだよね。

かたちが解体していく寸前を

松浦    北方さん、そもそも絵はお好きなんですか。美術館によく行ったりなさいます?

北方    いや、たまに行って、チラチラチラッと見て行くぐらい。じっくり鑑賞するってできないの。パッと気になった絵の前に止まって、じっと見てるとかいうのはやるけど。一時、ロイ・リキテンスタインとかアンディ・ウォーホルとか、前衛に凝って、この必然性はどこにあるんだと考えたりしたけど。でも、どこか俺は理解できない。松浦さんはアブストラクトに対して、「解体する」と書いていた。あれはどういうこと?

松浦    とにかくリアリズムの「解体」という大きな流れがありますよね、二十世紀美術の展開で言うと。それでかたちが消えて、線と色の戯れみたいな抽象的な画面構成になっていく。カンディンスキー、モンドリアン、クレー……。まあリキテンスタインやウォーホルはちょっと違うけど。アブストラクトの絵にはご興味はないですか。

北方    あそこはすごく興味深く読んだんですよ。具象からポーンと抽象へ飛ぶ時に、理屈じゃない何かが働く。具象はものを介在させているんですよ。何を描いても。でも、抽象になった瞬間にものが介在しなくなる、それを松浦さんが「解体」と書いていたんだよね。それがすごく気になって、今日、聞こうと思ってた。

松浦    『谷中』にもちょっと出てくるんだけど、ニコラ・ド・スタールという、もともとロシア生まれですが戦前から戦後にかけてのフランスで活躍した画家がいて、この人の絵が僕はすごく好きなんです。ド・スタールの画面というのは、ある意味でかたちは残っているんです。エッフェル塔の絵があったりするんですから。ところが、それが真っ赤な三角形だけのエッフェル塔になっていく。原色をベタベタ塗り込めるような絵なんだけど、かたちは残りながら、しかしそのかたちが解体していく寸前の地点を追求しようとした、そういう画家です。緊張感に満ちた鮮烈な画面でね。

北方    私にはそんなふうな画家がいないんです。これを見習えと言われたのは、ベラスケス。ベラスケスは宮廷画家だから、非常な制約の中で描いたわけですよ。しかし、できあがったものは素晴らしい。表現物とはそういうものなんだと言われたことがあって。そう思いながらベラスケスを見ている間に、これは深いものがあるのかなという気になった。

松浦    若い頃、マドリードのプラド美術館に行って本物のベラスケスを見て、数年前にも行ってきました。基本的にリアリズムで、例えば宮廷の王女が着ている豪奢な服の質感なんかがものすごく克明にとらえられている。しかし実物を間近に見てみると、実はそんなに緻密に描いているわけじゃないんです。フランドル派の絵なんかとは全然違う。筆触は結構粗くて、ババババッと描いているだけなの。ところが、三メートルぐらい離れて見ると、絹の布地は絹に見えるし、毛皮は毛皮に見える。

北方    それは不思議だよな。

松浦    天才画家の画力ってこれほどすごいのかと思いましたね。ただ、スペインの画家で言うと、僕は北方さんの感性に近いのは、むしろゴヤだと思う。

北方    ゴヤね。近いかもしれないね。

松浦    ゴヤは動乱の画家だし、不吉なもの、不穏で禍々しい画題を扱っているし、アクションもあるし。

北方    ピカソはどうですかね。

松浦    ピカソは、これはね……。ともかく巨大な存在ですよね。

北方    僕は何も知らなくて、ピカソってああいう絵を描く人だと思っていたら、マラガに船倉を美術館にしたような、ピカソの若い頃の絵だけを集めたところがあるんです。これが完全にリアリズムなんだな。

松浦    青の時代なんかそうですよね。ただ、別れた妻や愛人たちが何人も自殺したり精神を病んだりしてるのはやっぱり、人間性に相当問題があったんじゃないかな。

北方    どうだろうな(笑)。

松浦    『冬の眠り』の主人公も一種の天才画家で、みんな絵を見て驚倒するわけですよね。今回の『黄昏のために』の主人公も、技術だけうまくなってもしょうがない、という思いが繰り返し語られて、そこには北方さんの物語に賭ける思いが投影されているのかなと思いました。

北方    そうです。それは小説も同じだと思うな。『冬の眠り』のとき、明確に見えていたのはものを作る時の狂気ですよ。今度の主人公は、狂おうと思っても狂えないわけ。俺は年を取ったら狂えなくなったんだよね。

松浦    あ、そうなのか。

 

北方    『抱影』は映画にもなったんですけれど、この主人公の画家は狂気でも何でもない、ただ単にドロドロに想像と交わって、それがついに暴力にまで行きついて、自分で命を落とすというやつでした。今度のは自身の中にはいろんな自己否定があるんだけど、創造の熱情をどうしても抑えきれずに、描いて描いて描いてしまう画家です。遊んでいるんじゃないかと思いながらデッサンしても、実は遊んでないようにできあがってしまう。そんなものを書いて、自分が小説を書くことに敷衍させて、いろいろ感じたことはありますよ。それが具体的に何かというのは、なかなか言えないんだけど。

松浦    狂気にまでは至り着かないにしても、激しい熱情はある。決して枯れていませんね。底が鮮やかに赤い靴を履いた「蹠から血を流しているような女」に、ちょっと色気が動いたりしてますね、この主人公。

北方    枯れてないです、そっちの方面では。だって、五十代の半ばですからね。でも、性的に枯れていないというのは、相当、小説の内容に影響してくると思うな。

松浦    山に紅葉した葉を集めに行って、火焔茸なんか採ってきますよね。真っ赤な色の不穏な毒茸が混じっていたりするわけで、その辺がやっぱり北方謙三だなと思いました。

北方    それも偶然ですよ。山に行ったら毒茸があって、それを持って帰ってきたというふうに、僕の想像力が動いちゃったんです。意図的なのは、一人の女の子が今にも口にしそうに顔を近づける、その瞬間のことだけ。

松浦    そんな瞬間ばかりが切り取られて、ちりばめられている。

北方    瞬間的なイメージがサーッと際立つ小説と言えば、大江健三郎の初期の短篇だな。『他人の足』とか『飼育』などの大江さんは本当に王道を行く小説家だったと思う。『洪水はわが魂に及び』あたりから、俺には分からなくなってしまった。思想が入ってきたりすると小説が分からなくなるんだと思うな。これは変わったなと思ったのが、『個人的な体験』ですよ。俺が高校生の時だったんだ。

松浦    障害を持って生まれた赤ん坊を死なせてしまうかどうか、それで奔走するあたりはもちろんフィクションだろうけど、自分の人生に起きた事件を大江健三郎が真っ向から描いたのは、あれが最初ですよね。

北方    だと思うな。吉行淳之介は自分のことを書いたようで書いてなかったんですよね。『闇のなかの祝祭』を書いた時、これは宮城まり子とのことを書いて、私小説的なリアリズムに後退したと俺は思った。それまでは三島由紀夫がビックリするようなリアリズムがあったんですよ。

松浦    それで言うと、北方さんにとってリアリズムって何でしょう。〝北方水滸〟にしても『チンギス紀』にしてもものすごくリアルだけど、史実を忠実に再現するリアリズムとは全然違うものを追求されていますよね。

北方    全然違います。歴史小説のこだわりというのはあって、決して説明をしない。描写でする。だから、いちいち何年って書いてないんです。大きな状況を設定して、流れの中で描写していく。例えば観応の擾乱という足利家のものすごい内乱がある。史料を読んでも何がどうなっているか分からないけど、物語で書いてみたら「『道誉なり』を読んで初めてよく分かった」と感想をもらったな。司馬(遼太郎)さんのやり方というのは、われわれが歴史小説を書き始める時の巨大な山だったわけですよ。でも、日本文学の中にはそれとは別の、中里介山だとか柴田錬三郎だとか、いわゆる大衆小説の系譜というのがあって、それが日本人の娯楽だったわけですよね。

松浦    国枝史郎とか、吉川英治も。

北方    そうです。そのほうがより小説的なのではないかという小説観はあります。

松浦    小説家の想像力が歴史的現実の真芯を射抜くことはあるわけですよね。チンギス・カンなんて三十歳くらいまではまったく史料がなくて、実人生はわからないわけでしょう。すべて想像力を駆使して書かれたわけですね。
 北方    チンギス・カンに『史記』を読ませましたからね。

こういう詩は声を出して読むんだ

北方    私は中学生から高校生の頃、詩を書いていたんです。こんな詩人がいるよ、と詩のことをいろいろと教えてくれた先生がいたんです。角田敏郎といって日本近代詩の研究者でした。その先生が転任しちゃったんだ。で、高三の時に文芸部の仲間と小っちゃいガリ版の詩集を作って送ったんです。「なかなかうまいが、手放しで褒められない」と言われましたね。その瞬間に、俺の詩的感性が閉じちゃって、詩を書かなくなった。

松浦    それは罪作りな言動だなあ。志ある少年に先生がそういうことを言うのは。

北方    その時に書いた詩が、志があるかどうかは分からないんだな。「女はもう絵本のように閉じようとしている」とかね。

松浦    その詩集、まだお手元にあるんですか?

北方    それはちゃんと取ってあります。松浦さんになんか絶対見せないけど(笑)。

松浦    僕も中学高校で親しかったのはやっぱり国語の先生でした。友達とお宅に遊びに行ったりしたな。そのうちの一人は葉山修平というペンネームで小説を書いて、直木賞候補にもなった方でした。

北方    僕は未だに詩というのはどういうものか、全然分からないんだけれど、高校生の頃、画家の叔父貴に「おい、学校行くぞ」と、新宿の「酒場學校」という飲み屋に連れていかれたの。中に着物を着たおじさんが居て、それが草野心平なんですよ。

松浦    ああ、そうか。

北方    草野さん、前は「火の車」という店をやっていた。「学校」では焼き鳥の串とか刺していた。「こんなものは学生が食うものじゃないけど食わせてやろう」といって、卵の黄身だけを味噌に漬けて壺に入れたやつを出してくれて。結構うまかったな。「おじさんの詩、教科書に載ってたけど全然面白くないね。るるる、とか書いてあるだけじゃないか」と言ったら、「こういう詩は声を出して読むんだ。そうすると自分のリズムができる」と。

松浦    草野心平と北方謙三に接点があったということか。文学史のエピソードとしては非常に面白い。

北方    文学史といえば、ゴールデン街に「まえだ」という店があったんですよ。

松浦    田中小実昌さんが常連だったところですね。

北方    あそこはサントリーホワイトをキープする。ところが、俺らはレッドしか飲めなかった。レッドが五〇〇円で、ホワイトが七五〇円だけれど、キープするには二〇〇〇円ちょっとかかるんだよ。で、アルバイトして、ようやくホワイトを入れたんだ。チビチビ飲んでいても、少なくなってくるわけ。次に行ったら、ドーンと増えてるんだよ。「お母さんさ、これ、酒がよ」と言ったら、「いいんだよ。気に食わない客がゴロゴロ居やがるからよ」(笑)。

松浦    気風のいい女将さんだったんですね。

北方    俺だけじゃなくて、立松和平と中上健次も、自分の金出して入れたのは一回だけ。あとは飲んでも飲んでも減らないんだよ(笑)。すごくいい店だったな。

イタリアのどこが好きか

北方    ちょっと酒を入れようか。飲みながら松浦さんの旅の話を聞こう。

松浦    いいですね。飲みましょう。

北方    シングルモルト……アイラ。アードベッグ。ソーダ。

松浦    僕もシングルモルトかな。ラフロイグをロックで。

北方    ヨーロッパはよく旅行してるんですか?

松浦    最近はコロナがあり、今は円安がひどいからなかなか行けないでいるんですが、イタリアとか多いですね。とくによかったのは長靴のかかとのほうの……。

北方    長靴のかかと? じゃあバーリだ。バーリから車でタラントに行って、それからレッジョ・ディ・カラブリアへ行って、レッジョ・ディ・カラブリアからフェリーでシチリアのメッシーナに渡る。

松浦    タラントもすごくよかった。レンタカーで回ったことがあるけど、あの辺、いいですよね。レッチェ、オストゥーニ、洞窟住居があるマテラ……。ワインもおいしいし。バローロという濃厚な赤ワインが絶品。

北方    メッシーナからパレルモに向かって走って行くと、パレルモの一〇〇キロぐらい手前にチェファルという町があるんですよ。これがきれいなんだ。

松浦    チェファル、絶壁のきわにある町ですね。

北方    九〇年代の終わりに、盛岡に映画祭で来日したミレーヌ・ドモンジョと飯を食ったことがある。「あなたはイタリアが好きだというけど、どこが好きなの?」と言うんで、「やっぱりシチリアだな」と言ったら、「シチリアのどこ?」。「俺はチェファルという町が好きだ」と言った瞬間に、抱きしめられてキスをされて、「私の別荘がそこにあるの!」と。

松浦    それは素敵! 僕もシチリア島は時間をかけて一周しました。街がみんな山の上に作ってあるから、細い道をクネクネと上っていかなくちゃならないし、その挙げ句、街並みも狭い路地が迷路みたいに入り組んでいて、運転が大変。タイル張りの壮麗な大階段があるカルタジローネとか、それぞれの街に個性がありますね。シチリア、楽しかったなあ。

北方    奥さんと行ったんでしょう。松浦さんの『わたしが行ったさびしい町』で、奥さんと二人でホテルに向かって暗い道を歩いていく場面もよかったな。俺には女房と旅に行くという発想がないから。

松浦    北方さんの奥さんは寂しいんじゃないの? 勝手にホテルに籠もったり、船に乗ったり、やりたい放題なんでしょう。

北方    ただ、娘が二人、孫が三人いて、女房はみんな手なずけてる。だから、俺一人孤立してる。

松浦    孤立というか、自由人として生きているわけだ。

北方    自由にさせてくれてますよ。全収入を女房に渡して、小遣いをもらっているのよ。いろんな女房に言えないことも自由にしているわけですよ。ちょっと大きな買い物をする時はちゃんと買ってくれるから。

 松浦さんは、映画もいっぱい観るでしょう。画家を描いた名画ってありますかね。

松浦    モディリアーニの生涯をジェラール・フィリップが演じた……。

北方    『モンパルナスの灯』。ジェラール・フィリップにビターッとくっついて滅びていくのを見ている画商がいるじゃない。彼の絵は素晴らしいと分かっているのに扱わずに、死んでから買い集める。あれがよかったな。誰だったっけ。

松浦    リノ・ヴァンチュラ。でも、画商という存在を北方さんは、今回の短篇集でも『冬の眠り』でも、あんまりいい人間には描いていませんね。

北方    私は画商を何人も知ってるんですよ。誠実な人は成功しないです。

松浦    僕は全然知らないけど、結構あくどい人がいたりするんですか。

北方    私の友人にも、画商と対立したがために値段がつかなくなっちゃった画家がいます。画商組合が値段をつけるんですよ。私は天才だと思ったけど、個展もできない。あくどいというよりも、自分たちの利権を守るという部分が明確にあると思うな。絵は言葉じゃないけれども、売る時には説明が要るから、画商がタイトルをつけたり解説したりする。どんな言葉でもいい、難しければ難しいほどいいんだよ。

松浦    能書きがつかないと、絵の価値が出ないのかな。

北方    能書きばっかりやっている映画があったな。『美しき諍い女』。ちょっとサドっぽい映画だったけど。最近の映画では『燃ゆる女の肖像』。伯爵夫人を演ったヴァレリア・ゴリノがタイプなんだよ(笑)。それから、『真珠の耳飾りの少女』って映画あるじゃない。

松浦    フェルメールの絵の少女をスカーレット・ヨハンソンが演じている。

北方    スカヨハは『ブーリン家の姉妹』のほうがよかったな。ウディ・アレンが監督した『マッチポイント』もよかった。何せあの人はいつも口を開けていて、何となくそこがいい。あとは、胸のかたちが実にいい。

松浦    具体的ですね(笑)。確かに唇がすごく色っぽい。『ブラック・ウィドウ』というアクション映画のスカヨハもなかなかいいですよ。

北方    『ブーリン家の姉妹』で、スカヨハの姉役が『レオン』の……。

松浦    ナタリー・ポートマン。

北方    そこにスカヨハが来て、後ろから抱き着いて、胸のあたりをまさぐって、「本当にないのね」って(笑)。それと、俺はダリは好きだし天才だと思うけど、一番評価しているのは『アンダルシアの犬』。

松浦    ルイス・ブニュエル。

北方    ブニュエルは観念的なんだけど、天才のダリが入ると、思わずバッと目をつぶっちゃうようなシーンから始まるんだよ。

松浦    剃刀で眼球を切り裂くシーンですね。あれは死んだ牛の目玉を使って撮影したというけれど。

北方    俺は昔、眼科の女医さんと付き合っててね。車を運転しているところで車に電話がかかってきた。「ちょっと緊急手術が入っちゃったから、部屋に行ってて」と言われて、合鍵でガチャッと開けて部屋にあがってシャワーを使って、部屋に置いてある俺のバスローブを着て、さあビールを飲もうと冷蔵庫を開けたら、変なものが入ってるんだよ。目玉が四つ。「うわっ、今のウソ、今のウソ。絶対違う」と思ってもう一回見なおした。

松浦    ホルマリン漬けですか?

北方    豚の目玉ですよ。手術の稽古をする時にそれを使う。戻ってきたから「冷蔵庫に変なものが入ってるぞ」と言ったら、「ああ、あれね」とか言って。別れた男の目玉をくりぬいて保存してたんじゃないかと思った(笑)。

松浦    その話で短篇小説が一つできちゃうんじゃないの。

「言葉をちゃんと見ろ」

北方    中高の頃は、国語教育に恵まれていた。高校生になったらいつも土曜日に友達と、両国の先生の家に行くわけ。グローブとボールを持って。『雨月物語』の「蛇性の婬」とか『春雨物語』の「目ひとつの神」の解析とかをやる。難しいことをやったけど、中身は全部忘れちゃった。中村博保先生といって、やがて静岡大学の教授になって、『上田秋成の研究』という大著を出した研究者です。次男坊で部屋住みだったんだけど、部屋中本だらけで、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』を貸してくれたりした。途中で眠たくなると外へ出て、隅田川の堤防でキャッチボールしてね。先生の家が牛乳屋さんで、牛乳一本飲ませてくれて。

松浦    教える情熱のある先生だったんですね。

北方    まだ若かったし、何かを高校生に伝えたかったんだと思う。あるとき、志賀直哉の「城の崎にて」の解析をやることになった。そのときに言われたのは、「言葉をちゃんと見ろ」。イモリが居たんだよ。それに光がこう当たって、いい色をしていた。石を取ってぶつけると、イモリに当たって動かなくなって、死んでしまった。「『いい』という言葉は何なんだ」と問われて「『いい』って言葉でしょう」と言ったら、「違う。美しいという言葉だ。普通は美しい色をしていたって書くだろう。そう書かない。きれいな色って書くだろう。書かない。『いい色』と書くんだ。『いい』は完全に主観的な言葉だ。だけど、『いい』という言葉を使ってきちんと普遍性を持たせるのが小説の言葉だ」と。

松浦    いい、わるい、という単純な言葉は強いですよね。

北方    高校生だぜ。それだけは覚えた。小説を書くようになってから、「美しい」「きれい」とは書くまいと思った。「いい」と書いて、ちゃんと説得力のあるものを書きたいと。

松浦    まさに、この短篇集の文章がそういう感じですね。自分の等身大に近い男を主人公にして、言葉一つ一つを確かめ直しつつシンプルな文を連ねていく。そういう仕事をされた。で、気息を整えたところで、この後また、大長篇の執筆に入られるわけでしょう。最後にその辺の展望を、ちょっとだけお聞かせください。

北方    文体を固めようと短篇を書いて、緊密に書けるなという手ごたえを感じたので、それなら物語の続きを書こうと。チンギスの孫がクビライで、日本を侵略しようとして元寇が起きる。北条時宗は優等生の中の優等生みたいなやつだけど、その男が孕む狂気を描いたりしながら、「でも、日本人は不屈だった」という話を書こうと思ってます。

松浦    物語はまだ続く、と。

北方    続く。どうやら、死ぬか、病気で書けなくなるまでは続くと思うな。

(四月十八日、銀座、ザ・ライオンズデンにて収録)

きたかた・けんぞう●1947年生まれ。81年『弔鐘はるかなり』で単行本デビュー。主な著書に『眠りなき夜』、『渇きの街』、『破軍の星』、『楊家将』、『水滸伝』(全19巻)、『独り群せず』、『楊令伝』(全15巻)など。2016年「大水滸伝」シリーズ(全51巻)で菊池寛賞を受賞。

まつうら・ひさき●1954年生まれ。主な著書に評論『エッフェル塔試論』・『折口信夫論』・『知の庭園―19世紀パリの空間装置』、小説『あやめ 鰈 ひかがみ』・『半島』、詩集『吃水都市』・『afterward』、評論『明治の表象空間』など。2024年『松浦寿輝全詩集』を刊行。

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