冒頭の〈ハプバ記事〉に面食らい、息をつかせぬその後の展開と筆致にぐいぐいと引き込まれ、本作を一気に読み終えた時、これはまさしく「受胎小説」だったのだ、という驚きに心身が慄いた。本作の語り手である釈華、そして紗花という二人の女性は、ともに受胎を夢見る――しかも、出産や育児という未来を想定しない受胎を。彼女たちの欲望が、小説の構成そのものと共鳴するかたちで読者を捉える時、暴力的なまでの強度を有した読書体験が生まれる。
体感としての〈健常者優位主義〉
第一二八回文學界新人賞、第一六九回芥川賞受賞作『ハンチバック』は、著者である市川沙央が、釈華と同じ筋疾患先天性ミオパチーの当事者であることも大きな話題となった。しかし、障害当事者の声を率直に綴っているとか、健常者のまなざしからは取りこぼされてしまう差別構造をあぶり出しているとか、そういったありふれた定型文で本作を評することは決してできない。もちろん本作に、市川自身の社会的・政治的問題意識が投影されていることはたしかだ。作中には、アラン・コルバンや寺山修司による障害者の身体表象分析をはじめ、米津知子の『モナ・リザ』スプレー事件や、障害者のリプロダクティブ・ヘルス&ライツに関する政治動向への言及などが、各所に散りばめられてもいる。ただ本作の特徴は、そういった問題意識が、一般論としてではなく、常に釈華という一個人の身体の延長線上にあるものとして提示されているという点にある。
たとえば釈華が、当然のごとく〈紙の本〉が前提とされ、それが電子書籍よりも価値の高いもの、正統なものとして受けとめられている読書文化に触れ、〈出版界は健常者優位主義ですよ〉と、大学の講義動画のフォーラムに書き込む場面がある。本来なら「エイブリズム」とすべきところを「マチズモ」としたこのルビ表現が、想定以上に読者に「刺さりにいっている」ことは、荒井裕樹との往復書簡において市川自身が言及するところだが(『文學界』二〇二三年八月号所収)、読者の動揺は、健常者優位主義はマチズモ=男性優位主義と同列の暴力だという主張をその表現に読み取ったこと自体から生じたものではないはずだ。
曲がった首でかろうじて支える重い頭が頭痛を軋ませ、内臓を押し潰しながら屈曲した腰が前傾姿勢のせいで地球との綱引きに負けていく。紙の本を読むたびに私の背骨は少しずつ曲がっていくような気がする。
怒濤の如く畳み掛ける釈華の語りは、〈紙の本〉を手に入れ、開き、その位置を固定し、眺め、ページをめくるという一連の動作が、彼女の身体のあちこちにもたらす文字通りの圧力を、ひとつひとつ克明に拾い上げ、それを読む者の気道をじわじわと締め付ける。釈華の身体感覚とそこに根ざした心情と不可分なものとして、〈健常者優位主義〉を読者に体感させる文学表現の巧みさこそが、本作に凄みを与えている。
この、〈紙の本〉に打ちのめされる場面に負けず劣らず、痰が詰まる苦しみに、吸引カテーテルを喉に開いた穴の最奥まで突っ込む描写なども圧巻だ。けれども、作中で詳細に描き出されるのは、釈華を障害者として特徴づける要素としてのS字に湾曲した背骨や、喉の真ん中に埋め込まれたプラスチックの異物=気管カニューレからもたらされる感覚のみではない。TL小説の際どい場面を執筆すれば、パンティライナーを濡らす。足の間から垂れる赤い糸を認知しては、妊娠しやすい周期を考える。刻一刻と状態が変化する自らの身体と向き合う釈華の語りは赤裸々で、それを追う読者は、彼女の存在を、健常者と対置される障害者として一般化することが困難になる。
実際本作には、ある程度自立的に生活を営むことが可能であり、両親の遺産で裕福かつ安全に暮らす彼女が、性暴力にさらされるリスクを抱えて生きる障害女性、あるいは寝たきりで自力で排泄処理ができない筋疾患女性の身体と、自らの身体との間にあるズレを繊細に感知し、そこからコンプレックスを増幅させていく様子が、丁寧に掬い上げられている。さらに彼女は、〈弱者男性〉を自認するヘルパー・田中さんとの接近により、経済的強者としての自らの側面を改めて認識することにもなる。重要なのは、被介助者である彼女がほんの少し立ち上がった折、自分より身長の低い田中さんを思いがけず物理的に見下ろしてしまう瞬間が、その認識の契機として決定的な役割を果たしていることだ。
釈華の語りを通して映し出されるのは、健常者か障害者か、という粗雑なラベリングを機能不全に陥らせるような、一個人の身体からじくじくと滲み出る焦燥や哀切、諧謔や利己心、そして性的欲望である。
〈涅槃〉のルールの残酷さ
ただし、その語りは、釈華が暮らすグループホーム・イングルサイド内の、互いへの気遣いに満ちたコミュニケーション空間においては、厳格に秘匿されている。それは、読者だけが分け持つことのできる、彼女の「独り言」なのである。夕食時には人々の集まる2階の食堂へ顔を出し、状況を注意深く観察した上で、そこに違和感なく馴染み周囲に安心感を与えるべく、感じの良い応対に終始する。LINE上では、メッセージのラリーを切り上げる際のスタンプにまで気を遣う。釈華は、彼女が生きる優しいコミュニティの構成員に対する〈真面目で寡黙な障害女性〉としての振る舞いを、リアルでもオンラインでも、過剰なまでの誠実さで全うしようとする。
田中さんに〈紗花〉名義のTwitterアカウントを知られたのをきっかけに、彼を買収して〈妊娠と中絶がしてみたい〉という自身の夢を叶えるための行動を開始した後でさえ、釈華が彼に投げかける言葉は、妙に芝居がかっている。田中さんとのオーラルセックスの最中に、釈華の心中に吹き荒れるリズミカルな言葉の嵐は、作中でも突出したユーモアに満ちているが、言うまでもなくその嵐は彼には共有されない。彼に投げかけるにふさわしい台詞を慎重に捻り出そうとするゆえに、身体的な発話の難しさに輪をかけて彼女の口ぶりは重くなり、一方でその「独り言」は激しさを増して加速する。
でも。
最初から何もなかったことにだけはしないでほしい。
田中さんにはもっと邪悪でいてほしい。
『私のことは憎んでくれていいから』
TL、というよりBLみたいな台詞だ。こんなフィクショナルな言葉で生身の男を説得できるとは思えない。
生身の社会的な身体を持てない限界を感じて私はiPhoneを防水シーツの上に放り捨てた。
皮肉なことに、これまでにない他者の身体との粘膜的接触を経験した後、釈華は相手との〈正しい距離感〉にいっそう囚われていくように見える。だからこそ、互いの欲望を共有することによって一瞬だけ揺らいだイングルサイド内のルールが、釈華と田中さんの関係性のなかに、再び頑強に立ち上がってくることになる。すなわち彼女の夢は、やはり〈正しい距離感〉の一表現としての、彼からかけられる〈憐れみ〉によって潰えてしまうのである。
その挫折が描かれた後、唐突に引用される旧約『エゼキエル書』の抜粋――ゴグの叛乱が神の怒りを買う場面――は、L・モンゴメリ『炉辺荘のアン』に登場する陶製の番犬〈ゴグとマゴグ〉のイメージと重なり合い、イングルサイドという〈涅槃〉に清く咲く〈蓮の花〉としての自己像の呪縛から逃れられなかった釈華の生が、ついに変容し崩れゆく瞬間を暗示していると読めるだろうか(このようなイメージの連鎖と広がりの面白さも、本作の大きな魅力である)。だとすればそれは、彼女がそれまで隠し続けていた――しかし私たち読者だけが知っていた――〈蓮の花〉の下に渦巻く〈泥〉の濁流が、堰を切って溢れ出て、〈涅槃〉を飲み込んでいく瞬間にほかならない。
『ハンチバック』という作品はこのように、グループホームというごく小規模なコミュニティにおける人間模様を精緻に描くことで、それを成立させている〈涅槃〉のルールの残酷さをありありと浮かび上がらせる。ただし本作の筆力は、ここで提示されている〈涅槃〉が決して特殊事例ではなく、奇しくもCOVID-19の猛威がそれを物理的に確立した〈正しい距離感〉という美徳のもとに、皆が各々の安全圏に閉じこもることにすっかり慣れてしまった現代社会そのものの縮図にも他ならないことを、否応なく読者に突きつけることに成功しているのである。
「受胎」の夢の意味
さて、文學界新人賞の選評でも評価が分かれた、本作の「*」以後のパートについて考えてみたい。これまで釈華の語りに寄り添ってきた読者は、ここで突如、風俗店で働く女子大生・紗花による語りに接することになる。ここまで綴られてきた釈華の物語は紗花による創作であったという(あるいは逆に、この紗花の物語も釈華による創作であるという)メタフィクションの告白か、パラレルワールドへの推移か、はたまたある種の転生譚への伏線か――。様々に解釈可能なこの謎めいたラストパートが、作品の統一性を揺るがし、読者を戸惑わせるものであることは認めざるを得ない。けれどもここでは、このラストパートこそ、『ハンチバック』という作品を成立させる上で決定的に重要な仕掛けであった、と主張したいと思う。注目すべきは、釈華/紗花の関係性の内実ではなく、ラストパートにおける新たな語り手の登場により、本作のナラティブが複数化されるということ、それ自体である。
紗花は、若く健康な身体と恵まれた容姿を武器に、快楽を謳歌しているかのように見える女性であり、釈華とはその境遇を大きく異にする。彼女は、釈華にとっての羨望の対象となる人物像だと言って良い。それでいて、心中で「独り言」を炸裂させながら、避妊をせずに客とセックスし続ける紗花は、天井のダウンライトの向こうに〈蓮の花〉を幻視しつつ、〈泥の中に真白く輝かしい命の種が落ちてくる〉ことを、ただただ希求している。つまり彼女は、釈華と同種の夢に駆り立てられているのだ。
この紗花の語りが存在することによって、〈妊娠と中絶がしてみたい〉という釈華の夢を、障害者の生殖をタブー視する社会への反抗や、健常者への怨嗟の表現としてのみ捉えるのではない、新たな解釈が浮かび上がってくる。釈華/紗花の夢は、自らの身体という〈泥〉のなかに、胎児=他者を束の間、しかしまるごと取り込んで、何にも妨げられることなくその感覚を共有したいという欲望の表れではないか。そしてその欲望は、彼女たちをつなぐ共通項である、生きるために〈物語〉を紡ぐという行為の原動力でもあるのではないか。ならば、その〈物語〉に追走してきた私たち読者は、いつのまにか、彼女たちの〈泥〉のなかでうごめく胎児となっていたのではないか……
圧倒的な引力でもって、一個人の身体に根ざした〈泥〉の感覚へと読者を引き摺り込む、「受胎小説」としての『ハンチバック』は、〈泥〉から目を背けることで多様性という名の〈涅槃〉に安住する現代人に対する渾身の一撃であり、「当事者文学」の文脈にとどまらず、この時代において文学というものが果たし得る可能性を力強く提示した、稀有な作品であると言えるだろう。その意味で、この度本作が芥川賞を受賞したことに、一読者として大きな喜びを覚える。この受賞を機に、本作がさらに多くの読者を「受胎」し、障害当事者を含む様々な他者との、一見寛容で良識的な〈距離感〉を、その基底から揺るがし解体していく起爆剤となることを望む。
(初出 「文學界」2023年9月号)