- 2024.08.07
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経済学者・浜田宏一氏がいま語るアベノミクスの功罪。「安倍首相も自民党に残る男性優位の考え方から解放されていなかった」
内田 舞,浜田 宏一
内田舞+浜田宏一『うつを生きる 精神科医と患者の対話』(文春新書)より
〈精神疾患も国民経済も正しい治療法はすぐには見つからない。「精神医学と経済政策が似ている」ワケ〉から続く
アベノミクスのブレーンとして知られる経済学者の浜田宏一氏。その活躍の裏側で長らく躁うつ病に苦しんできた。さらに回復の途上、実の息子を自死で亡くす。人生とは何か? ともにアメリカで活躍するハーバード大学医学部准教授で小児精神科医の内田舞氏を聞き手に、その波乱に満ちた半生を語る。7月19日に発売になった『うつを生きる 精神科医と患者の対話』(文春新書)から、精神医学と経済学の相似性について語られた箇所から一部抜粋してお届けします。(全4回の4回目/最初から読む)
◆◆◆
アベノミクスが実現したこと、やり残したこと
浜田 さて、戦後の歴史を見ると、円安だった時期のほうが日本経済は生き生きとしていた。円安でエズラ・ヴォ―ゲルから「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とおそらく揶揄をも含めて言われていた日本の成長経路は、日本の貿易相手、欧米の産業にとってはハンディがきつすぎたと思います。そこで円高を是正しようとして、米・英・独・仏そして日本の代表がニューヨークのプラザ・ホテルに集まり各国の金融政策を変えて円高の体制に変えようとしたのが、「プラザ合意」です。
円高を保つには、日本の金融政策を諸国より引き締め気味に保っていかねばなりません。それに最大限の協力をしようとして、そしてまた1990年に向けて起こったバブルの後遺症を警戒しすぎて、引き締め政策を長く続けて円高に続けたのが、日銀総裁の三重野康、松下康雄、速水優、福井俊彦(彼は金融緩和をかなり効果的に続けたのですが、ゼロ金利解除を急ぎすぎた。しかし最後に引き締めました)、そして白川方明の各総裁です。これらの日本銀行総裁は、変動為替制度の下では為替レートが金融政策で操作可能なことを十分に理解しなかったか、理解していても正しい政策を実行できなかったわけです。日本が貿易立国を続けるのを完全に阻害し、平成時代の「デフレと沈滞の20年間」をもたらしたのです。
この状態から日本経済を救ったのが、「アベノミクス」を実践し、そのために最適任の黒田東彦日銀総裁を指名した安倍晋三首相でした。第二次安倍政権は、2012年末から始まりましたが、そのもっとも成果を上げたのは、新コロナ禍のはじまる2019年の終わりごろまででした。年度から年度で見て400万人以上の新雇用が生まれたことが知られています。ところで、私に都合よく統計を見ますと、四半期とのデータで、第二次安倍政権の初め(2013年、1-3月)からコロナ勃発の前年(2019年、10月-12月)を比較すると、かする程度ではありますが、実は550万人の新雇用を生んだのです。550万人と一言で言いますが、後楽園ドーム満員の収容人数が約5万5000人ですから、その100個分の雇用が生まれたわけです。新卒の就職状況も緩和して、大学教授がゼミの学生の就職先を心配しないでよくなった。これは、人々に幸福感をもたらしたといえないでしょうか。
非正規社員の雇用、とくに女性の雇用はめざましく増えた。しかし、日本の支配層にあたる中年の正社員の給与はあまり上がらなかった。よい教育を受けて、正社員でいる人の方が必ずしも生産性が高いとは限らないので、これも自然なことではありますが。ただ、みんながたくさん働いて外国からの企業収益も高まって、国民総所得(GNI)も増えたけれども、人々が豊かになった感覚がないと言われているのは、雇用が増えてもそれは非正規の部分が多くて賃金があまり上昇しなかったことによります。安倍さんは、為替レートが高すぎて日本企業が国内で生産できない苦しみを、金融緩和と円安で解消しまし、女性を含め非正規の人が増えた。日本の労働市場の民主化を助けたのです。労働者全体の平均賃金はあまり増えなかったのですが。
もっと冒険してアイデアを育てる政策が必要だった
浜田 これはわたくしの反省でもありますが、安倍さんの時代に国民がもっと冒険してアイデアを育て、労働生産性をあげる政策も同時に必要だったんでしょう。各人の得意な点をより伸ばして個性を磨くような教育を普及しなければならなかった。それに、私も2019年の三度目の消費税増税の決断には反対の意見を述べるべきでした。そういった政策の不備もあって、いまも国民に豊かになった感覚がない状態が続いているようなのは残念です。
内田 550万人の新しい雇用というのは歴史的に見ても偉業ですよね。多くの人が働けるようになったことで国全体の生産量や労働生産性も向上し、新卒者の就職の心配も少なくなった。このように日本経済を豊かにしたのは評価されるべきアベノミクスの貢献ではないでしょうか。
浜田 その点を認めないジャーナリズムは間違っています。
内田 日本社会で一人ひとりがそれぞれのユニークな能力を伸ばして冒険ができるような文化が広がることは私も強く願っていますし、先ほど申し上げた通り、私はそれこそが一番長期的に効果のある経済政策なのではないかと思っています。
何が女性の労働を妨げているのか?
内田 ここで、女性の非正規雇用が増えたということについて質問させてください。もちろん雇用はないよりもあった方がいいので、女性の雇用の受け皿が非正規であれ増えたことは良かったということは間違いないでしょう。しかし、日本の女性の労働者の正社員比率が低く、非正規雇用率が高いことは、やはり男性と比較すると考えさせられるところがあります。男性の非正規雇用も同じく増えているものの、正社員における男性比率が圧倒的に高く、この差異は男女間の大きな賃金格差をはじめとする経済的ジェンダーギャップの大きな要因でもあると語られています。
こう考えると、女性の職が増えたことが事実であっても、低賃金で雇われる女性労働者が増えたことは、誰にとっても暮らしやすくなったとは安易に言えないところもあるのではないかと思うのですが、この点はどのようにお考えでしょうか。
浜田 そうですね。現状を見ると本来なら実現されるべき同一労働、同一賃金の姿はかけ離れた形で雇用全体だけ増えたのを喜んでいていいのかが、正しい意味でのアベノミクス批判として残ります。日本女性の貢献度、活躍度を国際的に比較してみても、各先進国に劣るのをどう考えるかというのが、舞さんの指摘でしょう。
ただ、たんなる雇用量の改善、そして女性雇用量の改善も基本的に重要で、その点ではアベノミクスは当時の状況ではよく機能したことは間違いがないのです。とはいえ、理想の労働市場の姿から言えば、日本の労働市場に男女同一賃金、同一能力=同一賃金の原則が成り立つように変えていかねばならないのです。
内田 そのためには具体的にどういった道筋が考えられるのでしょう?
浜田 手始めとして、いまの女性労働の活用を阻害している、税法にある主婦の年収約130万円近くにある共稼ぎの壁を撤廃する必要があります。これはおそらく、女性をなるべき家庭のとどめようという男性本位のイデオロギーに依拠した法制であると思います。つまり、いま共稼ぎの主婦が年106万円、または約130万円を超えて働こうとすると、それ以下で免除されていた社会保障税を支払わなければならなくなっている。これが、非正規労働の女性の一層長く就業しようとする意欲を妨げています。
したがって、この壁がなかったならば、アベノミクスの女性労働増加はもっと顕著であったと考えられるのです。またこの制度の下では、雇用者も、賃金を増やすと税金も増えますよという形で、女性労働者を安く使うインセンティブが生まれるのです。世界的に見ても、日本で職場での女性の活躍度が低いのはこのような制度的条件、税法上のハンディが女性にはあるからです。
「安倍首相も自民党に残る男性優位の考え方から解放されていなかった」
浜田 要するにアベノミクスの円安誘導とそれにともなう量的改善は有効でしたが、そこで男女の本質的な平等を実現するには、より根本的に法制度を含めた質的改善が必要なのです。このような制度的条件が不備であり、自民党にまだ残る男性優位の考え方から安倍首相も全く解放されていなかったのです。そのあたりにアベノミクスに対する世間の関心が冷えている理由があるのかもしれません。そして以上のことは、アドバイザーとしてのわたくしの自己反省であり、将来に向けては現岸田政権に対する要望でもあります。
内田 アベノミクスが実現した成果は大きいけれども、同時に浜田さんとしてはやり残したと思われる点もあるのですね。日本政府に残る男性優位的な価値観にも踏み込んで具体的に発言してくださってありがとうございます。きっと読者の方もこの箇所を読んでハッとされるのではないかと思います。
男性優位な価値観が自民党政治に留まらず日本社会全体において揺るがないこと、まさにそこが最後の砦だと私もアメリカにいてもどかしく感じるところなのですが、その砦を崩すには日本にどういったことが求められると考えられていますか。
浜田 まずは、日本のように学歴がいいだけで会社にいつまでも勤めていられる制度は、日本経済の成長阻害要因です。男女それぞれの能率の良さで賃金は払われなければなりません。
安倍さんはわたくしとの対談で、安倍家で初めは夫が60万の月給をもらっていたのに、妻が月給10万円で働けるようになったという事態を提起しています。家計は(したがって国民経済も)総合的に改善します。正規雇用と非正規雇用を分ける市場は問題がありますが、失業がなくなるのが第一で、雇用を増やすことにより国民全体が豊かになったことは確かです。そこからさらに男女均等にするには、別の努力が必要ですね。
「女性の働き方」の問題は男性の問題でもある
内田 私がハーバードの研修医だった頃、指導医から「研修医として果たすべき責任は全員同じで、そして休む権利も同じようにある」と言われたことを思い出します。男性でも女性でも同じ責任を果たす機会が与えられ、果たした責任が同じであれば、同じ給与と待遇を得られるべきでしょう。
また、責任という点で、日本では女性が家事育児を担う時間が男性の5.5倍であるという調査が発表されました。家事育児という誰かがやらなければならない無償労働の責任と評価に不均衡があることも含めて、ジェンダー不平等問題は法や政策を使ったアプローチと同時に、教育や啓発による意識のアップデートも国全体で必要な状況だと感じます。
浜田さんがいい学歴さえあれば会社にずっと勤めていられる日本の労働システムの問題点を挙げられましたが、学歴一つとっても、女の子は男の子に比べて進学を期待されない無意識のバイアスがあったり、あるいは近年露呈したように、医学部入試では男性と同じ点数を取っても女性が入学できないような仕組みも暗黙裡に残されています。あるいは就職してからも、男女に寄せられる期待度には依然として開きがあり、同じ企業の中で学歴も実力も同等かそれ以上であっても、男性に比べて昇進がまわってこないような構造的差別のなかで女性たちは生きています。
また、こういった労働に関わるイシューは「女性の働き方の問題」として扱われがちですが、女性が働きにくい労働環境というのは実は男性をも苦しめているものだと思います。例えば、医学部入試の女性差別問題が発覚した際に、多くの医師が「出産する女性医師が欠けることで病棟は破綻するから、なるべく女性を医師にさせない施策は必要だ」と語りました。
こういった意見を聞いて、私は女性差別は他の問題、具体的には長時間労働の隠れ蓑にされていると思いました。病気や怪我は誰に起こるかわからないし、あるいは休暇は誰でも必要なのに、一人でも欠けたら破綻するほど過酷な職場での長時間労働が当たり前とされていること自体がそもそも問題だと思います。そしてその前提が男性には自明のこととされていていることもまた問題だと思ったのです。医師の過労死や自死率は男女ともに他の職種よりも高いことも考えると、ジェンダーに目が行きがちな話題ですが、同時に根幹にはもっと根深い問題も潜んでいるのですよね。
税制のことも、雇用のことも、全て個人の生活や社会のあり方にまで直接影響することであり、あらゆる角度からのアプローチが必要なのかと思います。
浜田 そうですね。そのためにも、まずは雇用を増やし、次にその雇用の条件や内容を吟味する、などと手を付けられる問題を一つずつこなしていくことが大切ですね。このようにどうしたら国民を豊かにしたらよいかに頭を使っていると、自分がうつ病であるということを忘れてしまうわけですね。
内田舞(うちだ・まい)小児精神科医、ハーバード大学医学部准教授、マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長、3児の母。2007年北海道大学医学部卒、2011年イェール大学精神科研修終了、2013年ハーバード大学・マサチューセッツ総合病院小児精神科研修修了。著書に『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る』(文春新書)、『REAPPRAISAL 最先端脳科学が導く不安や恐怖を和らげる方法』(実業之日本社)、『まいにちメンタル危機の処方箋』(大和書房)。
浜田宏一(はまだ・こういち)1936年生まれ。元内閣官房参与、イェ―ル大学タンテックス名誉教授、東京大学名誉教授。専攻は国際金融論、ゲーム理論。アベノミクスのブレーンとして知られる。主な著作に『経済成長と国際資本移動』、『金融政策と銀行行動』(岩田一政との共著、エコノミスト賞、ともに東洋経済新報社)、『エール大学の書斎から』(NTT出版)、『アメリカは日本経済の復活を知っている』(講談社)ほか。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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