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『ナースの卯月に視えるもの2 絆をつなぐ』第1話無料公開

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

ナースの卯月に視えるもの2

秋谷りんこ

ナースの卯月に視えるもの2

秋谷りんこ

くわしく
見る

大人気シリーズ第二弾『ナースの卯月に視えるもの2 絆をつなぐ』の第1話を無料公開!

完治の望めない患者が集う長期療養型病棟に勤める看護師・卯月咲笑。彼女は患者の思い残しているものが視える、という不思議な力を持っている。ある日、皆の頼りになる師長・香坂さんの背後に、見知らぬ男性の姿が浮かんでいて――


1 会いたい人がいる夜に

 パリッとした白衣に袖を通す。ロッカーの鏡をのぞき、髪を耳にかけてピンでとめる。清潔な白衣には、着ている者の心持ちをかえる力があると思う。気持ちがしゃんとするし、背筋が伸びる。

 ほかの看護師たちもみんなこの更衣室で着替えて、ひとりの人間から看護師になっていく。

 月曜の朝、さあこれから日勤勤務だ。毎週月曜日は教授回診があって、薬や治療方針の変更が多いから、ほかの曜日より忙しくなる。

 よし、と小さく声に出し、気合を入れた。

 私の働く青葉総合病院は横浜市の郊外にあり、このあたりでは一番大きな病院だ。入院病棟と外来があり、救命救急センターもあるし、手術の設備も充実している。訪問看護ステーションも併設されているから、地域との連携もしっかりしている。横浜駅から電車で三十分くらいのところにあり、周囲には自然も多い。

「おはようございまーす」

 数個離れたロッカーに後輩の山吹奏が来た。大福みたいにふっくらした白い頬に、栗色のボブヘアが似合っている。

「卯月さん、今日仕事なんですね。大学院って週に何日くらいあるんでしたっけ?」

 鮮やかなオレンジ色のブラウスを脱ぎながら聞いてくる。

「週に二日くらいなんだけど、二年生になったから課題がすごい増えるらしいんだよね。それが大変そう」

「やっぱり専門看護師への道は楽じゃないですか」

「まあね。でも仕事をパートにしてもらえたからまだ良かったかも。フルタイムじゃきつかったな」

「卯月さん、八年目ですよね。ちゃんと自分の進路決めててえらいですよね。私ももう五年目だから、今後のこと考えないと」

 そう言いながらスマホを取り出して、画面を眺めている。あからさまににやけた顔だ。

「なに、どうしたの。ご機嫌?」

「今日は私めっちゃ元気なんで、卯月さんの分も頑張って働いちゃいますよ~」

 山吹が腕を曲げて筋肉を見せるポーズをとる。

「テンション高いじゃん」

 いつもハツラツとした子だけれど、今日は特に楽しそうに見える。

「ふふふ。そうっすか?」

 にやにやと笑って、後輩はてきぱきと着替えた。

 

 朝の引き継ぎの前に、電子カルテで患者の状態を把握しておく。山吹も隣で、真剣な顔をして記録を読んでいる。

 更衣室では何やらにやにやしていたが、ナースステーションにくれば表情は引き締まる。二、三年前まで初々しさの残っていた彼女も、今では病棟の頼れる存在だ。

 私が勤める長期療養型病棟は、急性期を脱してからの療養に特化した病棟だ。在宅に向けてリハビリをしている人もいるけれど、病棟で亡くなる患者も多い。

 死亡退院率、つまり病棟で亡くなる患者が、一般的な病棟では八%程度なのに対し、この病棟は四十%と言われている。さまざまな疾患の患者がいて、リハビリに取り組む人もいれば、亡くなる人も多い。

「うん、うん……で、根拠は?」

 少し離れたところの会話が聞こえてくる。

 長い髪をポニーテールに結って、きりっとした表情の遠野華湖。三年目で、プリセプターをやっている。向かい合っているのは、ショートカットでたぬきのような愛らしい顔をした新人の北口真央美だ。

 新人看護師は、最初の三ヵ月、プリセプターと呼ばれる教育係の看護師にぴったりとくっついて、指導を受けながら独り立ちを目指す。プリセプターの子という意味で、プリ子と呼ばれるのが一般的だ。看護師の新人教育にはプリセプター制度が導入されている病院が多い。

 新人教育を通じてプリセプター自身の成長を促す仕組みにもなっているから、三年目から五年目の看護師に任される。

「えっと、根拠は……」

 気づまりな沈黙が流れる。

「根拠がわからないなら、その処置をやらせるわけにはいかないよ」

「……はい」

「今日やるってわかってたのに、なんで勉強してこなかったの? 処置の時間までにちゃんと調べてね」

「根拠は?」という質問は、看護学生と新人看護師が一番聞かれる言葉であり、一番怖がる質問だ。

 患者への処置や治療が必要な“医学的理由”をしっかり理解していないと事故につながる可能性がある。しかし、答えられない学生や新人はけっこう多い。

「遠野、後輩の間で“根拠の鬼”って呼ばれてるらしいですよ」

 記録を見ていた山吹が、ぼそっと私に耳打ちする。

「根拠の鬼?」

「なんにでも、根拠根拠ってうるさいからって」

 山吹は少しだけ笑った。

「でも、必要なことでしょう」

「はい。だから、みんな遠野には直接口答えできないんですよ。ど正論だから。それで、陰口ですよ」

 あいかわらず山吹は情報通である。三年目の遠野への陰口を五年目の山吹が知るのは難しそうなものだが、にこにこしながら「それで? それで?」と後輩のふところにもぐる山吹の顔が目に浮かぶ。思わず苦笑した。後輩たちにとって、山吹は話しやすい先輩なのだろう。

「根拠の鬼、ねえ……」

 わからなくはない。後輩にしてみれば、遠野は口うるさいのだろう。でも、どうして根拠を知る必要があるのか、毎回ちゃんと確認してくれる先輩がいかにありがたいか、自分が年数を重ねるとわかってくるはずだ。

 ちらりと見ると、北口はうつむいてしょげていた。あとで声をかけてみよう。

 

「おはようございます」

 主任の御子柴匠さんがナースステーションに入ってくる。

 病棟唯一の男性看護師で、すらりと長い手足にぴしっと白衣を着こなしている。どんなときでも冷静で、クールなイケメン。患者さんにもご家族にも、そして同じ看護師にもファンが多い。本気で狙っている人がいるかどうかは知らないけれど、あいにく既婚者で、最近赤ちゃんが生まれたばかりの新米パパである。

「今日もみんなよろしくね」

 つづけて、病棟看護師の中で一番の上司である看護師長の香坂椿さんがきた。雑談がぴたっと止み、空気が一瞬でぴりっとする。きつくひっつめた髪とつりあがった目元から、顔を見るとどうしても緊張してしまう。そして実際、現場でもかなり厳しい。でも、ここぞというときは力になってくれる頼れる人だ。

 私も挨拶をしながら香坂さんを見る。

 そのとき、いつもはない光景にぎょっとした。

 香坂さんのすぐ後ろに、ぴったりとくっついている男の人がいる。

 新しい職員が病棟見学に来たのだろうか。

 見学にしては、場違いなほど寄り添っている。何者だろう。

 いぶかしがりながらまわりを見ても、誰もその男性のことを気にしていない。

 思わずじっと見る。四十代くらいで、髪はぼさぼさ。陽に焼けた肌にTシャツというラフな服装は看護師には見えない。そこで私ははっと口元をおさえた。

 その男性は、うっすら透けている。

「思い残し」だ……。

 視るのは、二年ぶりくらいか。

「思い残し」は、私にしか視えない不思議な存在。患者さんが心残りに思っていること、受け入れられないものがうっすら透けて現れる。

「卯月さん、引き継ぎ始まりますよ」

 山吹に声をかけられて、あわてて「思い残し」から目をそらす。

「ごめん、ごめん」

 夜勤の看護師が引き継ぎを始める。それでも香坂さんのことが気になって仕方なかった。なぜなら「思い残し」は、患者さんが自分の死を意識したときに現れていたから。香坂さんのように健康で働いている人に視えたのは初めてだ。

 もしや、香坂さんも自分の命に何かしらの異変を感じているのか……。どこか体が悪いということだろうか。

「……ということなので、ここは先生に確認しておいてください」

 危ない。夜勤看護師の言っていることを聞き逃しそうになった。「思い残し」は気になるけれど、目の前の仕事に集中しなければならない。意識を切り替えて、私はしっかりメモをとった。

 

 血圧計、体温計、パルスオキシメーターなど必要なものをカートにのせて、廊下を早足で歩く。まずは、今日の担当患者さんのひとり、繁森菊代さんの部屋へ入った。九十八歳の女性で、慢性的な心不全で入院している。

「えっと、どなたさまだったかしら」

 小柄な体にかわいらしい花柄のパジャマを着ている。髪は白髪交じりだけれど、艶があってきれいだ。

「看護師の卯月です。今日の担当なので、よろしくお願いしますね」

 鼻のカニューレから流れている酸素の量を確認しながら挨拶をする。

「ああ、看護師さんね。卯月さん。こちらこそ、よろしくお願いします」

 ゆっくり頭をさげるしぐさは上品で、誰にでも言葉遣いが丁寧。いつもにこやかで、こんな風に年を重ねられたらすてきだなあと思う。

 バイタルサインを測定する。発熱はなく、血圧も安定している。

 ただ心不全の状態はあまり良くなく、年齢的にももう改善は見込めない。少し動くと、呼吸が苦しくなってしまう。繁森さんは、酸素を吸いながら、残された時間をできるだけ穏やかに過ごす時期にいる。軽い認知症はあるものの、ご自分の病状は理解できている。それでも、取り乱したり落ち込んだりはしていない。

「今日もいいお天気ですよ」

 繁森さんのベッドからは外がよく見える。病院の前の街路樹に陽光が注ぎ、きらきらと光っていた。

「本当ね。初夏って、いい季節よね」

 九十八年生きるとどんな気持ちなのか、私にはまだわからない。

「何かありましたら、ナースコールしてくださいね」

 声をかけてベッドを離れる。繁森さんは、遠い記憶に思いをはせるような表情で、窓の外を眺めていた。

 

 お昼の時間になり休憩室に行くと、新人の北口がテーブルでひとり背中を丸めていた。

「おつかれ」

 私が部屋に入ってきたことに気づいていなかったらしく、ひどく驚いた様子で顔をあげた。

「あ! 卯月さん、お昼お先です」

 おにぎりをほおばりながら参考書を見ていた。すでに空の包装フィルムが三袋散らばっている。

「勉強中? えらいね!」

「ああ、ありがとうございます。朝の引き継ぎのときに、遠野さんに怒られちゃったので……」

「何かの処置って言ってたね。何がわからなかったの?」

「えっと……今日、三〇三号の岡田さんの尿道カテーテルを交換するんです。それで、カテーテルが留置されている根拠はわかったし、手技は勉強してきました。でも、二日前から尿量の測定が『一日一回』から『三時間に一回』に増えていて……その増えた根拠がわからないんです……」

「ああ、岡田さんの尿量測定か」

 私はバッグからおにぎりを、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り、北口の向かいに座った。岡田さんは四十代の女性で、下半身の麻痺があり自分で排尿ができないため、尿道カテーテルと呼ばれる尿を出す管が留置されている。そして、腎疾患をもっている。

 ちらっと見ると、北口は下半身麻痺の病気について読み直しているようだ。でも、慢性腎疾患の合併のほうに目を向けないと、尿量測定の根拠にはたどりつけない。

 何かアドバイスをするべきか……と逡巡していると、遠野が休憩室に入ってきた。売店までお昼ごはんを買いに行っていたようだ。

「あ、遠野さん。これ見てるんですけど、やっぱりわからないです……」

 北口が弱々しい声で遠野に参考書を見せた。

「あ~、そうね。それじゃ、わかんないよ」

 遠野は北口の隣に腰をおろし、袋からサンドイッチと缶コーヒーを取り出す。

「あのさ、北口は岡田さんのこと“下半身麻痺の人”っていう見方してる?」

 遠野は言い方がはっきりしている。ちょっと怖いかもしれない。でも、言いたいことが私にはわかった。

「患者さんって、疾患別のケアは当然考えなきゃいけないんだけど、ひとりの人間として、すみからすみまでしっかり同時に見なきゃいけないんだよ。下半身麻痺だけにこだわってると、ほかのことが見えなくなっちゃう。ちゃんと現病歴とか、既往歴とか、合併症とか、内服薬とか……そういうことをトータルで見ないと、患者さんの全体像はつかめないんだよ」

 プリセプターと新人のやりとりを、「うんうん、そのとおり」と内心でうなずきながら聞いている。ひとつの病気だけを見ていては視野が狭くなり、良い看護にはつながらない。

「全体像……ですか」

「そうだよ。“下半身麻痺の人”じゃなくて、“岡田さん自身”を見なきゃ」

 北口は、眉を八の字にして考えこんだ。

 医者は病気をみるけれど、看護師は人をみる……とは、よく言われることである。

「あとで岡田さんのカルテ見直してね。今はとりあえず、ちゃんとごはん食べよう」

「……はい」

 北口は参考書をしまって、おにぎりをもぐもぐした。

 “根拠の鬼”も、心まで鬼ではないようだ。

 あまりに厳しいことしか言わないようなら少し声をかけたほうがいいかな、と思ったけれど、今は二人の関係性にまかせよう。

 缶コーヒーをかたむける遠野としょんぼりした顔でおにぎりをほおばる北口の背後には、大きな窓がある。若い二人が、初夏のまぶしい光にさんさんと照らされていた。

 

 午後の面会時間になると、病棟がにわかににぎやかになる。病室で意識のない患者さんに話しかけるご家族、自分では動けない患者さんを車椅子に乗せて談話室から外を眺めるご家族。会社の同僚が来てくれる患者さんもいれば、なかなか会えない遠い親戚が面会に来ることもある。

 入院している患者さん自身はひとりだけれど、そこから枝葉のように人間関係が伸びていくのをいつも想像する。ドラマや映画の人物相関図よりも、実際の世界はもっとずっと複雑で、入り組んでいるのだろう。

 その人が生きてきた人生のぶんだけ、人との関係は網の目のように遠くまで届いている。

 ひとりで生きている人など、いないのだ。

 

「卯月さん、こんにちは」

 繁森さんの体の向きを変えていると、部屋にひ孫の桃ちゃんが来た。

 曾祖母にあたる繁森さんのことが大好きらしく、しょっちゅう面会に来ている。低い位置に結ったツインテールがつやつやしていて、スカートからは健康的な足がすらっと伸びている。たしか小学三年生といっていた。ひとなつこい笑顔のかわいい女の子で、ナースステーションの人気者だ。

「こんにちは。学校は終わったの?」

「はい。大ばあば! 来たよ~」

「おお、桃ちゃん。よく来たねえ」

 嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして繁森さんがゆっくり体を起こす。私はベッドの角度を変えて、クッションをはさんで背もたれにした。

 桃ちゃんのお母さんも部屋へきて、私に会釈をする。

「ねえ、大ばあば。来週バレエの発表会があるの! ママに動画とってもらうから、みてね!」

「もちろんだよ。楽しみだねえ」

 幼いひ孫の手を握り、瞳は喜びに満ちている。桃ちゃんも、はじけるような笑顔を見せた。

「ステップ褒められたんだ」

 こんなかんじでね、とベッドサイドで軽く踊って見せている。繁森さんは、

「じょうず、じょうず」

 と手をたたいた。

 繁森さんから伸びた枝葉のひとつが、こんなにも若くて明るい命へとつながっているのだ。

 

「卯月さん、今日忙しいですか?」

 日勤を終えて更衣室まで歩いているとき、山吹が声をかけてきた。

「いや、忙しくないよ。ちょうど大学院の課題が一段落したし」

「よっちゃん寿司いきません?」

「お、いいね」

 病院から歩いて十五分ほどのところにあるよっちゃん寿司は、私たちのお気にいりのお店だ。店先に大きな水槽があって、よっちゃんという名前のサメがいる。

 着替えて病院を出ると、五月の清々しい風が髪を撫でる。どこからか花のような甘い香りがして、思わず大きく息を吸った。

 お寿司屋さんの店内は、あいかわらず清潔で活気がある。「いらっしゃーい」という板前さんの威勢のいい声が響いている。

 山吹とカウンターに座った。

「あ、タッチパネルで注文ができるようになってますよ」

「ほんとだ」

 よっちゃん寿司は回転寿司だけれど、レーンの中に板前さんがいる。流れてくるお寿司を食べてもいいし、その場で注文して握ってもらうこともできる。少し前までは注文用紙が置いてあったが、それがタッチパネルになっていた。

「卯月さん、何食べます?」

「うーん、とりあえずビール。あと、ホタテ、甘えび、あじ」

「いいですね~。私もビール飲も」

 山吹が注文を終える。すぐに板前さんが、

「はい、まずビールね!」

 とジョッキをカウンターに置いてくれた。

「ありがとうございます」

 受け取って、私たちは乾杯をした。

 爽やかな炭酸の刺激が心地よく、ほどよい苦味が口に広がる。よく冷えていておいしい。濃厚さを売りにしているものより、のど越しのいいビールのほうが好きだ。仕事のあとなら、なおさら。

「それで……今日卯月さんをごはんに誘ったのは、理由があるんですけど」

 口ひげのようなビールの泡を舌でなめながら、山吹が珍しくもじもじと肩をくねらせている。

「え、どうしたの?」

 山吹とごはんに行くことなんて、珍しくもなんともない。いつも理由なく一緒に食事をするし、飲みにも行く。今日に限ってどうしたのだろう。

「実は……」

 真剣な顔をしてもったいぶってみせる。

「彼氏ができました~!」

 そう言って、破顔した。

「おお! よかったじゃん」

 そうか、だから今日の山吹はご機嫌だったのか。

「それを卯月さんに報告したくって」

 にやにやを通り越して、でれでれした顔をしている。

「やったじゃん。おめでとう! のろけ話、いくらでも聞くよ」

「もお! 卯月さん最高です!」

 顔を見合わせて笑いながら、私たちはふたたび乾杯をした。

「この前、浅桜さんの結婚式あったじゃないですか」

 浅桜唯は同じ病棟にいた看護師で、去年結婚するために地元の北海道に帰った。三月に休みをとって、山吹と一緒に挙式に参列してきたばかりだ。

「あのとき、浅桜さんの後輩の男性看護師がいたんですよ。そんで、話してみたら私と同じ年で、しかも普段は都内の病院で働いているって話で!」

 一緒に参列したはずなのに、山吹はいつの間にそんな男の子と仲良くなったのだろう。ぜんぜん気づかなかった。

「連絡先交換して、こっち戻ってから会うようになって」

 デートを重ねて、つい先日正式にお付き合いを申し込まれたらしい。

「……もう胸がいっぱいでお寿司が喉を通らないです~」

 と言いながらいくら軍艦をもりもり食べる山吹を見て、私までにやけてしまう。ふと千波と一緒に過ごした日々を思い出し、懐かしくあたたかい気持ちになる。

 彼女には、もう会えないのだけれど……。

 彼氏は「いっちゃん」というらしい。都内の病院の整形外科の看護師。背はそんなに高くないけど笑顔がかわいいところが最高で、山吹のことは「かなちゃん」と呼んでくれる。色白なこととクセッ毛がコンプレックスで、山吹はその両方とも好きだそうだ。ちょっと頼りない感じもするけれど、子犬みたいで放っておけないらしい。

 私は、式にいたはずのいっちゃんを思い出そうとするけれど、まったく記憶になかった。それでも、山吹の話でずいぶんと彼のことを知ることができた気がする。

「そういえば、本木も元気そうでよかったですよね」

 思う存分かたりつくしたのか、山吹がふと言う。

「本当にね。いまの仕事楽しいみたいでよかったよ」

 本木あずさは浅桜のプリ子だった看護師で、数ヵ月間同じ病棟で働いていた。仕事がつらくなってしまい、一年目の夏頃に辞めて北海道の実家へ帰ったのだ。少し休んでから近所のクリニックで働きはじめたと聞いていたけれど、浅桜の結婚式の二次会で、辞めてから初めて会えた。すっかり元気で、ずいぶん明るくなっていた。自分らしく働ける環境をみつけられたようだ。

「あ、そうか。私がいっちゃんをぜんぜん覚えてないのは、本木としゃべってたからか」

 本木とゆっくり話しているとき、たしか山吹がいない時間があった。あのときに、めぼしい男の子と連絡先の交換をしていたに違いない。

「ふふふ。私はつねに出会いを求めているのです!」

 山吹がえらそうに胸を張った。私はビールを吹きだす。二人でまた笑った。何にせよ、山吹にいい人ができたのは良かった。

 ふと、香坂師長にぴったりくっついていた男の人を思い出す。今日の仕事中、あの「思い残し」はずっと香坂さんの背後にいた。仕事に支障をきたさないために、なるべく気にしないよう努めていたが、いったい誰なのだろう。

 お腹いっぱい食べて、山吹と並んで歩く。通りの家の庭の木に、小さな白い花が溢れるように咲いている。

「さっき、なんかいい匂いすると思ったんだけど、この花かも」

 顔を寄せると、濃厚な甘い香りがした。

「かわいい花ですね。ほんとだ、いい香り。なんていう花ですかね」

 山吹がスマホで撮影して、アプリで検索する。

「ハゴロモジャスミンですって。あ、ジャスミンっていろんな種類があるんですね。意外と知らないもんだな」

「へえ、知らなかった」

 恋に満たされている山吹を祝福するように、甘い香りの花々が月明りに白く光ってみえた。

 

 家に帰って、ソファに横になる。テレビ台に飾った写真の中で、千波が笑っている。

「山吹に彼氏ができたらしいよ」

 返事のない思い人に声をかける。

「自分の好きな人が自分のことを好きになるって、すごいことだよね」

 千波がいない、ということを私は五年経った今でもまだうまく受け入れられない。でも、慟哭するような深い悲しみが訪れることは減ってきた。時間が解決してくれることもあるのだろう。

「もし私に新しく好きな人ができたら、どう思う?」

 会えない寂しさが消えることはないけれど、それでも私は生きていかなければならない。大好きな千波に恥ずかしくない人間でありたい。そう思うことで、以前より前を向けている気がする。

 

 談話室から朝日が差しこんでいる。まぶしさに目を細め、あくびをかみころす。大学院の講義の翌日はいつもより眠い。

 ナースステーションで記録を読んでいると、

「え、調べてこなかったの?」

 という強い口調が聞こえた。ちら、と見るとナースステーションの端で遠野が腕を組んで立っていて、その向かいにはしょんぼりした顔の北口がいた。

「岡田さんに処方されている薬、全部調べるように言ったよね?」

「……はい」

「じゃ、これは何の薬?」

 遠野はそうとうイライラしているようだ。

「……わかりません」

「わかりませんじゃなくて、そこに薬辞典あるから調べて」

「あ、はい」

 棚にある本を北口があわてて取り出している。

「えっと……利尿剤……です」

「でしょ? じゃ、なんで岡田さんに利尿剤が使われているの?」

 北口は黙って、首をかしげながら薬辞典を見つめる。

「それには載ってない」

 遠野がぴしゃりと言う。

「この前、一緒に現病歴と既往歴、確認したよね?」

「……はい」

「何の合併があったか、覚えてる?」

「……えっと、えっと」

 北口は、怒られて動揺しているようで、口をぱくぱくさせている。

 はあー……と遠野の大きなため息が聞こえた。

 岡田さんは、下半身麻痺のほかに慢性腎疾患を合併している。最近むくみがひどくなっていて、新しく利尿剤が開始された。だから、薬の正確な効果を知るために以前より細かい尿量測定が必要になっている。遠野は、北口自身が自分でその答えにたどりつけるよう指導しているのだろう。

 そこへ、夜勤の看護師がやってくる。

「引き継ぎ始まるよ」

 私はそっと声をかける。

「あ、はい。すみません」

 二人はさっとデスクのほうに戻ってきた。

「今日、繁森さんのご家族との面談の予定です。卯月さん入れますよね?」

「はい、私入ります」

 事前に記録を見て確認していた。繁森さんの心不全の状態が良くない。そのことで今日、担当医とご家族が面談することになっていて、私も一緒に話を聞く予定だ。

 先生と患者さんやご家族が面談をするとき、看護師は一緒に入れないことも多い。あとからカルテで確認したり、先生から話を聞いたりして面談の結果を把握することになる。

 でも、今日の話し合いは、繁森さんの今後をどうするか、という非常に大事な面談だ。心不全がこのまま悪化していったときに、延命治療をどこまでやるか、という重要な決断をする日。

 繁森さんご自身は、もう何もしなくていい、と以前からはっきり言っていた。ご家族も、同じ気持ちだと聞いてはいる。しかし、あらためて確認されると迷う家族も多い。そのために、しっかり話し合って記録に残しておくことが大事なのだ。

 

 繁森さんのお部屋へ行く。穏やかな顔で、すやすやと眠っていた。

「失礼しますね」

 小さな声で話しかけながら、血圧や熱をはかった。足もとの布団をそっとはぐ。毛糸の靴下に包まれた足が、むくんでぼってりと重い。そっと靴下を脱がせて皮膚を観察する。触ると、指先が少し冷たい。慢性心不全は末梢の血流が悪くなるから、冷えることが多い。あとでクリームを塗ってマッサージをしよう。

 靴下をはかせてから、褥瘡と呼ばれる、いわゆる床ずれをおこさないよう足の下にクッションをはさんで、布団をかけた。

「んん……そういちろうさん?」

 ベッドの上で繁森さんが何か言った。顔をのぞくと、うっすら目を開けている。

「おはようございます。看護師の卯月です」

「ああ、看護師さんでしたか。おはようございます」

「今日、午後からご家族いらっしゃいますからね」

「そうだったわね」

 品のあるご婦人は、ふいに視線を天井に向けた。

「宗一郎さんに会った気がしたのよ。夢を見ていたみたい」

 繁森さんの旦那さんの名前だ。とても仲の良い夫婦だったらしい。もう二十年以上前に他界している。

「ねえ、看護師さん。走馬灯って、本当にあるのかしら」

「走馬灯、ですか?」

「そう。死ぬときになったら、人生を振り返るように走馬灯が見えるっていうじゃないですか。もし、走馬灯があるのなら、宗一郎さんと出会った瞬間のことを絶対に思い出すと思うんです」

 懐かしむような微笑みは、穏やかでやさしい。

「素敵な思い出なんですね」

「ええ。あと、息子が生まれたときのこと。孫が生まれたときのこと。そして、ひ孫が生まれたときのこと。どの子たちも、全員私の宝物だわ……」

 静かに言うと、またすやすやと眠りはじめた。

 私は肩に布団をかけ直し、部屋を出た。

 

 面談には、繁森さんの息子夫婦とその長男が来ていた。繁森さんが九十八歳なので、息子夫婦は七十代で、孫は四十代。この孫が、桃ちゃんのお父さんだ。息子さんもお孫さんも銀行関係の仕事をしているらしく、しわのないスーツや清潔な髪形から真面目さが滲み出ている。

「菊代さんの今後のことですが」

 短髪の痩せた担当医が、今後予測される経過を説明している。端的に言ってしまえば「あまり長くないけど、最期はどうしますか?」ということを、わかりやすく丁寧に伝えていく。表情の乏しい医者だけれど、言葉の端々からご家族の感情を尊重する姿勢がうかがえて、私は好感をもった。

 ご家族は何度か聞いた話だからか、動揺しているようには見えない。真剣な顔をして先生の話を聞いていた。

「母さんは、私たちにとって実に素晴らしい母親です。最期は、なるべく苦しくないように、自然なままお見送りしたいと思っています」

 息子さんが、噛み締めるような口調で話す。隣で奥さんはうなずき、孫は膝の上で握った手にぎゅっと力をこめていた。

「では、蘇生措置は何も行わない方針でよろしいですね」

「はい。よろしくお願いします」

 担当医が確認し、カルテに記入する。私も、看護記録にそのむね記載した。

「DNARで決定?」

 面談を終えてナースステーションに戻ると、香坂師長から声をかけられた。

 DNAR。Do Not Attempt Resuscitationの略で、日本語では「蘇生措置拒否」と言われる。終末期医療において心停止状態になったとき、昇圧剤や心臓マッサージ、気管挿管、人工呼吸器の装着など蘇生法をおこなわないことをさす。

「はい。決まりました。看護記録にもあらためて明記しておきます」

「よろしくね……」

 香坂さんは何か含みのあるような言い方をした。

「何か?」

「ああ、いえ、ちょっと昔のことを思い出していたの」

 自分にとって大事な戒めみたいなものよ、と香坂さんは話し出した。

「私ね、長期療養に来る前は、循環器外科にいたのよ。とてつもなく忙しい科だったから、長期療養に異動になって、なんていうか甘くみていたのよね。当時も、繁森さんみたいなご高齢の患者さんがいらして、最期のお看取りの方針を決めることになったんだけれど、ご家族が全然決められなくてね。私は、長期療養なんだからゆっくり考えればいいでしょって思っていたの。循環器と違って急ぐ科じゃないって」

 ひとつ息を吐いて続ける。

「そしたら、まさにご家族が話し合っている途中に、患者さんが急変したの。私が発見したんだけど、方針が決まっていないからひどく慌てちゃって、すぐに先生のところに駆けつけたわ。そしたら先生がご家族に向かって『今すぐ決めてください』って言うのよ。そんなにすぐ決められるわけないじゃない? それで結局あわててフルコースで全部やったんだけど、そのまま亡くなったわ……。チューブにつながれて、挿管もされている患者さんを見て、ご家族はとっても悔やんでいらした。蘇生措置が悪いわけじゃない。ご家族に心の準備がなかったことが問題だったのよ」

 香坂さんはすっと目を細めた。

「そのときよ。今後、私は常に気をはって、患者さんの些細な変化も絶対に見逃したくない、ご家族のちょっとした言葉や表情ももらさず全部拾うんだって強く心に決めたのは。患者さんとご家族と、両者にとって一番良い終末とはいったい何か、今も常に考え続けている。人ひとりの命は、後悔なんていう言葉じゃ計り知れないからね……」

 香坂さんの瞳には、多くの経験によるプライドが光っていた。

「だから、繁森さんとご家族がみなさん納得して受け入れていられるといいな、と思うのよ。良い終末を過ごせるよう、精一杯の看護をしましょうね」

 面談を終えたご家族は繁森さんのベッドサイドへ集まっていた。穏やかな談笑が聞こえる。

 みんながその人の生き方を尊重し、人生の閉じ方を受け入れる。なかなかできることじゃない。素敵な家族だな、と思った。

 香坂さんの言ったとおり、繁森さんご自身が苦しくないよう、人生を終えるその日までより良く生きられるよう、手をつくそう。それがきっと、ご家族のケアにもつながるはずだ。

 香坂さんにはまだまだ及ばないけれど、尊敬できる上司と一緒に働けていることに感謝の気持ちがわき起こる。同時に、背中にはりついたままの「思い残し」が消えていないことが、ひどく気がかりだった。

 

 病院を出ると、昼間から天気が良かったからか、Tシャツでも過ごせるくらいのあたたかさだった。

 大学院の課題があるから夕飯は買ってしまおうと思い、そのままコンビニへ歩く。お弁当のコーナーへ近づくと、立ったままボーッとしている見知った顔を見つけた。

「遠野、おつかれ」

 驚いたのか、肩をびくりとさせてこちらを見る。

「卯月さん、お疲れ様です」

「どうしたの、ボーッとして」

「いやあ……なんか疲れちゃいまして」

「そっか。お疲れさん。プリセプター大変?」

 私は魚のフライののったのり弁に手を伸ばす。

「大変……ですね。それ、おいしそうですね。同じのにしようかな」

 遠野ものり弁を手にし、一緒にドリンクコーナーへ行く。

「卯月さんって自炊しないんですか? すごいしそうに見えます」

「たまにするけど、忙しいと買っちゃうことのが多いかな」

 私はいつも通り無糖の午後ティーストレートを手にする。

「……私もそれにしよう」

 遠野も同じものをカゴに入れた。疲れていて、考えるのがめんどうなのかもしれない。

「せっかくだから、お弁当あっためてもらって、近くで食べない?」

 近所の団地の公園にベンチがあるのを知っている。あそこなら、お弁当を広げていても変じゃない。

「いいんですか? 卯月さん忙しいでしょう?」

「どうせごはん食べてる時間は課題できないから、同じだよ」

 どう見ても、遠野は悩んでいる。少し話を聞いてあげたいと思った。

 濃いピンク色のツツジが、心地よい風に花びらを揺らしている。ブランコくらいしか遊具はないけれど、花壇はいつも丁寧に手入れされていて、ついつい長居したくなる公園だ。ゆっくり話すにはちょうどよい。遠野と並んでベンチに腰をかける。あたためてもらったばかりのお弁当から立ち昇るにおいが食欲をそそった。

「いただきます」

 ふたりで声に出して言ってから、お弁当を食べ始める。疲れた体に揚げ物は効く。フライはサクサク、のりはしっとりしていて、おいしい。

「そんで、どうなの? プリセプター、大変?」

 お弁当を半分くらい食べてから、話をふってみる。

 すると遠野は箸をとめて「はあー」とわかりやすいため息をついた。

「正直、こんなに大変だと思わなかったです。想像以上です。やばいです」

 立て続けに言葉がこぼれ落ちてくる。もう遠野の中では満タンで、溢れる寸前だったのだろう。

「そっか。そうだよね。何が一番大変?」

「何が……何でしょうね。何もかもが今はもう嫌になっちゃって……プリセプターなんて引き受けなければ良かった、って思っちゃってます」

 かなり重症そうだ。私は、うんうんとうなずいて話を促す。

「一番は……北口とどう関わったらいいのかわからないってことですかね。ついイライラしちゃうんです。強い口調で怒っちゃう。それで北口を萎縮させちゃって、余計関係がうまくいかない……」

 遠野は、少し黙ってからお茶を一口飲んで「でも!」と大きな声を出した。

「新人って、あんなに勉強してこないもんですか?」

 話しながら怒りが再燃してきたらしい。

「北口は、あんまり勉強しない?」

「ぜんぜんしてないわけじゃないと思うんですけど、なんかズレてるんですよ。マイペースっていうか、のんびりしているところも私は待てなくてイライラしちゃうし……」

 あいづちを打つ。とにかく今は吐き出させよう。

「私、後輩たちから陰で“根拠の鬼”って呼ばれているらしいです」

 ボソボソと小さな声を出す。今度は落ち込みが顔を出したようだ。陰口が、本人にも伝わっていたらしい。

「鬼でもなんでもいいんです。だって、根拠って看護をするうえですごく大事なことじゃないですか。私が鬼って呼ばれたとしても、結果として患者さんに安全なケアができればそれでいいって思うし、北口もふくめて後輩たちみんなが成長してくれればいいって思ってるんですけど……それでも私、やっぱり怖いのかなって」

 箸を宙にとめたまま、遠野はうつむいた。

「そういえば、遠野が一年目のとき、浅桜っていたじゃん?」

「去年辞めた、浅桜さんですか?」

「そうそう。浅桜も三年目でプリセプターやってたんだけど、同じくらいの時期にやっぱり悩んでて、この公園で話したの思い出したわ」

「え、そうだったんですか? 浅桜さん、優しいし教えるのうまかったし、悩んでいるの想像つきません」

「そうだよね。でも、当時はけっこうしんどそうだったよ。プリセプターは、三年目くらいにとって一番の試練なのかもしれないね」

「……卯月さんもプリセプターってやりましたよね? 卯月さんのプリ子は、どんな人だったんですか?」

「私のプリ子ね……」

 きりっとした加藤比香里の顔を思い出す。今は救急でバリバリ働いているはずだ。

「すごい気の強い子だったかな。勉強はよくするし、正義感が強くて真面目だったけど、なんていうか、協調性に欠けたというか……」

 懐かしくて思わず笑みがこぼれる。

「たとえば……オムツ交換にまわっていたとき、意識のない患者さんの個室に入ったとたん、ヘルパーさんたちが笑いながらおしゃべりを始めたんだよね。なんか芸能人のスキャンダルみたいな、仕事とぜんぜん関係ない話。私は、大きな声じゃなかったしそこまで気にしなかったんだけど、プリ子が怒っちゃって。『意識はないかもしれませんが、耳は聞こえていると思います! 芸能人の不倫とか、どうでもいいことをしゃべりながらケアをするのはおかしいです!』って。ヘルパーさんたちは新人に指摘されて気分害しちゃって、結局主任が介入して両者に注意して終わったんだけど、プリ子は納得していなかったねえ」

「ええ……新人でそれを言ったんですか!」

「そうそう、すごい子でしょ? ちょうど五月か六月くらいだったから、今の北口くらいかな」

 遠野は口を開けて驚いた。

「ヘルパーさんたちはかなり年上の方もいらっしゃったから私はヒヤヒヤしたんだけど、言っていることは正しいのよね。でも生意気だと思った人はいただろうね」

「そうですよね……それはそれで、卯月さんも大変でしたね」

「そうね。私より度胸のある子だったから、ドキドキしてたかな」

 大変じゃない新人教育なんてないのだ。みんな、不安と葛藤とプライドをもって入職してくる。看護学校で学んだことと実際の病棟では、違うことも多い。学生とは比べ物にならないほど忙しいし、責任も重い。新人たちも必死だろう。

「卯月さんに話聞いてもらって、ちょっとすっきりしました。卯月さんのプリ子よりは、北口のがまだ私には合っているかもです」

 加藤が意外なかたちで役に立ったようだ。本人は釈然としないだろうけど。

「またなんかあったらちゃんと話してね。私だけじゃなくて、山吹もプリセプター経験者だし、御子柴さんも話聞いてくれるから」

「はい。ありがとうございます」

 お弁当を食べ終えて、遠野はうーんと伸びをした。

 暮れ始めた空を、ツバメがすーっと横切って飛んで行った。

 

「みなさん、ちょっといいですか」

 朝の引き継ぎが終わるころあいに、主任の御子柴さんがナースステーションの真ん中で立ち上がった。

 みんな手をとめて主任を見る。

「突然のことですが、今日からしばらく香坂師長さんがお休みになります」

「ええ!」

 思わず声を出してしまった。師長さんは病棟業務以外でも仕事が多いから、朝の引き継ぎの時間にいないことは珍しくない。だから何とも思っていなかったけれど、まさかお休みとは。

 みんなざわざわしている。でも、この中で「思い残し」の男性を思い浮かべているのは私だけだろう。何かあったのだろうか。嫌な予感がふつふつとわいてくる。

 主任は私たちのざわめきがおさまってから、穏やかに続ける。

「実は、香坂さんにご病気が見つかりました。何週間か前にわかっていたようですが、今回手術することになり、病欠になります」

 御子柴さんはいつもの冷静な表情で私たちを見渡した。

 手術……だから「思い残し」が視えたのか……。

 そんなに悪いのだろうか。命に関わるということ?

「香坂さんが不在のあいだは、僕が代理になります。何かありましたら、遠慮なく相談してください。香坂さんが安心して治療にのぞめるように、病棟は僕たちで守りましょうね」

 みんな口々に返事をする。御子柴さんは、本当に看護師たちをまとめるのがうまい。香坂師長がピリッと引き締め、御子柴主任が穏やかに和ませる。実にうまくできた関係性だと思う。

 師長がいない不安や病状を心配する気持ちも、御子柴さんがいてくれれば大丈夫、という安心感で覆われている気がする。やっぱりすごい人だな、と尊敬の念がわき起こる。同時に、香坂さんへの心配が拭いきれない。

 あの男はいったい……。

 考えても仕方のないこと。

 わかっているけれど、どうにも心が波立つ。ふーっと息を吐いて気持ちを落ち着かせる。今は、今日一日の患者さんへのケアに集中しなければだめだ。自分に言い聞かせ、ナースステーションを出た。

 

「卯月さん、ひどいじゃないですか!」

 桃ちゃんが突然大きな声を出したのは、一週間ほどたった日勤の午後だった。いつものように面会に来た桃ちゃんは廊下で私を見つけた瞬間、大きな声をぶつけてきた。

「え、どうしたの?」

 桃ちゃんは、唇をかんでいた。みるみるうちに目のふちが赤くなり、大きなかわいらしい瞳がうるんでいく。

「こっちでお話ししましょう」

 大きな声を出していては、まわりの患者さんやご家族の迷惑になってしまう。ゆっくり話を聞くために、私は桃ちゃんを面談室にうながした。桃ちゃんは私をにらみつけるような目で見ながらも、あとについて部屋へ入った。

 桃ちゃんは面談室の椅子に座って、かばんをぎゅっと抱えている。

「……大ばあばのことです」

「うん。繁森さんのことだよね?」

 心当たりはない。でも、医療者の無意識の行動がご家族にショックを与える場面はあるかもしれない。私は八年も看護師をしているから、看護師としての常識がご家族には通用しないときがあるかもしれないと理解していたつもりだった。でも、桃ちゃんに怒鳴られるようなことは思いつかない。

「卯月さんは、大ばあばが死んでもいいと思っているんですか!」

 それは想像していない言葉だった。まっすぐな視線にいすくめられる。

「私、そんなこと思っていないけど、どうして、そんな風に言うの?」

「だって……この前、お父さんたちが大ばあばのことを先生たちと話し合ったって。そのとき、大ばあばにもしものことがあっても何もしないって決めたって。そんなの、ひどいじゃないですか。どうして助けようとしてくれないんですか!」

 白い張りのある頬に涙が流れている。私は、心臓をぎゅっとつかまれたような衝撃をうけた。

 心肺蘇生は、基本的には、やらなければならない処置だ。でも、患者の体への負担が大きい。繁森さんの場合、心臓マッサージをすれば肋骨はぺしゃんこに折れてしまうだろうし、人工呼吸器を使うために気管挿管をすれば会話はいっさいできなくなる。そこまでしても、蘇生できる可能性は低い。もし一時的に蘇生できても、その後何日生きられるかわからない。つまり、メリットのほうが少ない。そういったことも全て説明したうえで、ご本人とご家族からDNARという結論をもらったのだ。

 全員が納得していると思っていた。でも、桃ちゃんは、大好きな大ばあばが見捨てられると思っている。純粋な少女の思いを前に、処置のメリットデメリットなんて話はできなかった。

「桃ちゃん、おうちの人から何て聞いたの?」

「何って、大ばあばが死にそうになっても何もしないって、それだけです。その場の話し合いに、あのぜんぜん笑わない先生と卯月さんがいたって聞いたから……先生は何考えてるかよくわからないって思ってたけど、卯月さんまで大ばあばを助けてくれないなんて思わなかった。……ひどいよ!」

 桃ちゃんは叫ぶように言うと、面談室から出ていった。

「桃ちゃん!」

 声をかけるが、走っていってしまった。

 私は壁にもたれて、大きく息をはく。

 患者さんやご家族から強い言葉を浴びせられることはある。怒られることも、あなたじゃ話にならない、と拒否されたこともある。

 そのつど、落ち込むことはあった。でも、桃ちゃんからの言葉は特に重い。

 あのけがれのない瞳に、私が陰りを落としたのか……。

 誰にとっても後悔のない終末とはいったい何だろう。大学院にまで行って勉強しているくせに、桃ちゃんを納得させられる答えを私は持っていなかった。

 

 講義室の窓から、したたる雫を眺めていた。久しぶりに降った雨は激しく、外の景色をかすませている。半そででは少し肌寒く、両手で腕をさする。

 桃ちゃんの言葉が頭にはりついてとれない。いったい、何を言えば良かったのだろう。

「咲笑ちゃん、お昼買いにいかない?」

 荒井晴菜が声をかけてくる。潔いほどのショートカットで、耳にピアスが光っている。大学院で知り合った友人で、とても気が合うし、私は晴菜に出会えて本当に良かったと思っている。大人になってから新しい友達ができるのは、なかなか貴重な経験だろう。

「ああ、行こうか」

 私は直前まで受けていた講義の資料をしまって、立ち上がった。

 大学院に行きはじめたのは、専門看護師の資格をとりたいと思ったからだ。

 専門看護師とは、看護師のなかでも特定の分野を極めたスペシャリストで、全国にまだ三千人ほどしかいない。普段の講義も課題も大変だし、試験も難しい。私は、がん看護の専門看護師を目指している途中だ。修士課程が終われば資格がとれるわけではなく、修了してから実践にもどり、秋頃に試験を受けることになる。それに受かって初めて専門看護師になれるのだ。

 普通は二年で試験受験資格がとれるけれど、私は仕事をしながら通学しているので三年制の講義を受けている。晴菜はもともと病棟看護師だったが、子育てと仕事と大学院通いを同時にこなすのが難しく、一度仕事を辞めてから同じく三年制でのぞんでいる。

 私が通う大学院は、大きな大学の敷地の端にひっそりとたっている。売店のラインナップがほかのコンビニとちょっと違ってここでしか見ないお弁当もあったりして、お昼ごはんは楽しみのひとつだ。

「咲笑ちゃんの好きなからあげおにぎりあるよ」

「ほんとだ」

 天むすのように、からあげがごはんに包まれている。それをひとつと、普通の梅おにぎりを買うことにした。晴菜は、ミートソーススパゲティのはさまったパンを買っていた。

 大学院生には、院生室という部屋が用意されている。ひとりずつデスクがあり、集中して勉強できる環境が整っている。そこへ戻る途中のラウンジスペースに二人で腰をおろした。

「咲笑ちゃん、仕事でなんかあった?」

「え、なんで?」

「顔に書いてある。別に言わなくてもいいけど、話したければ聞くよ」

 晴菜は、さっぱりした優しさを持っている。ズカズカと踏み込んでこないで、気持ちをくんでくれる。こういう距離感が、一緒にいて心地いい。

「実は、ある高齢の患者さんがDNARになったんだけどさ……そのひ孫ちゃんが納得していないのよ」

「ああ、あるね、そういうこと。ひ孫ちゃん、何歳なの?」

「小学三年生って言ってたかな」

「うちの亮が二年生だから、同じくらいか」

「うん。小学生くらいの子って、もっと子供なのかと思ってた。でも、自分の家族が亡くなるかもしれないってことを、自分なりに一生懸命考えて、やっぱり納得がいかないって抗議してきて……。私、なんて言えばいいかわからなくて」

「そうだねえ。もっと幼ければ考えないだろうし、逆にもう少し大きければ大人の話し合いに混ぜてもらえる……微妙な年齢かもしれないね」

「だからこそ私が何か言ってあげられれば良かったんだろうけど……難しいなって思ってさ」

 午後は看護倫理の講義がある。倫理や道徳を看護にどう活かすか……まさに今の自分に必要な議題だと思った。

 廊下をほかの学生たちが通り過ぎていく。談笑する姿が楽しそうに見えて、なんだかうらやましかった。

 バッグの中でブブッとスマホがふるえる。

【明日、香坂さんのお見舞い行きますけど、卯月さん一緒にどうですか?】

 山吹からのラインだった。香坂さんは先週無事に手術を終えて、そろそろ退院できるらしい。もう何人か同僚たちがお見舞いに行っていたみたいだ。巨大な子宮筋腫を抱えていて子宮を全摘したらしい。予後はいいようだ。

 私は今日出るであろう課題を思い浮かべる。うん、なんとか今晩中に終わらせよう。

【明日日勤だから、そのあとなら行ける。行きたい】

【私も日勤なんで、仕事のあとに一緒に行きましょう】

【ありがとう。よろしく】

 山吹から猫のスタンプが送られてきた。それを既読にして、二個目のおにぎりの包装を開ける。晴菜は静かにお茶を飲んでいて、雨の音がラウンジの窓をたたいていた。

 

 香坂さんが入院している白鳥病院は、青葉総合病院からバスで三十分ほど走ったところにあった。規模は青葉総合病院の方が大きいけれど婦人科の外科が有名な病院だ。

 香坂さんは以前婦人科で働いていた経験があり、そのときに親交のあった女医さんが在籍しているらしい。

「お見舞いにいった子たちは、何も差し入れはいらないって言われたらしいんですけど、さすがに手ぶらってわけにいきませんよね」

 バスから降りて、山吹とてくてく歩く。その手には、紙袋がぶらさがっていた。お見舞いにいくと決めた日に、クッキーを買いにいってくれたらしい。気の利く子である。

 自分が働いているところじゃない病院というのは、なんとも居心地が悪い。自分が患者になったわけでもないのに、妙な緊張感がある。

 普段面会に来るご家族や外来に通院している患者さんたちは、いつもこんな落ち着かなさを感じているのかな。当たり前のことだけれど、これからもできるだけ親切に対応しよう、と改めて心に決める。

「なんか病院って、やっぱりなるべくなら来たくない場所ですよね」

 同じようなことを思ったのか、山吹がぼそっと言った。

 

 婦人科病棟のナースステーションで面会者の記載をし、廊下をすすむ。個室のネームプレートのところに「香坂椿」と書いてあった。

 ドアをノックしようとしたとき、室内から談笑する声が聞こえた。面会中かな。

 控えめに、三回ノックをする。「失礼します」と言いながらドアを開けると、広い個室にベッドがひとつあって、香坂さんが背中を起こして座っていた。そして、ベッドのすぐ横にいる人を見て、私は思わず目を見開く。

 四十代くらいの男の人がいた。ぼさぼさの髪に、陽に焼けた肌。香坂さんの「思い残し」の男性だ。

「すみません、お邪魔でしたか?」

 山吹が声をかける。

「いいのよ、いいのよ。この人、もう帰るところだから」

 香坂さんは、高価そうな水色のシルクっぽいパジャマを着ていて、顔色はよく元気そうに見えた。手術は無事に成功してもうすぐ退院できる、というのは本当らしい。

「椿の病棟のナースさんたちかな? 君は怖そうに見えるけど、意外と職場の子たちに慕われているなあ」

「意外と、は失礼でしょ」

 ベッドに近づくと、男の人が頭をさげてきた。

「どうも、椿の夫です」

 ええ! と山吹と二人で声をあげてしまった。香坂さんはてっきり独身だと思っていたし、たぶん病棟のみんなもそう思っているだろう。

 旦那さんが愉快そうに笑い、目じりにしわが寄る。

「香坂さん、結婚してたんですか!」

 山吹が声をあげる。

「ちょっと、言い方」

 私がたしなめるのも聞かず、山吹は好奇心で目がらんらんとしている。

「そうよ。知らなかったの? この人、普段は単身赴任で離れているから独身に見えたかしら」

「いつもはほとんど連絡をよこさないくせに、病気になったとたん呼び出されたわけ。まったく、たまらないよなあ」

 そう言って旦那さんは、あははと声を出して笑った。

 そうか。香坂さんは、自分の病気がわかって手術が近づいてきたときに、離れて暮らす旦那さんのことを考えていたんだ。全身麻酔の手術には、多くのリスクがともなう。医療者の香坂さんは、普通の患者さん以上に危険性を理解しただろう。だから、旦那さんに会いたかった。それが「思い残し」となって現れた。

「ああ、そうだ。これ」

 山吹が差し入れのクッキーを渡す。

「お気遣いさせちゃってごめんね。何も持ってこなくていいって伝えるように、御子柴くんにも言ったんだけどね」

「やっぱり、君が怖いからじゃないか?」

 旦那さんがからかい、香坂さんがにらむ。こんなにかわいらしい香坂さんは初めて見た。

「ご体調は良さそうですね」

 ようやく頭の整理がついてきて、私は香坂さんに声をかけた。

「おかげさまでね、順調みたい」

「よかったです。手術、お疲れ様でした」

「ありがとう。病棟は大丈夫そう?」

「はい。まあ、それなりにいろいろありますけど」

 私は、桃ちゃんのことを思い浮かべながら返事をする。

「そりゃそうよね。まったく何の問題もないなんてことは、あるはずないわね」

 香坂さんは軽く肩をすくめた。

「ご病気がわかったとき、すぐに旦那さんを呼び出したんですか?」

 山吹が嬉しそうに聞く。こういう風にしてこの子はいろんな人の情報を悪気なく集めているんだろう。

「そうねえ。すぐ、というほどじゃなかったんだけど」

 香坂さんが、指先をあごにあてて首をかしげる。

「久しぶりに連絡がきたと思ったら、病気が見つかったって言われて、びっくりして会いに来てみたら、あっという間に入院だ。ギリギリのタイミングだったよな」

 旦那さんが両手をひろげて降参のようなポーズをとった。

「うーん」と言ったあと、香坂さんは少し笑った。

「病気がわかった日は、まだ冷静だったのよ。手術の説明のときは旦那に来てもらわなきゃいけないってわかっていたし、それまでは連絡しなくてもいいと思っていたの。でも、日がたつにつれてどんどん不安が大きくなって、なんだか怖くなってしまってね」

 ふーとため息をついて続ける。

「仕事はやりがいがあるし、普段はひとりでも何も不自由はないわ。あなたたちみたいに、かわいい部下にも恵まれた。でも、いざ病気になって自分が弱っていったとき、初めて誰かを恋しいと思ったのよ。それで、自分で思っていたより早く、この人を呼び出してしまったわけ」

 最後は少し言い訳めいた口調だったが、それは照れ隠しだとわかった。

「なんか、めっちゃのろけられてる気分なんですけど!」

 山吹の声に、香坂さんは眉間にしわをよせて「そんなんじゃないのよ」と山吹の肩を叩いた。

 

「香坂さん、お元気そうでよかったですね」

「うん、ほんと」

 外は風が強くてぼうぼうと髪が乱れた。それでも、胸にあたたかいものが満ちていく。

「自分がつらいときに、会いたくなる人がいるのって、いいことですよね」

「うん。いいことだね」

 二人でバス停まで歩く。きっと山吹も、恋しい人を思い浮かべているのだろう。

「なんか、香坂さんかわいかったですよね」

 山吹が吹きだす。

「かわいかったね」

「香坂さんって普段けっこう怖いですけど、そりゃそうですよね。師長なんて、厳しくなきゃやっていられませんよね。患者さんのことはもちろん考えなきゃいけないし、看護師のこともヘルパーさんたちのことも見ていなきゃいけない。私たちがいつも頼りきってる御子柴さんだって、何か相談するとなったら相手は香坂さんだろうし……それに病棟業務以外にも仕事あるんですよね。大変だよなあ」

「そうだね。私たちには見せないだけで、香坂さんもいろいろ抱えていたんだね」

「手術は大変だったと思いますけど、しっかり休んでほしいですね」

「うん。ゆっくりして戻ってきてほしいね」

 仕事をしていると、いくら勉強してもわからないことばかりだ。知識ばかりつめこんでも、答えがいっこうに見つからない。

 でも、スーパーウーマンに見えていた上司だって、弱音を吐きたいときがある。悩みのない完璧な人間などいないのだ。

 家に帰って、千波の写真に話しかける。

「風邪ひとつひかないような香坂さんが入院なんてね。でも、あのパワフルな香坂さんを支えているのは旦那さんだったんだなって、今日会ってみてわかったよ」

 やっぱり家族の存在って大きいんだな。

 もし私が今後大きな病気をしたら、一番の支えは誰になるのだろう。家族や友達、同僚たちの顔を思い浮かべる。みんなそれぞれ力になってくれる気がするけれど……。

「もし本当に病気になったら、相手が誰であってもちょっと気を遣っちゃう気もするね」

 千波に声をかけて、ソファにごろりとねころんだ。

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