発売5日で重版が決まった『ナースの卯月に視えるもの』(秋谷りんこ/文春文庫)。この物語では、患者さんのご家族についても丁寧に描かれています。それは秋谷さんの看護師時代のある出会いがきっかけでした。
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家族が患者のQOLを決める
「母は、昔から自分でなんでもできちゃう人なんですよ。膝の関節の病気がわかったときだって、こんなのへっちゃらだって言って、一人暮らしして。そのくらい強い人なんです。(中略)それなのに、突然しゃべれなくなって、動けなくなって、口から物も食べられないなんて……どうやって信じればいいんですか。母が寝たきりだなんて、どうやって受け入れればいいんですか」
『ナースの卯月に視えるもの』の一節です。
私は十年以上、看護師として病棟勤務をしていましたが、患者さんのケアと同じくらい大切な仕事、それはご家族との関わり合いでした。医療はチーム戦。医師、看護師の連携は当然として、ご家族がいかに患者さんへの理解を深め、サポートできるかが、患者さんのQOLを決めるといっても過言ではありません。だからこそ、ご家族とのコミュニケーションや関わり方には日々心を砕いていました。しかし、いざ身内が病気になったとき、ご家族がその現実と向き合う過程は、とても苦しいものです。もう歩けない患者さんに対して「歩行練習しなきゃ」と車椅子から無理やり立たせる方、流動食の患者さんに大福を食べさせようとする方、勝手に救急車を呼んで転院しようとする方など様々で、ご家族が、患者さんの病気を受け入れることがいかに難しいか、私は現場で痛感してきました。
「いいから、俺のやり方に従え」
なかでもあるご家族との出会いは、私にとって忘れられない経験となりました。
ある日、在宅で療養を続けていた高齢女性のAさんが、誤嚥性肺炎を起こして入院してきました。Aさんは寝たきりの状態で代謝が悪く、体重も増える一方でした。そして彼女の傍らには、ぴったりと付き添う小柄で細身の高齢男性の姿が。いわゆる老老介護でした。
ある日の面会中のこと。私がAさんの体の向きをかえようとすると、「ちがう!」と突然旦那さんに大きな声で怒鳴られました。「やり方が違う。俺がやる方法でやらないと、妻は嫌がるんだ。見てろ」。そう言って、旦那さんはベッドの上に乗って立ち上がりました。病院のベッドはそれなりに高さがあるので、転落してしまったら大変です。慌てて止めようとする私たちを振り切り、「いいから、俺のやり方に従え。ずっと妻を看てきたのは俺だし、これからも俺が看るんだから!」とものすごい剣幕で怒鳴ります。そして寝返りを補助する体交シーツを両手でつかみ、全身を使って体の向きを変えました。その鬼気迫る様子に、私たち看護師は圧倒されました。
それ以来、旦那さんは、体位交換にかぎらず全てのケアに細かく指示を出すようになりました。
「歯の磨き方は俺の言うとおりにしろ」
「肌に塗るのはこの化粧水以外だめだ」
「いいから、俺のやり方に従え。小娘は黙ってろ」
正直、これらの言葉は、私たちの医療に反発するわがままのように聞こえました。看護師のことを見下し、否定しているのだと。入院しているのだから、看護師のやり方を守ってもらわなければ困るし、患者さんに危険があってからでは遅い。看護師たちの反応はみな同じでした。
旦那さんの〝プライド〟
しかし、入院して日が経つにつれ、私たちの考えも変化していきました。毎日のように面会に来て、奥さんの手を優しく撫でる姿、看護師に怒鳴った後にベッドサイドで静かに涙する姿……。私たちは気づいたのです。旦那さんはただ私たちを困らせるために反発しているわけではないのだ、奥さんをあまりに大切に想っているからこそ、攻撃的な言葉が出てきてしまうのだと。私たち看護師にやり方があるように、旦那さんにだって自分で介護をしてきたというプライドがあったのです。
そこで医師もまじえて相談を重ね、安全性を最優先にしたうえで、できるかぎり旦那さんの望む方法で実践しよう、という方針に決まりました。患者さんは、在宅に戻る予定の方。それなら、旦那さんにとってやりやすく、医療的にも問題のないやり方をお伝えするのが一番だろうと、それからは、病棟医療と在宅介護のすり合わせ作業が始まりました。
誤嚥性肺炎で入院してきたということは、食べ物や飲み物の摂取の仕方が良くなかったということ。「食事の方法はダイレクトに命に関わりますから、そこは、医療者がお伝えする方法を必ず守っていただかなければいけません」とお伝えし、旦那さんの主張と医学的な根拠の交わる点を求めて、お互いが同じ方向を向きながら、寄り添っていける道を探りました。
なぜ小説を書くのか
在職中も、『ナースの卯月に視えるもの』の執筆中も、そして刊行後の今も、正しい看護とは何だろう、と考え続けています。もちろん、医学的な正解は教科書に載っています。しかし、全ての症例について、教科書に書いてあるわけではありません。少なくとも、大きな体の寝たきりの妻を、ひとりで体位交換する方法は教科書にはありません。細身の旦那さんは、ベッドの上に立つしかなかったのです。そしてそれは、ひとりで介護をしながら、必死の思いで旦那さんが生み出した方法だったのです。
院内で様々な医療スタッフと関わり合っていくうちに、これまで頑なにひとりで介護を抱え込んでいた旦那さんも、誰かの助けを借りることの大切さに気がついていきました。やがて訪問看護を併用すれば在宅でも看られるところまで回復したAさんは無事に退院していきました。
患者さんの病気も、介護する家族も、ひとりひとりが違います。個別性、という一言では片付けられないほど、全員がまるで違う人間なのです。Aさんと旦那さんとの日々を通じて、私はそのことを本当の意味で理解することができました。
だからこそ、小説を書くとき、患者さんと同じくらい、ご家族のことをしっかり書こうと思っていました。そしてこの本が、大切な人とのかけがえのない日常や小さな幸せを慈しむきっかけとなったら嬉しいです。
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