処刑八十年でブーム再来
ロシア軍のウクライナ侵攻が長期化する中、戦前の東京や上海で諜報活動を行った旧ソ連の大物スパイ、リヒャルト・ゾルゲ(一八九五~一九四四年)を「第二次世界大戦の英雄」として顕彰する動きがロシアで強まっている。
日米開戦前夜、ゾルゲはドイツ軍のソ連侵攻や日本軍の「南進」をモスクワに通報したが、ロシア側の情報公開で、これ以外にも、満州国建国や上海事変、日独防共協定、日米開戦などを予告していたことが分かった。
ゾルゲとソ連軍情報本部の関係がぎくしゃくしたことや、ゾルゲ機関の摘発が日独関係に深刻な打撃を与えたことも判明した。神話に包まれたスパイ・ゾルゲの実像が次第に解明されつつある。
二〇二四年十一月七日はゾルゲの処刑から八十年で、ロシアでは追悼行事が行われた。二五年十月はゾルゲ生誕百三十周年で、国防省主催の記念シンポジウムが予定される。
ウクライナ戦争で孤立し、欧米の対露包囲が強まる折から、スパイ活動を通じて国家に尽くしたゾルゲをプレーアップすることで、国民の愛国主義や結束を促すプーチン政権の思惑も垣間見える。
ソ連では、摘発されたスパイであるゾルゲの存在は戦後秘匿され、名誉を回復したのは一九六四年だった。その後、記念切手の発行やオペラの上演が行われ、人気が高まった。現在は第二のゾルゲ・ブームを迎えたかにみえる。
ソ連時代、諜報関係の公文書は機密扱いだったが、一九九一年のソ連邦崩壊前から少しずつゾルゲ関係文書の情報公開が始まり、プーチン体制下で大幅に進んだ。ゾルゲをテーマにした書籍も五十冊前後出版された。
その中で注目すべきは、歴史家のミハイル・アレクセーエフが公開文書を基に書いたゾルゲ研究書の上海編『あなたのラムゼイ』、東京編『あなたに忠実なラムゼイ 上・下』という分厚い三冊本だ。ゾルゲが属した軍参謀本部情報総局(GRU)のアーキビストだったアレクセーエフの著作は、ロシアでは本格的な研究書となった。
また、日本専門家のアンドレイ・フェシュン(モスクワ国立大学東洋学部准教授)はGRUの公文書館や国防省中央公文書館で機密指定を解除された関係文書約六百五十本を入手し、資料集『ゾルゲ事件 電報と手紙(一九三〇~一九四五年)』を出版した。このうち、活動がピークだった四一年とそれ以降の二百十八本の文書を筆者が翻訳し、『ゾルゲ・ファイル 1941―1945』としてみすず書房から出版した。
二人の著作は、ゾルゲが上海や東京からモスクワに送った電報や書簡、本部の指示を網羅し、情報活動の全容が示された。
日本では、ゾルゲ事件は終戦直後から大きな社会的関心を呼んだ。盟友で元朝日新聞記者の尾崎秀実 が獄中から家族に送った書簡集『愛情はふる星のごとく』がベストセラーになり、焼け跡の反戦・民主化機運の中、ゾルゲや尾崎は国際平和を目指した反戦主義者と評価された。
一方で、東西冷戦の深まる中、日本を占領統治したGHQ(連合国軍総司令部)のウィロビーG2(参謀第二部)部長が事件を調査し、「史上空前の赤色スパイ事件」と喧伝したことで、国内の評価も分裂した。
その後、ゾルゲや尾崎らの獄中手記、尋問・裁判記録、関連資料を網羅した『現代史資料 ゾルゲ事件』全四巻(みすず書房)が六二年から刊行されて実証的な研究が始まり、これまでに約二百冊の関係書籍が出版された。
ただ、従来の研究は主に、日本側の資料・情報に基づき、ロシア側の資料やモスクワから見たストーリーが欠落していた。世代交代に伴い、ゾルゲ事件への関心は低下し、風化が進んだ。
しかし、ゾルゲ事件はスケールの大きさや時代の激動、登場人物の多彩さと思想性、ゾルゲ個人の特異な人物像など興味は尽きない。一九三〇年代から四〇年代初頭の日・米・英・独・中・ソのパワーゲームと策略の中で、ゾルゲは舞台裏で黒子のような役割を果たした。ゾルゲの電報は、敗戦に至る昭和前期の激動を記録した裏面史となっている。
本書では、解禁されたロシア側資料を中心に、新しい情報やエピソードを取り上げ、ゾルゲ機関の内幕に迫った。日本や中国、ドイツで出てきた新情報も適宜盛り込んだ。
筆者は時事通信記者としてモスクワとワシントンに駐在した際、公文書館での調査からゾルゲ事件でいくつか独自記事を報道しており、その際入手した資料も使用した。
ゾルゲ事件はスパイ事件としては異例ともいえる大量の情報公開がなされており、その実態を探ることは、情報戦やインテリジェンスの研究に有益だ。ゾルゲを見つめ直すことで、日本の伝統的な防諜の甘さを再検討できる。
司馬遼太郎が称えた「澄み透った目」
ゾルゲと尾崎は、「近代史上、最も知的水準の高いスパイ」(チャルマーズ・ジョンソン元米カリフォルニア大サンディエゴ校教授)といわれる。
ゾルゲ・ファンを公言した作家の司馬遼太郎は物理学者・江崎玲於奈との対談で、「ゾルゲのエッセーを読んでると、昭和十年前後の日本の情勢が非常によくわかります。こんなすばらしい頭脳というのはあるのかしらと思わざるをえない。彼の日本観察を見てもそうなんです。ゾルゲが非常に複雑な民族環境に生まれているということと無縁ではないんですね。ゾルゲが強烈な理想を持っていたこととも無縁ではない。(中略)複雑な民族環境と高い理想が非常に巨大な魂を生んだ」「当時の日本人の専門家たちは、いっさい自分自身の運命を予言できなかった、(中略)ゾルゲは乏しいデータから当時の日本の情勢を正しく分析する澄み透った目をもっていた」と評価した。(『対談集 日本人の顔』)
ゾルゲをスパイというより日本分析者とみなす司馬は、獄中手記やドイツ誌に書いた評論を読んだとみられるが、本部に送った電報・書簡類からも、「澄み透った目」の一端が察知できる。
一方でゾルゲは、複雑な性格の持ち主で、理想主義的共産主義者でありながら、シニカルで自己顕示欲が強く、夢想家だった。極度の緊張を強いられるスパイ生活で、飲酒と女性漁りに走り、無謀な言動が見られた。獄中手記は逮捕後の規制や思惑の中で書かれ、すべてが真実とは限らない。伝説のスパイには、なお謎と疑問が残っている。
本書では、第一章をプーチン体制下でのゾルゲ評価に充て、第二章はあまり知られていない上海での秘密工作を追った。第三、四章では八年にわたる東京でのスパイ活動の実態を取り上げ、第五章は摘発後の意外な後日談を紹介した。
先に、ゾルゲ事件への関心が低下したと書いたが、第一人者の加藤哲郎・一橋大名誉教授や鈴木規夫・愛知大教授らが新たに「尾崎=ゾルゲ研究会」を立ち上げ、中堅・若手の研究者も参画している。ロシアでの文書開示を踏まえ、新機軸の研究が期待される。本書では、加藤氏らの研究が大変参考になった。
出版に当たっては、西本幸恒・文藝春秋新書編集長に貴重なアドバイスと協力をいただいた。
「はじめに 解禁されたロシアの新資料」より
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