一発の銃弾も撃たず、一滴の血も流れはしないが、まぎれもなく国家の存立と国益をかけた戦場にいたといえる――前国家安全保障局長の北村滋氏は、日本のインテリジェンスの最前線に立ち、数々の修羅場をくぐり抜けてきた日々をこう振り返る。
ここでは、知られざるスパイとの闘い、水面下での極秘任務の数々を明かした『外事警察秘録』(文藝春秋)を一部抜粋して紹介する。北村氏が取り組んだ“最大の課題”とは――。(全2回の1回目/続きを読む)
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鏡が多い高麗ホテル客室の謎
順安空港を出たバスは、30分ほどで投宿先と協議会場を兼ねた高麗ホテルに到着した。高麗ホテルは、当時平壌で最も近代的な設備を備えていた。
フロントを抜け宿泊客室がある21階を目指す。なぜか途中階でエレベーターが止まり、ドアが開く。そこには一切の照明がない暗黒の空間が広がっていた。
到着した客室の調度品や内装はパチンコホールのような華美な印象。さらに、接遇は非常に丁寧だったこととの対比で若干の違和感を覚えた。
到着以降、警察チームは外国で礼を失することがあってはならないと警察礼式にいう頭を下げる「室内の敬礼」はしたが、先方の誰とも握手はしなかった。初日の夜に開かれた歓迎夕食会も辞退した。こうした対応は警察のメンバー全員に徹底した。
「外交」のプロトコルで動く外務省と、犯罪捜査規範で動く警察との組織文化の違いからくるものかもしれないが、外事警察として対決すべき相手との間合いを考えた上での判断だった。
到着初日の日朝双方の動きについて、手帳には、《チョン・テファ(鄭泰和)大使主催の日本代表団歓迎宴会については、警察庁関係者はその参加の目的を勘案し、欠席扱いとする》、《協議中に藪中団長に申し入れて、団長及び北朝鮮側は了解》と記されている。
我々は、盗聴など北朝鮮側の情報活動には細心の注意を払った。とにかく一人で行動しない原則を周知徹底して、客室は相部屋にした。これを申し入れると、外務省の同行職員から「警察の人は相部屋がお好きなのですか」と妙な質問をされるはめになったのだが……。念には念を入れ、私は警察チームのメンバーが24時間寝ずに在室する客室――通称ロジ部屋――で待機することにした。
我々にあてがわれた客室は、それにしても鏡が多かった。同行した鑑識担当の職員が部屋の内壁と外壁の厚さを測ってみたところ、人一人が入れるほどの空間が存在する。またホテルに依頼した洗濯物は、依頼者が使ったベッドの上に確実に置かれていた。なぜホテル側が、2人がどちらのベッドで寝ているかを知り得たのか、今でも分からない。
医師や看護師への聴取
外交当局間の日朝政府間協議の後、日朝実務者協議は到着翌日、2004年11月10日午前11時、高麗ホテルの宴会場にしつらえた会議室で始まった。中央に対面する形で配置されたテーブルに双方7、8人が向き合う。私と同行の警察庁外事課員の計3人はテーブルの中央付近に着席した。
まず午後1時まで総論・調査に関する方法論を話し合うセッションがあり、休憩を挟んで午後2時から我々が北朝鮮の「調査委員会」に寄せた疑問点について先方が個別に回答を始めた。
「調査委員会」に突きつけた質問は、北朝鮮側が「死亡」と回答した横田めぐみさんら8人の消息や、入境した事実が確認できないと主張する4人の被害者に関するものだった。
横田めぐみさんについては、物証として写真や北朝鮮での身分証明書、自筆の紙片などを要求した。これらは指紋検出や写真、文書からの本人との同一性を確定するために必要だった。
そして、めぐみさんの元夫とされるキム・チョルジュン氏か、めぐみさんが入院していたとされる「49号予防院」が保管しているはずの「めぐみさんの遺骨」とされるものも、DNA型鑑定などによる同一性鑑定に用いる趣旨で求めた。
さらに、めぐみさんの生活状況や健康状態を知り得るキム・チョルジュン氏本人や入院先の「695病院」の医師、また北朝鮮側の主張によるところのめぐみさんの「自殺」の直前に散歩に同行していた「49号予防院」の医師や看護師、埋葬に関与した者らへの直接聴取も要請した。
「よど号」メンバーと「KYC」
加えて、我々は、被害状況の捜査から拉致が北朝鮮特殊機関の計画的・組織的な犯行だったとみて、以下のような疑問点も提示していた。
まず、欧州で拉致された男女3人の被害者、石岡亨さん(拉致当時22歳)、北朝鮮で石岡さんと結婚したとされる有本さん、そして松木薫さん(同26歳)の3人について。
警察の最大関心事は、特殊機関「朝鮮労働党対外連絡部56課」の副課長で工作員、キム・ユーチョル――「KYC」と呼ばれていた――と、その配下で指示を受け、石岡さんら3人を拉致したとみられる共産主義者同盟赤軍派の「よど号」グループとの関連性だ。
北朝鮮側は認めていないが、有本さんは英国留学中にデンマークのコペンハーゲンに旅行した際、「よど号」グループの魚本(安部)公博容疑者と中華料理店で会食したとの証言がある。
「よど号」メンバーの元妻による証言だが、我々は、様々な角度から検証した結果、真実性が高いと判断していた。さらに、有本さんが消息を絶つ直前、コペンハーゲンのカストラップ空港で「KYC」と一緒にいる場面を第三国の情報機関が撮影した写真の存在だ。
有本さんは、モスクワ経由で北朝鮮に連れ出されたことが判明しており、北朝鮮機関の関与と「よど号」グループの暗躍も明白だった。
石岡さんについては、卒業旅行の途中でスペイン・バルセロナに立ち寄った際に「よど号」メンバーの妻と一緒に行動していた。バルセロナ動物園で石岡さんの旅の同行者が、「よど号」メンバーの妻と石岡さんが並ぶスナップ写真を撮っている。こうした証拠が多数存在するにもかかわらず、北朝鮮は「よど号」グループの関与を一切認めていないのだ。
北朝鮮側の釈明
我々が示した疑問点に対し、北朝鮮側はほとんど回答しなかった。
例えば田口八重子さん(拉致当時22歳)に関して、「当方(北朝鮮)の安全保障の観点もあり、今後提起される質問を考えていただきたい」とかわしてきた。都合の悪いことは一切、聞くなという意味だろう。
拉致直前の田口さんの足取りは判明していなかったため、拉致実行者とともに東京を出発して船に乗せられたとみられる宮崎までの移動経路、手段の解明は必須だった。
しかしながら、日本国内で誘拐・国外移送行為を補助した者について詳細な情報提供は全く得られなかった。
さらに、田口さんが北朝鮮で拉致被害者、原敕晁さん(拉致当時43歳)と同じ招待所で生活していたとする北朝鮮側の説明はこちらの情報とずれがあった。また田口さんが日本語を教え、接点があったとされる大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫工作員との関係も、一切語られることはなかった。
疑問の数々に北朝鮮が寄越した回答では、「特殊機関がやったことなので、詳細は調べようがない」というものが多かった。組織も改編されており、調査は困難を極めたとの釈明を繰り返すだけだった。
拉致をめぐる北朝鮮の対応には、ある被害者については帰国させ、ある被害者については「死亡」と説明し、「未入境」として拉致そのものを認めないケースもあるなど不可解な点が多い。
中でも大きな疑問は、目的を偽り北朝鮮に連行した事実は認めているのに、「よど号」事件や大韓航空機爆破事件のような「テロ」の実行犯の関与を一切認めないことだ。テロリストが関与したとなれば、北朝鮮は「テロ支援国家」としての実態を上書きし、国際社会や米国からの更なる制裁の根拠となる可能性があったからだろう。
こうした北朝鮮側の「涙ぐましい努力」は、2008年10月11日、米国による北朝鮮のテロ支援国家指定解除で実を結ぶことになる。
最大の脅威は米軍
協議は難航した。時間は瞬く間に過ぎ、日本側から北朝鮮に申し入れ、期間を当初日程から2日間延長した。協議時間は計60時間近くにも及ぶことになる。
北朝鮮は日本側の調査要望事項について、「695病院」「49号予防院」「招待所に当時勤務していた者」等の「関係者」への直接聴取を容認した。北朝鮮のような閉鎖国家がよくも受け入れたものだと思うが、逆に言えば当時、金正日政権にはそれだけ拉致問題を「解決」させたい意思があったということなのだろう。
北朝鮮がそう考えるに至った背景の一つには、対米関係を含む当時の国際環境があった。
2001年9月の「米中枢同時多発テロ事件」(9・11)を受け、米国のジョージ・W・ブッシュ大統領は、翌年1月の一般教書演説でイラン、イラクに加えて北朝鮮を名指しし、「悪の枢軸」と批判。その一角であるイラクでは、03年3月から始まったイラク戦争で米軍の攻撃を受け、サダム・フセイン政権が崩壊した。金正日政権は、この一連の経緯に自身の運命を重ね合わせたのではないか。
「第3回日朝実務者協議」は「悪の枢軸」演説から3年近く経過していたが、それでも北朝鮮は、米軍の存在が自国の存続への最大の脅威と認識し続けていた。
協議において、北朝鮮は自らの調査結果に関する主張を譲らなかった。「8人死亡、4人未入境」との回答を繰り返し、我々との議論は平行線を辿った。藪中団長は険しい表情で、見通しを「厳しい」と漏らすようになった。
そんな消耗戦の終盤、藪中団長が北朝鮮側から呼び出され、火葬済の人骨とみられるものを持って戻ってきた。我々が北朝鮮側に要求していた「横田めぐみさんの遺骨」だった。
国交正常化交渉の入り口に立つのか、立たないのか、北朝鮮はボールを日本側に投げたつもりだったのだろう。
横田ご夫妻への報告
代表団が帰国したのは2004年11月15日。午前9時前に平壌を出発したチャーター機は11時前、小雨降る羽田空港に着陸した。受け取った資料を速やかに、安全に、あるがままに持ち帰るため、チャーター便での帰路となった。
当日のテレビニュースでは、機体から資料などの入ったコンテナ7個が運び出される実況映像とともに、アナウンサーが「外務省幹部は『拉致被害者の安否に関する良い情報はない』と話した」と伝えていた。
結果報告を受け、町村信孝外務大臣は記者団に「彼ら(北朝鮮側)なりの努力は、前2回(の日朝実務者協議)に比べればあった」と発言。北朝鮮との関係を何とかしたい日本側の一縷の期待が滲む言葉であった。
私はその足で警察庁に戻り、午後1時から漆間長官への報告。これを終えて午後3時、藪中団長や警視庁鑑識課員らとともに横田ご夫妻との面会に臨んだ。それは奇しくも27年前、めぐみさんが拉致された日である。このときのご夫妻の様子は今でも忘れることができない。
藪中団長から実務者協議の結果について一通りの説明が終わると、螺鈿装飾の漆器調の器が調査に同行した鑑識課員の手でテーブルに丁寧に置かれた。それを前に、目に涙を浮かべた滋さんが無言で座っている。初めに沈黙を破ったのは早紀江さんだった。
「めぐみは生きていますから、これは警察の方でしっかりと調べてください」
早紀江さんは毅然としてそう言い、「遺骨」を証拠として鑑定処分に付することを承諾してくれた。感傷的になることもなく、淡々とした所作だった。それは娘の生存に対する確固たる信念の発露でもあった。
2カ所で「遺骨」を鑑定
横田ご夫妻への面会後、小泉純一郎内閣総理大臣、細田博之内閣官房長官への報告。それを終えると、直ちに持ち帰った資料を捜査手続に乗せる作業に取りかかった。勿論、最優先は螺鈿装飾の漆器調の容器に入った「遺骨」だった。
私は、このめぐみさんの「遺骨」とされるものについて、あらかじめ真正だとも、偽物だとも決めつけてはいなかった。予断を持たず、科学の手に委ねようとしていた。
2004年11月18日、外務省も加わって「遺骨」の見分を終えると、翌19日には刑事手続に付されることになる。そのことを横田ご夫妻にお目にかかって改めてお伝えした。実務に当たる新潟県警は、直ちに差押許可状の発布を得てこれを差し押さえた。
遺骨鑑定における最初の重要過程は、「遺骨」の中から鑑定に適した検体を選定することだった。
作業は翌19日午後4時、警察庁16階の大会議室で、新潟県警はもとより、外事課員や科学警察研究所(科警研)の技官らが集まって始まった。
係官らが手際よく長方形の机を部屋の中央に寄せて大きな作業台を作り、紙を敷き詰める。全員が防護衣、マスクを着け、外事課員らが見守る中、科警研の職員が螺鈿様の器から骨を取り出し、テーブル上に置いた。職員らはゴム手袋をした指先で骨片を丁寧に目の高さまで持ち上げて観察し、DNAの痕跡があり、かつ、ある程度の質量がある骨片を選んでいく。最終的にDNA型の検出が最も期待できそうな10片を選び、5片ずつを2組に分けた。
同月21日には鑑定処分許可状の発布を得て、内容物を科学的に分析する体制が整うことになる。
DNA型の鑑定の依頼先については当初から、科警研とそれ以外の機関の計2カ所とする方針だった。客観性と公正性を担保するためだ。
科学警察の最高峰、科警研で得た結果を、もう1カ所の鑑定機関の結果が補強すればいいと考えていた。科警研以外の鑑定嘱託先は、当時、警視庁が微物に対するDNA型鑑定を嘱託し、目覚ましい成果を上げていた帝京大学法医学研究室とした。
DNA型は一致せず
2004年12月8日、科警研と帝京大に嘱託した鑑定結果が出揃った。
科警研は「判定不能」。一方、帝京大法医学研究室では吉井富夫講師が検出に成功した。吉井講師の鑑定手法は「ネステッドPCR法」と呼ばれるもので、DNAを増幅するPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)検査技法の一種だ。新型コロナウイルス感染症の蔓延で昨今、広く知られるようになった「PCR検査」と同じ原理を用いるものだ。
骨片5個のうち4個から同一のDNA型を検出し、残る一個からは別のDNA型が検出されたが、いずれもめぐみさんのDNA型とは一致しない――。
この結果を受け、午前中に漆間長官まで報告。正午からは瀬川警備局長とともに、官邸の二橋正弘内閣官房副長官に報告することとなった。
鑑定結果は全マスコミの注視するところであり、取材合戦は異常な熱を帯びていた。そのため情報の保全を考えて、二橋副長官には総理官邸向かいの内閣府別室にお越しいただいた。そこには既に訪朝団長の藪中局長、齋木昭隆外務省アジア大洋州局審議官らが揃っていた。
「北朝鮮側提供の検体から採取したDNA型は、めぐみさんのものとは一致しなかった」
瀬川局長がおもむろに結果を口にすると、二橋副長官の表情が明らかに険しくなっていく。藪中局長と齋木審議官はその場で直ちに、官邸用の当面の想定問答を書き始めていた。
この後、「偽遺骨」は北朝鮮に対する怒りとなって、日本の政治、外交、社会に大きなうねりを引き起こすことになる。
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