メンタルヘルスの大切さは以前より語られるようになったものの、G7の国々の中で自死者の総数が数年にわたり1位であり続ける日本。なぜ日本人のメンタルヘルスをめぐる状況はかくも深刻なのか? 今夏報道され注目を集めた女性起業家の深刻なハラスメント体験をめぐるニュースを出発点に、働くこととメンタルヘルスの関係を、経済学者の浜田宏一さんとの共著『うつを生きる 精神科医と患者の対話』の著書があり、小児精神科医でハーバード大学准教授の内田舞氏が考える(長年VCとして起業家をサポートしてきた湊雅之さんへの取材をもとに構成しています)。(全3回の1回目/続きを読む)
◆◆◆
女性起業家の深刻なハラスメント体験
今年の夏、「過去一年間にセクシャルハラスメントを経験した女性起業家が半数を超える(52.4%)」というスタートアップ業界を取り巻く状況がNHKで報道され、大変注目されました。番組内で紹介された女性起業家たちは、投資やアドバイスを受ける「見返り」として性的な関係を求められるといった深刻なハラスメント体験を語り、その過程で起業を諦める選択をしたと語る人もいました。
このようなハラスメントが決して許されるものではないのは言うまでもありませんが、これは日本の労働市場の中で圧倒的なマイノリティである女性たちを取り巻く構造的差別を浮き彫りにするもので、長く続くその精神的な影響は計り知れません。精神科医である私はメンタルヘルスの観点からも大変問題だと感じました。
そこで、この記事では、スタートアップ業界という、厳しい競争が求められるがゆえにある意味で問題がビビッドにあぶりだされる現場を出発点に、女性でも男性でも直面する「働くこととメンタルヘルス」の問題を考えてみたいと思います。
助けを求めるハードルの高さ
さて、メンタルヘルスの大切さが以前よりも語られるようになってきたものの、助けを求めるためのハードルは未だ高いと感じられる方が多いのが現実です。冒頭に述べたようにハラスメントなどの被害体験と絡まっていることも少なくなく、そのような状況では、さらに声をあげたり、相談することへのハードルが高いのは言うまでもありません。
特に我々日本人は心が辛いときも「我慢」を美徳とし、精神的な悩みは「弱さ」と結びついていると捉えがちなようです。その結果、自分自身が「弱い」あるいは「クレイジーだ」と思われることを避けるために、辛い思いをやり過ごし、助けを求めない傾向にある。これは誰にでも思い当たるところがあるのではないでしょうか。
必要な時に助けが求められないのはありふれたことに思われて、その実害は無視できません。調査によると、自死者の総数はG7のなかで複数年にわたって日本が一位。カウンセリングなどのメンタルヘルス専門家受診率はアメリカやイギリスなどの西ヨーロッパ諸国ではほとんど50%を超えるのに比べて、日本ではわずか6%ほどにとどまるのです。他の先進国と比較して圧倒的に低い受診率の数字を見ると、日本において精神的な相談をすることのハードルがもっと低かったら、助けを必要とする方が必要なケアにもっと繋がっていたら、と思わずにいられません。
ケアを受けることを「弱さ」として受け取るのではなく、自身の幸福、あるいは成功のための一助として捉えてほしい。しかし、なかなかメンタルヘルスを優先しにくい、そしてサポートに手が届きにくいカルチャーが未だに残っているのが日本の現状ではないでしょうか 。では、こうした状況をどうやったら少しでも改善できるのでしょう?
メンタルヘルスの大切さが軽視されがちなビジネス業界のなかでも、とりわけ強くあることを求められる「起業家」のメンタルヘルスに注目してみたいと思います。問題のあらわれが顕著であるだけに、診断と処方箋がある意味でクリアに見えてくるはずです。
起業家のメンタルヘルスの現状
さて、起業家のメンタルヘルスをめぐるシビアな状況はデータが物語るところです。Amazon創業者のジェフ・ベソスや、Microsoftの創業者のビル・ゲイツも、自身の不安やバーンアウトの経験について語っていますが、彼らは決して例外ではありません。Forbes誌が行ったアメリカの起業家の調査報告では、起業家の72%はメンタルヘルスに苦しんでいると答え、37%は不安症、10%はパニック発作、36%はバーンアウトを経験したと回答しています。さらに、81%の起業家はストレスや精神的な苦痛を他人には悟られないように、見せないようにしていると答え、その過半数以上が、共に起業した共同創業者にさえも自分の精神的な苦痛を見せないようにしていると答えています。そして、77%は専門家からのサポートを拒み、男性の起業家は女性の起業家に比べて約2倍メンタルヘルスに対する偏見を持っているという結果が報告されました。https://www.forbes.com/sites/annefield/2023/04/29/startup-founders-report-entrepreneurship-is-taking-a-toll-on-their-mental-health/
起業家の多くは新しいアイディアや製品が世の中に大きな影響を与える夢を見られる素晴らしいポジションにありますが、その旅路には特有のストレス要因が山積しています。資金の調達、キャッシュフローの管理、収益性の確保といった財務上の不安はもちろん、創業者は多くの場合、CEO、マーケティング担当者、人事、プロダクトマネージャーなどの複数の役割をやりくりすることもあり、自分が動かない限り何も進まないというハードな状況におかれています。
創業期には少数で複数の役割(ロール)をこなす必要があるだけでなく、起業時よりも事業拡大のステージが上がり、チームの数が増えるにつれ、その権限を移譲して自分の役割を「起業家」から「経営者」に進化させていくことが求められるのです。また、この過程で、顧客、従業員、投資家・金融機関などの資金提供者などのステークホルダーが、それぞれどのような利害や希望を持っているのかを理解し(ときにはそれが拮抗することもある)、応え続けなければいけない。
こういった労働は、すでに確立されたシステムの中で一人の従業員として向き合うのであれば、また意味は違ってきます。昇進や昇給の未来が見える中でこなすのであれば、短期的には耐えられるものかもしれません。しかし、慢性的に不確実な状況に身を置き、仕事に関わる頭を常に「オン」に保たなければならない状態は身体的にも精神的にもなかなか疲れるものです。これは起業家ばかりか、組織において新規事業立ち上げをはじめ、大きな責任を担う他のポジションにある人たちもまた、身に覚えがあるのではないでしょうか。
支配的な関係を受け入れない
冒頭のスタートアップ業界のハラスメントの話に戻ってみましょう。そもそも投資家というのは、ビジネスやアイディアにお金を投資することで、そのビジネスが成長し、金額が大きくなって返ってくることで成立する仕組みです。大きなお金を動かすリスクをとるのも当然、投資家の仕事のうち。
こうしてビジネスの成長を共通のゴールに掲げながら、お互いが別々のリスクを請け負うパートナーシップにおいて、起業家に発生する責任は投資されたビジネスを成長させることであって、ビジネス外の要求に答えなければならない「借り」があるわけでもなければ、投資家と起業家の関係においてどちらか一方が支配的なパワーを持つものでもないはずです。
これは起業家と投資家の関係に限られたものではありません。もし、自分の役割には結びつかない評価がされていると感じたら、あるいは支配的なパワーバランスのなかでの「見返り」を求められていると感じたら、そんなときこそ自分の大切にしているモットーやビジネスのビジョンといった「内的な評価」に立ち返ることが大切になります。自分自身の本当の価値からはズレてしまった外側からの、「外的な評価」に寄り添う必要はないのです。
起業家にとっての「内的な評価」と「外的な評価」とは何なのか? 次の回(#2)で紐解いていきましょう。
〈成功しているはずなのに、自分の能力を疑ってしまうインポスター症候群はなぜ起こるのか? 「外的評価」と「内的評価」を手掛かりに考える。〉へ続く
提携メディア