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メンタルヘルスを守るためのヒント

メンタルヘルスを守るためのヒント

内田 舞

内田舞×浜田宏一『うつを生きる 精神科医と患者の対話』(文春新書)スピンアウト企画#3

出典 : #文春オンライン
ジャンル : #ノンフィクション

成功しているはずなのに、自分の能力を疑ってしまうインポスター症候群はなぜ起こるのか? 「外的評価」と「内的評価」を手掛かりに考える。〉から続く

 メンタルヘルスの大切さは以前より語られるようになったものの、G7の国々の中で自死者の総数が数年にわたり1位であり続ける日本。なぜ日本人のメンタルヘルスをめぐる状況はかくも深刻なのか? 今夏報道され注目を集めた女性起業家の深刻なハラスメント体験をめぐるニュースを出発点に、働くこととメンタルヘルスの関係を、経済学者の浜田宏一さんとの共著『うつを生きる 精神科医と患者の対話』の著書があり、小児精神科医でハーバード大学准教授の内田舞氏が考える(長年VCとして起業家をサポートしてきた湊雅之さんへの取材をもとに構成しています)。(全3回の3回目/最初から読む

◆◆◆

失敗してもいい、という心の余裕を持つ

 では、どうやって内的評価を育てることができるのでしょうか。

 一つには、「失敗してもいい」と思える心の余裕を持つことです。

「失敗」は避けたいのは事実であり、そのための知識を得て、努力することは大切です。しかし、リスクがない起業というのはなく、ときには「失敗をしてもいい」と思えることが、良い判断に繋がることもあるのです。だから「失敗」にも絶望する必要はありません。一つの側面から見た結果が「失敗」であっても、その過程で努力したこと、つくりあげた人間関係やツールの価値は変わりません。また、そんな失敗を経て、逆に自分たちのストロングポイント(強み)は何なのかが明らかになることもあるのです。

 例えば、ビジネスのコミュニケーションアプリとして多くの企業や団体で使われているSlack。創立当初は実はゲーム会社でしたが、ゲームの収益はいまいちで、「失敗」に終わりました。しかし、ゲームの制作と売り出しの過程で作られた社内のコミュニケーションシステムに自社のストロングポイントを見出したことで、そのツールが今あらゆるビジネスシーンで使われているSlackの開発に繋がったそうです。

 このようにもし一つの指標で失敗があったとしても、その失敗から学び、そこまでの過程をみつめ直すことで、次の指針が見えてくることもあるのです。

Slack ©Unsplash

 他にも、配車アプリとして米国ではタクシー業界をリプレイスしたと言われるUberも、様々な事業で失敗した先にいきついたのが今の事業であり、また、日本で数少ないユニコーン企業(創業10年以内に10億ドル以上の評価額を得た企業)であるSmartHRも、12回も事業転換して現在の事業形態に行きついたという経緯があります。こういった一つ一つの企業の誕生と成長のストーリーは、やはり「新しいこと」を成すには、失敗を繰り返し、学び続ける必要があることを物語っているのです。これは何もスタートアップに限らず、どんな仕事においても同じかもしれません。

多様な軸に目を向ける・単一の世界から飛び出す

 また、単一の評価軸に縛られるのではなく、人生、あるいは業界の中でも多様な軸が存在することに気付くことが大切です。

 私たちは現代社会の中で、単一的な評価に晒され、縛られがちです。例えば試験で良い点数を獲れたかどうか、受かったかどうかという成績と合否が人生やキャリアを長きにわたって左右する日本の「受験」文化。「○○偏差値」、「○○ランキング」という言葉が流布しているように、受験を通過してもなお、わかりやすい単一の軸で評価することに慣れてしまって、なかなか「自分なりの軸で自分を見つめる」機会がないのかもしれません。

 しかし、内的な評価を育むのに大切なのは、世界の多様さに触れ、評価軸というものは単一ではなく、複数の軸があるということを知るということ。そのための小さな体験の積み重ねなのです。では、単一の世界から飛び出すためにはどうしたらいいのでしょうか?

 一つの評価軸、あるいは一つの世界から飛び出す、と考えると、少しハードルが高いように思えてしまうものですが、実は身近な場所に「仕事以外の世界」は存在します。

 ハードワークに身を投じる人にとって適切なワークライフバランスを見出すのは難しい課題かもしれません。だからこそ、意識的に仕事と私生活の間にバウンダリー(境界線)を確立することも重要です。もちろん、我を忘れて仕事に身を投じるようなワーク偏重にならざるを得ない時期も存在するものですが、その中でも少しでも隙間を見つけて休息を取ることの効果は絶大です。

 ちょっと屋外に出て、木々にとまっている鳥に目を向けてみること。近所を歩いて外気を吸ってみること。違う会社、あるいは違う業界の知人とテキストでもいいので、小さな会話をしてみること。ジムに行って、仕事では使わない筋肉を育ててみること、そこで関わる人に目を向けてみること。自分以外の人の挑戦を応援してみること。

 また、家族がいる人であれば、「家庭」自体も、仕事の外の世界の一つです。パートナーとの関係に支えられることに加えて、子どもを育てるというエンドレスなタスクの中からも、フレッシュな考えが生まれ、仕事と直結しなくともそれこそがかけがえのない財産となることもあるでしょう。近年は男性の起業家やCEOが育休を取るケースもメディアで報じられるようになりましたし、起業家にかかわらず、男性の育休取得率は伸びてきています。

男性の育児©Unsplash

 この点は日本も少しずつではありますが変わってきている証なのかもしれません。さらに、近年、若者の早期退職も増えていることが、メディアでは企業側の立場からネガティブに報道されることもありますが、若者が一つの組織の価値観に縛られなくてもいいと思えるような従来とは異なる環境が育っていることは、一概に否定するものでもありません。捉えようによっては内的評価を大事にする世の中になってきていることの表れでもあり、雇用の流動化をプラスに活かすことのできる人たちもいるはずです。

思いをシェアできるカルチャーができてほしい

 さて、内的評価とメンタルヘルスを育て、守るために大切なことは何でしょうか。スタートアップ業界に限らず、私が大事だと思うのは、メンタルヘルスについて、それぞれが感じている心理的負担について互いに率直な会話をしてもいいと思えるような雰囲気が生まれることです。

 再度スタートアップのような環境を考えてみると、その業界特有の不確実性やリスクのレベルを最小限に抑えることのできる簡単な方法などありません。それに不安を全く感じなくなるような魔法もありません。しかし、業界を違えて、あるいは同じ業界内でも忌憚なく会話のできる相手がいれば、そんな思いを抱えているのは自分だけではないとわかって負担が軽減されることもあるでしょう。

 同じことを経験している他の起業家と思いを共有したり、あるいは「成功してほしい」とサポートしてくれている家族に思いを打ち明けること、あるいはセラピストなどの専門家に話をしてみること。思いをシェアするというのは、メンタルヘルスを守るための大きな一歩なのです。そして、多くの場合は一番大切な一歩でもあります。

 この記事の冒頭で紹介した調査で、「約8割の起業家がセラピストや精神科医などのメンタルヘルスの専門家に助けを求めることを拒む。特に男性は女性に比べて2倍近くメンタルヘルスのケアを受けることへのスティグマを持つ」という報告がありました。未だに男性は「強くなければならない」「弱い感情を持ってはならない」という固定観念、無意識の偏見に縛られがちです。これは日本のみならずグローバルにあてはまることでしょう。

©pixabay

 男性の多いビジネスの業界においてはとりわけその傾向が強く、その中で頑張るマイノリティの女性もその「常識」の影響を多かれ少なかれ受けざるを得ません。冒頭の女性起業家のハラスメント体験の隠れた多さは、まさにその男女の非対称性ゆえに生まれる歪んだ被害状況と言えそうです。被害にあっても声が挙げられなければ、それだけメンタルヘルスは長期に負の影響を受けるのです。

 しかし、メンタルヘルスを優先することは、個人の健康に有益であるだけでなく、スタートアップの持続可能な成長と成功にも不可欠と言っても過言ではありません。不調や負担の重荷を声にすること、そして心のバランスとサポートのための「戦略」を積極的に模索する、あるいはケアを受けることは、「弱い」ことではないと思うのです。皆さん、どうかご自分を大切になさって下さいね。

文春新書
うつを生きる
精神科医と患者の対話
内田舞 浜田宏一

定価:1,078円(税込)発売日:2024年07月19日

電子書籍
うつを生きる
精神科医と患者の対話
内田舞 浜田宏一

発売日:2024年07月19日

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