1995年秋、アメリカの大学院を卒業したばかりの私がワシントンDCのオフィスで仕事をしていたとき、デスクの電話が鳴りました。
受話器の向こうは、ジュリアン・ロバートソンの秘書。ジョージ・ソロスのヘッジファンドと並ぶ巨大ヘッジファンド「タイガー・ファンド」の創設者兼オーナーです。業界にその名を轟かせる超ビッグネームで“神様”に等しい人物が、私と話したいと言うのです。
電話口に出たジュリアンは余計なことは一切言わず、単刀直入に問いただしてきました。
「要するに、お前が言いたいのは、これこれこういうことなんだな?」
彼は、私が書いたレポートの内容を確認するために電話をかけてきたのです。
私がレポートの内容を噛み砕いて説明すると、彼は最後にこう念を押しました。
「じゃあ、お前はさらに円安が続くって言ってるんだな?」
「イエス!」
「わかった」
わずか数分間の出来事でした。
まさか業界の超大物がまだ30歳にも満たない駆け出しの若造に直接電話をかけてくるなんて。そして数時間後、ジュリアンが巨額の円売りを実行したことを聞きました……。
私の仕事は、「ヘッジファンドをはじめとするプロの資産運用者に助言をするコンサルタント」です。政策や政治の動きをウォッチし、政府当局者から話を聞き、データを読み解きながら、金融市場の見通しやリスクを分析する。そして、ヘッジファンドや金融機関、資産運用会社、政府系金融機関(ソブリン・ウエルス・ファンド)など、巨額のマネーを動かす国際的な顧客に、定期的にレポートを提供しています。振り返れば、この業界に身をおいて30年近くになりました。
私の会社のビジネスモデルは、顧客ニーズに合わせるオーダーメード型なので、顧客数は限定的ですが、高額な契約料になります。高額なコンサルティング契約を結ぶ以上、対話するだけの価値があると先方が考えない限り、破綻してしまうビジネスモデルなので、ストレスにもなりますが、学ぶことも非常に多くあります。
新自由主義の終わりと日本の復活
いわば資産運用業界の“黒子”に徹してきた私が、なぜ初めて本を書くことにしたのか。それは、日本の方々に伝えたいメッセージがあるからです。ひとことで言えば、日本は今、数十年に一度の大きなチャンスを迎えているということです。
2021年以降、私は世界のプロの投資家に対し、「新自由主義的な世界観に支えられてきた既存システムは信認(コンフィデンス)を失った。根幹世界観へのコンフィデンスが崩れた以上、パラダイムシフトが発生する」と訴えてきました。そしてその結果、勝者と敗者の入れ替え戦が始まり、日本は勝ち組になる、と。
当初はあまり理解されませんでした。話のスケールが大き過ぎて、具体的なトレードに落とすことができなかったのがその一つの要因でしょう。しかし時間の経過と共に、パラダイムシフトが明らかになり、今ではマクロの投資判断に不可欠な、むしろ最重要要因の一つになっています。
そして私が指摘したように、日経平均株価は2023年の春頃から上昇基調にあります。
今、私たちはアメリカにおけるトランプ現象、イギリスにおけるブレグジット、欧州における極右や自国中心主義の台頭、米中対立、ウクライナ戦争など、多くの混乱を目のあたりにしています。こうした激変は単発の事象がランダムに発生している結果なのでしょうか?
私はこれらの現象には共通の背景があると考えています。それは「新自由主義への反乱」です。
東西冷戦後の世界秩序を支えてきたのは、新自由主義的な世界観でした。本書で意味する新自由主義については第1章でより詳しく述べますが、端的に言うと、1930年代以降、世界システムの支配的な世界観となった「大きな政府」への挑戦として始まり、1991年のソ連崩壊を機に、新しく世界標準システムとして受け入れられるようになった「小さな政府」の価値観を指します。
政府の意思決定や役割を縮小し、市場原理、民間企業や各個人の意思、判断、選択をより重要視するものです。たとえば、各国政府の裁量が大きい通商政策の代わりに、ルールベースの貿易を促進するためにWTO(世界貿易機関)が作られたのは1995年です。それは新自由主義的な価値観を現実化するためのメカニズムでした。
また、新自由主義は、性別、人種、国籍など属性の異なる各個人が、市場を通じて、世界中から自由に参加するシステムを目指すので、より平等で民主的な世界を目指す価値観でもあります。マイノリティの尊厳、権利、機会の尊重も1990年代以降、急速に浸透しました。
ところが今、新自由主義に対し、世界各地で強烈な反発が巻き起こっています。新自由主義の世界観は信認を失い、既存システムが大きく揺らぎ、機能しなくなっているのです。それを理解すると、トランプ現象やブレグジットだけでなく、米中対立やウクライナ戦争を紡ぐ共通項が見えてきます。
そうした現象が病気の症状だとすれば、それを一つ一つ個別に追うよりも、病根を見つける方が的確な対処と効果的な選択が可能になります。その病根こそが、それまで世界の行動規範となってきた新自由主義的価値観の崩落なのです。
カジノのオーナーはアメリカ
過去100年から150年程度を振り返ると、世界規模の価値観の地殻変動が二度起きています。第一の地殻変動は、「自由放任主義(レッセ・フェール)」から「大きな政府」への転換。第二の地殻変動は東西冷戦の終結に伴う新自由主義的世界観、「小さな政府」の台頭です。
そのどちらにおいても日本は重要な岐路に直面しました。最初のケースでは、日本は最終的に真珠湾攻撃に至ります。二つ目のケースでは日本経済のビジネスモデルが瓦解し、「失われた30年」に突入しました。大局的な観点から近現代史を見ると、今後、世界で何が起きるのか、それを考える上で非常に参考になります。
そして今こそ、それを考えるべきタイミングです。なぜなら、新自由主義的な「小さな政府」の世界観が地殻変動を起こしているからです。
既存システムが大きく変わるときは、それを支えてきた世界観、統治観も変化します。たとえば、7世紀の「大化の改新」は、それ以前の豪族中心の統治観が揺らぎ、天皇を中心として、唐の律令制や儒教を応用した世界観への変化に繋がりました。鎌倉幕府と武士の世、黒船来航と明治維新、昭和の敗戦、20世紀末の東西冷戦の終結も同じです。
ある世界観には、必ず「裏書人」がいます。そして、新しいシステムを支える世界観ができるとき、必ずシステムの「裏書人」に有利なようにつくられます。たとえば武士の台頭と鎌倉幕府の誕生により、小さくは執権となった北条家、大きくは武士階級全体の統治を正当化する世界観が浸透しました。それが覇権を握る者(覇権国家)の特権です。ある意味、カジノのオーナーと一緒で、必ずハウスが勝つようなシステムを築きます。
産業革命以降においてはイギリスが、第二次世界大戦後はアメリカが「カジノのオーナー」となりました。アメリカが覇権国家であり続ける限り、必然的に次のシステムを支える世界観もアメリカに有利なものにしようとするでしょう。
ここで重要なポイントは、既存システムを支えてきた世界観が変化するとき、新しい勝者や敗者が生まれる点です。実際、新自由主義へのパラダイムシフトが起きたとき、それを主導し、変化をうまく乗り切ったのは、カジノのオーナーであるアメリカですが、アメリカは日本を勝てないテーブルに座らせました。冷戦下の日本は「大きな政府」時代のゲームで勝ちすぎたため、アメリカの戦略的競争のターゲットになったのです。
新自由主義の下で、日本はまさに最大の敗者となりました。政財官の「鉄の三角形」に支えられた日本株式会社方式の経済はボロボロになり、「失われた30年」で日本の地位は低下し続けます。
逆に、新自由主義台頭の恩恵を最も享受したのは中国でした。グローバル化によって世界の工場の地位を確立し、技術移転によって急速な成長を遂げています。
そして今、私たちの目の前で、新自由主義的世界観が音を立てて瓦解しつつあります。新自由主義によって潤った中国もアメリカに挑戦する姿勢を隠そうとしなくなりました。カジノのハウスの地位をもぎ取ろうとする中国を、アメリカが黙って見過ごすことはないので、それを新冷戦と呼ぼうと、米中デカップリング(分断)と呼ぼうと、不可逆的な流れであることは間違いありません。
新自由主義に代わる新たな世界観がこれから登場するとともに、再び勝者と敗者の入れ替え戦が始まるのです。
新たなカジノのルールに乗り遅れないために
アメリカは「ここに座れば勝つ」というテーブルを、日本のために用意しています。もっとも、アメリカは善意で日本に勝たせようとしているのではありません。覇権国家は、自らの地位を脅かす存在を叩きます。日本が新自由主義の下で徹底的に叩かれたのも、東西冷戦下でアメリカの庇護を受けた日本経済の勢いが本家アメリカを脅かすようになったからです。
しかし今、アメリカは中国を封じ込めるために、「強い日本」の協力が不可欠になっています。この環境変化は、第二次世界大戦後、冷戦下のアメリカがソ連を封じ込めるため、「強い日本」を求めた時と似た状況です。
では日本はこの千載一遇のチャンスをつかめるのでしょうか? 懐疑派は指摘するかもしれません。たとえば「少子高齢化の日本にそんな力はない」と。しかし江戸時代末期に黒船が到来した時、あるいは戦後すべてが焼け野原になった時に与えられたチャレンジと比較すると、私には今の日本の方がずっと潜在的に優位な立場にあると思います。
いずれにせよ、いまこの瞬間、私たちの目の前で、次の30年を規定するであろう、新たなカジノのルールが書かれようとしています。
そして同時に、日本の社会・経済は「失われた30年」というデフレのノルム(常態)から解き放たれつつあります。日本はすでに変わり出しました。
世界のマネーの奔流を見てきた私は、それを肌で感じています。日本という国家と、日本人の皆さんがこのゲームチェンジに取り残されないよう、私はこの本を書きたいと思ったのです。
「はじめに 日本復活の大チャンスが到来した」より