「超円安」に高まる不満
東京・日本橋にある日本銀行本店。2024年6月下旬のある日、どしゃぶりの雨の中、記者クラブがある北門に差し掛かったところ、青いバンから中年の男性が拡声器をもって降りてきた。そして、突然こう叫び出したのだ。
「日本銀行の職員の皆さん、優秀なんでしょう。エリートなんでしょう。なぜ円安を止められないのですか!」
あまりに急な出来事にあっけにとられた一方で、しばらくその問いが頭を離れなかった。「多くの人が同じ思いを抱いているのではないか」と感じたからだ。
同年3月、日銀はマイナス金利を解除し、10年以上にも及んだ大規模緩和からの出口に向け、歴史的な一歩を踏み出した。だが、当面緩和的な金融環境を維持すると強調する日銀の発信もあり、日米金利差は当面縮小しないだろうとの見方から、為替市場では対ドルで160円台という歴史的な円安が進んだ。
円安にはメリットもある。海外で事業展開する製造業にとって、円安は円換算での収益増につながる。増えた利益を賃上げや国内投資に回せば、日本経済にも恩恵が及ぶ。
だが、多くの家計にとって円安はデメリットの方が大きい。朝日新聞が2024年6月に公表したアンケートによると、「円安は、いいことですか?」という問いに対し、回答者の9割が「いいえ」と答え、「はい」はわずか1割だった。「いいえ」と答えた人の多くが、理由として食料品やガソリン価格の値上がり、それに伴う生活苦を挙げた。原材料やエネルギーの多くを海外から輸入する日本では、円安は生活必需品の価格上昇につながり、家計を圧迫するのだ。
消費者物価指数の伸び率(前年同月比)は既に2年以上、日銀の目標である2%を上回っている。にもかかわらず、日銀は低金利を維持する姿勢を変えない。これによって生じた日米金利差が原因で円安は止まらず、家計の負担は増すばかり。
「国民を苦しめる超円安を放置している日銀はけしからん」──日銀本店の前で叫んでいた男性の主張は、こうした人々の不満を映じたものかもしれない。
伝わりにくい日銀のメッセージ
日銀にも言い分がある。十数年前まで、日銀は製造業の収益を圧迫する急速な円高を放置していると批判されていた。長引く景気低迷への国民の不満の受け皿となって政権を奪還した安倍晋三元首相は、「アベノミクス」と呼ばれる経済政策の一環として、日銀に大規模な金融緩和の導入を求めた。そして2013年、黒田東彦総裁のもと打ち出された量的・質的金融緩和(QQE)は、円安をもたらしたとして喝采を浴びた。
それがいまや、過度な円安を放置していると批判されている。そもそも金融政策は為替相場を直接コントロールするためのものではない。あくまで物価と金融システムの安定のために遂行されるべきものだ。仮にゼロ%近傍にある金利を多少引き上げたとしても、円安が止まる保証はない。
当然のことながら、日銀が利上げすれば、住宅ローン金利や企業の借り入れコストは上昇する。5%程度あるアメリカとの政策金利差を縮小させようと急速に利上げすれば、脆弱な日本経済の腰を折り、デフレや景気低迷の再来を招いてしまう恐れがある。円安は止めてほしいが、景気を冷やす利上げも困る。このような要求は、日銀からすると無理な相談だ。論理性を重んじる、経済学者の植田和男総裁はとりわけそう感じているのではないだろうか。
植田総裁は、日本経済がデフレに苦しんでいた時期に日銀の審議委員を務めた。拙速な利上げの危険性をひときわ強く意識しているだろう。だからこそ、マイナス金利の解除直後は、当面緩和的な金融環境を維持すると強調していた。
他方、賃上げの動きに広がりが見えてくるにつれ、物価が持続的に2%程度で推移することへの確信が高まれば、今後数回にわたって金利を引き上げていくことも示唆している。だが、この利上げモードへの転換は、金融市場や国民にいまいち伝わっていない。それゆえ「円安を放置する日銀」というイメージもなかなか払拭されないのだろう。
こうした「伝わらない」時期が長く続いたゆえに、反動も大きかった。2024年7月31日の金融政策決定会合において日銀が短期金利の引き上げを決定し、同日の記者会見で植田総裁が今後も継続的に利上げしていくことを鮮明にした途端、今度は急速な円高と株安が進行したのだ。
翌週、内田眞一副総裁が火消しに回った。8月7日に北海道・函館市で講演した際、「金融資本市場が不安定な状況で、利上げをすることはありません」と明言し、早期利上げ観測を否定した。金融市場は即座に反応し、円安・株高が進んだ。投資家の不安心理は後退したが、日銀によるこの一連の発信がマーケットの攪乱要因になったことは否めない。
答えは「レトリック分析」から見えてくる
なぜ日銀のメッセージはうまく伝わらないのか。その一因として、植田総裁の丁寧だが曖昧な語り口があるのではないか──そう筆者は考えるようになった。緩和的な金融環境を維持しつつも、徐々に金利を引き上げていく。円安の影響は注視するが、為替を直接ターゲットにして金融政策を運営することはない。
抽象的で両論併記のこうした発言からは、日銀が将来どのような政策運営をするのか、いまいちわかりづらい。数々の非伝統的な金融緩和措置を導入したにもかかわらず、デフレ脱却への決意が足りないと批判された白川方明総裁も、政策の効果だけでなく副作用を丁寧に説明しようとした結果、国民にわかりやすいメッセージを打ち出すことができず、苦労していたように感じた。
一方、黒田東彦総裁はQQEを導入した際、「日銀の力でデフレは必ず脱却できる」と力強く語りかけることで、人々の心理に働きかけようとした。在任中に物価目標は達成されず、批判を浴びたが、断定調で歯切れの良い当時の発言は、海外投資家には強い印象を残したようだ。
このように、金融政策はその直接の効果だけでなく、伝え方も大事だ。経済理論上は正しい政策であっても、その効用について人々の共感を得るような説明ができないと、無用な批判やバッシングを受けてしまう。コミュニケーションが金融政策上重要なツールと位置付けられている今、政策の効果や意義についてわかりやすく伝え、金融市場や国民に理解してもらうことは不可欠だ。
では、日銀のメッセージがうまく伝わるかどうかを左右する要因は何だろう。この問いについて考えるうちにたどりついたのが、レトリックの世界だ。
レトリックとは、いわば説得の技法だ。有効に用いれば主張の説得力を高め、自らが紡ぐ物語(ナラティブ)を人々に受け入れてもらうことができる。政治家にとってレトリックを使いこなすことは必須の資質だが、金融政策におけるコミュニケーションの重要性を考えると、中央銀行の政策当局者にとってもきわめて大切なスキルだ。
また、レトリックは単なる修辞学ではなく、言説に潜む権力構造や社会関係も表す。使い方次第で、都合の良い情報をハイライトし、そうではない情報を隠すことができる。つまり逆に言えば、レトリックを分析することにより、日銀がどのようなナラティブを構築し、自らの政策をどう正当化しようとしているかがわかるのだ。
歴代の日銀総裁はどのようなレトリックを用いて、自らの政策の有効性を高めようとしてきたのだろうか。そして、金融政策の変遷に応じ、日銀のレトリックはどう変化したのだろうか。こうした点を明らかにすることにより、植田総裁のレトリックから将来の金融政策の行方についてヒントを得ることもできるだろう。本書は、ジャーナリストの現場経験を生かしつつ、レトリック分析の視点から日銀の金融政策を考察する試みだ。
筆者は、外国プレスの記者として長年、日銀の金融政策について取材し、英語で海外に伝えてきた。その経験から感じたのは、日銀は総じて国民とのコミュニケーションが苦手だということだ。金融政策は専門的なので、中央銀行の発信は曖昧かつわかりづらいものになりがちだ。だが、日銀の場合、そのわかりにくさは突出して高いように思われる。日銀の発信を英語で記事にする際、幾度も感じたことだ。この特性もまた、レトリックで説明できる部分が多い。
今や海外投資家は、日本の株式市場や円相場の動きを左右する巨大なプレーヤーだ。彼らに有効にメッセージを伝えるうえでも、日銀がどのようなレトリックを用いるかはますます重要になっていくだろう。本書では、海外投資家と頻繁にやりとりする中で感じた日銀レトリックの特徴や、取材上の体験談も紹介する。世の中になじみの薄い金融政策、そしてそれを報じる外国プレスの存在を少しでも身近に感じてもらえれば幸いだ。
「はじめに なぜ日銀のメッセージはうまく伝わらないのか?」より
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