
- 2025.03.06
- 読書オンライン
動画メディア時代の批評のススメ
千葉 雅也,三宅 香帆
千葉雅也×三宅香帆『文藝春秋オピニオン 2025年の日本の論点100』より #2
出典 : #文春オンライン
ジャンル :
#政治・経済・ビジネス
〈言葉がフラット化し、ノイズが嫌われるAIの時代に読むこと、書くことをどう励ますのか?〉から続く
「紀伊國屋じんぶん大賞2025」で2位に輝いた『センスの哲学』の著者であり、哲学者・作家の千葉雅也さん。同賞3位、そして見事「新書大賞2025」を受賞した『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の著者である文芸評論家の三宅香帆さん。話題のお二人が2025年の展望を語り合った初の対談を『文藝春秋オピニオン 2025年の日本の論点100』より転載してお届けします。
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読書におけるハレとはなにか?
千葉 ところで話はとぶようですが、ここで三宅さんの『なぜ働いていると~』にも引きつけて、読書におけるハレを考えてみたい。最近、『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』という本がちょっと話題になりましたよね。『走れメロス』を初めて読んだ人が、いちいちものすごく感動する。本といえば実用書という今の時代、そこでは非実用書である小説にハレとして出会い直すみたいなことが起きているわけです。

三宅 あと、2024年は『百年の孤独』が文庫化されてすごく売れましたよね。『百年の孤独』に挑戦すること自体がハレの体験になっているというか、「体験としての読書」を買い求めているところがあるかもしれないと思いました。
千葉 文豪の表紙を今風に変えるのも同じですね。ただ放っておくだけでは売れなくなっている名作というノイズとどう出会わせるか、その回路の作り方が大事になっている。
三宅 ノイズをもたらすものとしてのハレの日といえば、私にとっては村上春樹さんの新刊発売日がそうです。村上さんの小説を読むと、「行きて戻りし」の物語構造ではないですが、現実とは違う世界に入り込み、価値転倒を通過して帰ってくる感覚があります。「ハレとしての読書体験」は、日常の文脈と異なるノイズの渦に入る瞬間でもある。
「有限性」とどう付き合うか
千葉 今日みんながハレを求め、それぞれハレの調達方法を持っているとはまず言えるでしょうね。われわれ言語に関わる仕事をしている人間も、そこの一端を担っているところがある。あと、コロナという文脈もあるでしょう。リモート会議の普及もあって世界が無時間的、無空間的になり、自分がいつどこにいるのかわからないような感覚が生じた。でもいま、もう一度特定の時空間にこだわる不便さ、そこから得られる面白さを回復しようとしているんでしょうね。
三宅 身体性、生きている実感を取り戻している感覚がある気がします。例えば私は趣味で着付けを習っているんですが、着物の世界を知ると、季節の変わり目を細かく意識させられます。時期によって着る着物が変わるんですね。そうした季節感は、仕事の場面ではむしろノイズになるかもしれないのですが。
千葉 着付けにしても季語にしても、ある制約があることで工夫の余地も出てくるし、創造が生まれる。何でもいつでも可能だし、何をどう選んでもいいとなったときに、制約とどう付き合うかがいろいろ問題になっているんですよね。
もしかすると推しというのも、自分の人生を充実させるために調達してきた仮初の制約に過ぎないのもしれない。「ちょっと違うな」と思ったら突然鞍替えしたり、やめたり、実はそこには本質的な忠誠心はないんじゃないでしょうか。となるとハレの話というのは、いろんなことが自由化した後に、「有限性」と再びどう付き合うかという話なのかなと。
三宅 まさに有限性の話だと思うのは、「推しは推せる時に推せ」という言い方です。いつか推しからは卒業する、だから今こそ推すのだ。小説や言葉を読む行為も実は同じですよね。言葉は基本的に一人の人が書いたものだから、それを読むとき、私はその作者とだけ「対になる」ような感覚があります。映像でも音声でもなく私が本に向かうのは、その有限性を求めているからかもしれません。
なぜ「言語化」すること、文体に関心を持つのか
千葉 三宅さんは以前から、文章がどう書かれているか、いかに言語化するかという文体論がお仕事の核にありますよね。時代的な要請がありつつ誰もが「言語化」は難しいと言うなかで、『「好き」を言語化する技術』はそれを後押ししてくれる本ですよね。最大限どれくらい書けばいいか、どういうフォーマットで書いたらいいか、そうした書くための許しをどう与えるかというのも、広くは文体の問題です。ずっとそういう関心をお持ちなのは、なぜでしょうか。

三宅 私はもともと万葉集の研究をしていたのも関係しているのか“文体フェチ”なところがあるんですね。プロの作家それぞれの文体はもちろん、知らない人のブログを読んでいても、その人ならではの文体に触れると嬉しくなる。逆に、流行りの言葉に飲み込まれかけているのを見ると、「あなたのよさはそこではない!」とつい言いたくなってしまったり……。何か他人の固有性のようなものに惹かれるんです。
千葉 現代は言葉がどんどんテンプレ化している時代ですよね。ノイズを排除しないと仕事がやっていられないから、ノイズを持ち込むような読書が嫌われる。だから言語の身体性を大事にするような純文学は、なかなか読まれなかったりする。でも、今のように言葉がフラットになり、情報価値が中心的になりつつある時代に文体という個性のあり方を語るのは、ある種の時代に対する抵抗だという感じでしょうか。
三宅 はい、まさに抵抗です。それこそ情報だったら、究極的にはAIの言葉でいいはず。でもたとえば若い世代で短歌が流行っていますが、35文字という枠組みは同じなのに、みんな違うところがいいなと思うんです。今はどうしてもバズりやすい言葉、ノイズのない情報だけを伝えるシンプルな文体が好かれがちな世の中になっていると思うので、それに引っ張られない、その人固有の価値がより大事になっているのではないかなと思います。

千葉 ネガティブに言うと、分かりやすく人を刺激する方向ですね。だから、もっと多様なあり方が大事だと。
異質なものを取り出す批評の面白さ
三宅 それから私自身、批評を読むのが好きで、学生時代に読んだ斎藤美奈子さんや宇野常寛さん、江藤淳さんや福田和也さんの文章に出会った時のきらめきが原体験にあります。でも、批評は今どんどん敵視されていますよね。布教しないとなくなってしまう危機感があるんです。だからまずは私の文章で慣れていただいて、次は本格的な批評に進んでもらえるような入り口を作れたらなと。
千葉 僕は三宅さんの『名場面でわかる 刺さる小説の技術』という本を面白く読んでいたんです。作家の文体批評を久しぶりにされている方だなと。いろんな名場面のピックアップの仕方が面白くて、その解説を読んでいくと、内容とつながる各作家の特徴分析が展開されていく。作家の文体からモジュールを取り出してきて、ある種のエモさの成立条件が暴かれたり、「刺さる文章」を書くための方法論構築とも読める。そしてその先には批評が見えていますよね。
そうやってみんなが隠すことで成り立っていた業界的権威性を白けさせるみたいなことを方法論的にやってしまうことが、僕は非常に好きなんですよね(笑)。
三宅 最近の千葉さんのお仕事で一番感動したのが、実は浅田彰さんの『構造と力』の解説文です。誰もよく分かっていなかったあの本を構造的に解体して見せる。「そういうことだったのか!」と感動しました。そうした作品の構造解析は現代にもっとあるべきだよなと思いました。

千葉 20世紀だったら、そういう構造論的な仕事がなされたうえで、じゃあ次の絵画はどうするのか、次の映画は、小説は、ということが議論されて作られてきた。それがいま浮いてしまっているように見えるのは、どんなジャンルも一度飽和してしまった以上、属人的なパワーで評価するしかなくなってしまったからかもしれませんね。
三宅 それでも、読む側としては、やっぱり作品と批評の両輪があってほしいです。いま、自分のアイデンティティを代弁してくれる作品を評価する人が批評家だというイメージを持っている人が多いと感じているのですが、自分と同じではないものの中にも面白いものはたくさんある。
千葉 異質なものをも取り出す、それが広く批評の仕事ですよね。
ノイズは復活するのか?
三宅 今の若い人たちを見ていると、情報を得る手段がテキストよりも「人」重視だなと思うことがよくあります。
私の世代は大学に入ると同時にスマホを持って、Twitter(X)も当たり前にあって、ネットといえばテキストベース。バズったツイートが偶然目に入るように、人よりも情報が前にやってくるものでした。ところが下の世代は、YouTubeやTikTokのような動画ベースで人を見ている。「このユーチューバーから得られる情報なら信頼できる」という感じで、人に紐づいた情報を得ている。それこそ推しの論理だなと。
千葉 なるほど、それは考えさせられるものがありますね。組織の仕事なんかは基本的に脱属人化へ、つまり誰がやってもシステムが問題なく機能する方向へと向かっている。それに対してどんな経営でもあくまで人が重要だということは僕もよく言うんですが、その文脈とは違うもっと日常的なところで、情報の取り方がユーチューバーの誰か「この人」と決めた属人的なものになっていると。
三宅 TikTokで本紹介をしているけんごさんに聞いて驚いたのが、TikTokは尺が短いので、作家名すら言わないということです。あらすじを説明して、題名を言う。ところが、小説紹介において「作家名はもはやノイズ」なのだと。
千葉 なるほど面白いですね。その話を聞くと「批評なんていらない」とノイズ扱いをされている理由もよくわかります。でも、それは人が求めているハレが深い意味でのハレになってない、という問題でもあるかもしれない。本当のハレというのは、正と負がひっくり返っているとか、逆のものがくっつくような事態であって、何か無駄な時空の中に入っていくということをもう一回考える必要がある気がします。
三宅 批評はハレを解体するもののように見られているのかもしれないですね。あるいはトリックスター的なハレはちょっと疲れるから、日常に戻ってきやすいぐらいのハレが求められがちなのが現在だと言えるかもしれません。
千葉 いまの意味や意義が優先される文学や芸術のとらえ方も、情報効率化、つまりタイパ、コスパという広い意味で役に立つということのベクトルの中にあることなんでしょう。でも、それでもノイズをどこかに求めるところがあるから、いまだに芸術はなくならない。
三宅 動画メディア隆盛の時代はまだ続くでしょうから、2025年に広い意味でのノイズが復活するかというと、正直難しいような気がしているんです。でも、異質なものと出会わせてくれるような、遠くて深いところまで連れて行ってくれるような批評や文章、言葉が必要なのは間違いないです。ハレをいかに連れてくるか、私も考え続けたいです。
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